シリア・ヨルダンへの旅

1997年初夏

 

 1996年に会社に入社し一年間様子をうかがっていましたが、翌年のゴールデンウィークにいよいよ行動を開始しました。会社に入って働き出すと金銭的余裕が出てきます。僕の場合は実家から通っていましたので実家にいくらか入れているとはいえ、自由になるお金が結構できます。特にボーナス、これは魅力的でした。先進国でなければボーナス1回分で10日間くらいの海外旅行は十分出来ます。

1996年冬の卒業旅行で中東デビューした僕は味を占め、トルコ以外の中東の他の国に行きたくなりなした。まずは、中学生の時から憧れだったダマスカス、アレッポやパルミラのある国「シリア」に白羽の矢を立てました。そして、シリアのとなり国ヨルダンにも行くことにしました。

 

<<参考リンク>>

2001年初夏レバノンシリア

シリアとヨルダンの位置

日程は以下の通り。

 

4月26日(土) 成田 =>(空路)=>モスクワ(泊)

4月27日(日) モスクワ =>(空路)=>アンマン(ヨルダン)=>( 乗合タクシー/国境越え)=> ダマスカス(シリア)泊

4月28日(月) ダマスカス==>パルミラ(宿泊)

4月29日(火) パルミラ=>(バス)=>ホムス(宿泊)

4月30日(水) ホムス ==> クラックデシェバリェ(十字軍の城) ==> ホムス ==> ダマスカス(宿泊)

5月 1日(木) ダマスカス(散策)=>( 乗合タクシー/国境越え)=>アンマン(ヨルダン)宿泊

5月 2日(金) アンマン=>( ミニバス)=>ワディ・ムーサ宿泊(ペトラ遺跡散策)

5月 3日(土) ペトラ遺跡散策/ワディ・ムーサ(宿泊)

5月 4日(日) ワディ・ムーサ==>アンマン =>(空路)=>モスクワ(宿泊)

5月 5日(月) モスクワ(ほぼ一日缶詰)==>(空路)=>成田(翌6日着

 

 空路は安いアエロフロートロシア航空を使いました。まあ安さの他にヨーロッパ経由だと行きすぎてしまい距離的にちょっともったいないので、すぐ真南のロシア経由を選んだという理由もあります(下記地図参照)。とはいえ、結果的には乗り継ぎの関係で帰りはほぼ一日ホテルに軟禁された訳ですから、どっちがいいんだかようわかりません。

 旅のスタイルは、往復のチケットとヴィザ(今回はシリアとヨルダン)のみを日本で手配し、そのほかは現地でなんとかするというバックパッカー定番のスタイルです。日本で予約できる宿は概して宿泊料金の高い宿ですし、予約してから行ってしまうと現地の状況により予定を変更するなどが出来なくなるため、この自由旅行のスタイルが僕にはあっています。

 まあ、行きたいところはだいたい目星を付けていますが、まさかヨルダンの首都アンマンに着いたその日に乗合タクシーで国境を越えてシリアに入るとは当初は考えていませんでした。アンマンですぐに国境越えタクシーを見つけることができたために出来た芸当です。まあどのみち帰国の際の空路出国はアンマンからでしたので、早めにシリアに入国しないと2カ国回るのはきついとは思っていましたが・・・。

 

なお、以下の記載のうち、4月26日(土)~28日(月)の記録は当時の日記をもとに書いているため記述が詳しくなってます。旅行最終日にトランジットでモスクワのホテルに缶詰になったときに時間つぶしで書いたものです。

 

1997年4月26日(土)

 都内の自宅を9時に出発し、成田空港に向かう。成田空港のHカウンター(団体旅行専用カウンター)にて旅行会社の職員から航空券を受け取り、アエロフロートロシア航空のチェックインカウンターへ・・・。

 そうそう、この時代の格安航空券はツアー会社でツアー(架空に近い)に申し込んでバウチャーを貰い、当日に空港にて航空券と引き換えるんです。その航空券を持って各航空会社の窓口にてチェックインするんです。最近は海外に行ってないので、最近の事情はわかりません。

 13時成田発のモスクワ経由ローマ行きのフライト(エアバス)のようです。席の周りの人たち(日本人)はみんな「地球の歩き方 イタリア」を出して読んでます。僕はモスクワでトランジット(乗り換え)て、ヨルダンの首都「アンマン」に向かいます。日本とモスクワとの時差はマイナス5時間、腕時計の針を5時間遅らせます。モスクワ時間の19時過ぎ、正味11時間ほどのフライトでモスクワに到着しました。5年ぶりのモスクワ・シェレメチェボ第2空港です。アンマン行きのフライトは翌日ですので、この日はモスクワで一泊です。ノボテルという国営の高級ホテル(バックパッカーの間では「監獄」と呼ばれている)に宿泊しました。

トランジットの手続が遅く、正味1時間くらい待たされている間に、数人のアンマンへ向かう日本人旅行者と仲良くなりました。

 

(※ノボテルが監獄と呼ばれたゆえんは、一旦部屋に入ってしまうとトランジット客は外出できないからです。文字通りの「缶詰」で

す。泊まってる階のフロアには出られますが、他の階には行けません)

 

(※以前あったトランジット客向けのモスクワ市内観光ツアーは廃止されたとのことでした。これを期待していたので残念でした)

 

写真は、
1)ノボテルから見た空港方面
2)ノボテルの駐車場側
3)ノボテルのロビー

 

1997年4月27日(日)

 8時15分にモーニングコール(電話)で目が覚めました。8時45分までに荷物をまとめて出てこいという。まったく、高級ホテルでは無く兵舎に泊まっている気分です。あわてて荷物を準備しセキュリティの場所まで行くと、他の乗客も集まってきました。鍵付きのエレベータで1階に降りて食堂まで案内されると、そこにはパンひとつだけどコーヒーとジュースという貧弱な朝食が用意されていた。

「え?これ朝食!?・・・」

期待はしていなかったものの想像以上にひどい扱いですw。

前日知り合った日本人旅行者と一緒に「これはひどいね」と文句を言いながら、食事を摂りました。

9時15分にチェックアウトし、バスで5分の空港へと向かいます。

モスクワからアンマンへのフライトの機体はツボレフです。国内線でよく墜ちるやつね(数年後にイランの国内でツボレフのお下がりのボロ飛行機に乗ることになるとは当時の僕には知る由もない)。

定刻の12時15分には離陸。離陸後1時間半もすると、海が見えました。どうも黒海のようです。黒海の海岸線に沿って飛行機は飛び、その後アナトリア(トルコ)の大地を横切り、地中海にでました。地中海を東へ向かうと、陸地が見え、白い雪をかぶったおそらくアンチレバノン山脈と思われる山々が見えました。山を越えるとその後はひたすら砂漠が続き、アンマン時間の15時20分、ほぼ定刻通りにアンマンの空港に到着しました。ほぼ4時間の空の旅でした。

 

 ヨルダン入国審査後、飛行機の中で知り合った日本人男性3人(渡辺くん、永井くん、亀井さん)と一緒にバスでアンマンの中心部に向かいました。アンマン中心部(アブダリバスターミナル)に到着すると、旅慣れた亀井さんはさっさと立ち去りました。

僕と渡辺くんと永井くんは、バスを降りたところで「これからどうしようか」と思案します。ふと見渡すと、「ダマスカス」という看板が出ている建物が目に入り、とりあえず3人でその建物に行ってみました。そこはセルビスタクシー(乗合タクシー)の事務所でした。

ダマスカス行きは常時出ているらしく、値段を聞くと5.5ヨルダンディナール(以下、「JD」と略します)らしい。すでに17時近くになっていたが、ヨルダン・シリア国境は24時間空いているそうなので、ぼくはその場でダマスカス行きを決めました。

そして渡辺くんはイスラエルに行くと決めていたらしいのでここでお別れだが、永井くんが決まらない。永井くんはシリアのビザを持っていてダマスカスまでのタクシー料金を一旦は払ったが、さんざん迷った末にキャンセルし、渡辺くんと一緒にイスラエルに行くことになりました。渡辺くん、永井くんとはここでお別れしました(イスラエルの入国スタンプがパスポートにあると、シリアのビザがあってもシリアに入国できないので、彼はもったいないことをしたなと思いました。日本に帰国後、この2人とは東京で再会しています。)

 セルビスタクシーの事務所の看板をあらてめて見ると「ダマスカス」「ベイルート」「バグダッド」「クウェート」って書いてあるけど、クウェートなんてアンマンから何時間かかるんだろうか・・・???1000kmぐらいあるんじゃないのかな?

 事務所前のセルビスタクシーの中で同乗の客を待ちます。セルビスタクシーは年代物のアメ車で、いまにも壊れそうな代物です。車の中には僕ともう2人のアラブ人客がいたが、定員のもう1人の客が来ないと出発しない。1時間ほど待ってようやく満員(僕を含めて4名の乗客)となって、ダマスカスに向けて出発したが、すでに18時を過ぎていました。

 

写真は、
1)空港からアンマン市内へのバスの中
2)アンマン中心部で亀井さんと分かれるシーン
3)アンマンから各方面に行くセルビスタクシーの事務所

 

 セルビスタクシーは北へ向かって飛ばす飛ばす、山がちのハイウェイをたぶん100km/h以上で走って行く。やがて夕闇迫る頃、国境手前(ヨルダン側)の雑貨屋の前でセルビスタクシーは停車。どうやら休憩と両替をするようです。僕も50JDを3600シリアポンド(以下、「£」と略します)と両替しました。この頃には乗客と運転手とは仲良くなっていました。

雑貨屋の悪役レスラーみたいな顔(失礼w)のおじさんはめちゃくちゃフレンドリーな人で「一緒に写真を撮ろう!」という。写真を撮ると、現像してここに送ってくれと名刺を渡された。名刺はアラビア語だったが、後日なんとかアラビア語の真似をして郵送したが、無事に届いたのだろうか?(この時はまだアラビア語を勉強する前だったので、アラビア語が読めたり書けたりできなかった)

<※デジカメがまだない時代なので、当時の写真はフィルムから現像する銀塩写真です>

 

上の3枚の写真は、乗合タクシーで立ち寄ったヨルダン・シリア国境のヨルダン側の雑貨屋でのスナップです。雑貨屋の主人と息子、タクシー運転手、乗合タクシー同乗者と一緒に撮りました。シリア内戦後、果たして彼らはご存命なのだろうか・・・?

1)ぼく(真ん中)と雑貨屋主人と息子

2)タクシーの運ちゃん(真ん中)と雑貨屋主人と息子

3)ぼく(左端)と同乗者(客)

 

 雑貨屋を後あとにし、しばらく走るとヨルダン側の国境検問所に到着しました。

まずは税関へ。しかし何も申告するモノがないので(当たり前だ、ヨルダンには3時間しかいなかったんだから)、すぐに終了。

次はイミグレーション(出入国審査)。あらかじめ車内で記入しておいた出入国カードとパスポートを渡し、約10分ほどで手続完了。

皆が出国手続を終え、タクシーに乗り込み、シリア方面へ・・・。

シリア側の国境検問所とヨルダン側の国境検問所はだいたい1~2kmくらいは離れているでしょうか?暗闇の中、何回か検問を通過し、シリア側の国境検問所に到着しました。おそらく国境緩衝帯で道以外の部分には地雷が埋められているのでしょう・・・。

シリアの国境検問所につくと、やはり下車し、税関とイミグレに向かいました。ピンクの書類を2枚書かされ、パスポートとともに窓口に提出しました。窓口のうしろの壁にはアサド大統領の写真が飾ってあり、そして事務所にはカーキ色の制服を着た軍人(?)たちがいました。文字通り、社会主義国に来たな、というのを実感しました。数分後、パスポートとピンクの紙1枚が戻ってきました。ピンクの紙は出国時に必要だということでした。シリア側の国境検問所を出発したときにはすでに20時20分でした。

国境検問所からはシリアの大地です(当たり前か)。さらにタクシーは北上します。

そしてシリアの首都ダマスカスについたのは22時になっていました。

ダマスカス中心部(マルジェ広場)に着いて、乗合タクシーを下車しました。そしたら、同乗者のシリア人(上の写真右端の方)が食事をしないかと言ってきました(ほとんど英語が話せない方なので片言で会話しました)。そこで近くの食堂で一緒に食事をしました(結局おごってもらいました)。

夕食を摂った後に今晩のホテル探しへ。とはいえ、ダマスカスは当然初めてだし、しかも真夜中なのでよくわかりません。

事前に調べておいたダマスカスの安宿「アルハラメイン」を探すことにしました。一緒に食事したシリア人氏も一緒に探してくれて、途中で知り合った警察官も協力してくれて、無事ホテル「アルハラメイン」にチェックインしました(23時をまわっていました)。

ホテルの部屋はドミトリーで一泊150£(300円)という破格の安さでした。まあ日本の感覚では「破格」なんでしょうが、当時のシリアの物価ではこんなもんです。同じ部屋にはノルウェー人ひとりと日本人ふたりが先客としていました。ゴールデンウィーク中なので、日本人比率が高かったのかな・・・?

この日はもうクタクタだったので、そのまますぐ寝ました。

 

1997年4月28日(月)

 朝7時に起床、さて今日はどうしよう。ベットの上で考える。そのうち同室の中年男性が目を覚ました。彼の名は萩原さんといって、フリージャーナリストだという。僕が「午後からパルミラに行こうと考えてる」と話すと、一緒に行こうということになった。

とりあえずふたりで街にでることにし、帰りの飛行機のリコンファーム(予約再確認)をするために航空会社のオフィスに向かう。僕はアエロフロートロシア航空(「5月29日通り」沿いにあった)、萩原さんはKLMオランダ航空のオフィスへ行き、無事リコンファームは終了した。

 その後、朝食を摂るためにふたりでマルジェ広場にあるアラブ料理屋に入り、僕はサラダとケバブとチャイを頼んだ(150シリアポンド)。ご飯を食べながらダマスカス新市街の様子を確認した。新市街の中心はマルジェ広場、そこからヒジャーズ駅への通りが新市街で一番賑やかな場所のようだ。

 

上の2枚の写真は、

1)アルハラメインホテルのドミトリー(後ろ姿は萩原さん)

2)アルハラメインホテル前(人物はぼく)

 

 朝食後にヒジャーズ駅近くにある郵便局で絵はがき用の切手を購入した。切手にはアザド大統領(※当時はまだ父親のほう)の肖像画が印刷されていて、独裁国家だというのをヒシヒシと感じる。町の至る所にもアサド大統領の肖像画が飾ってあるので、まさに独裁国家そのものである。

上の3枚の写真は、

1)マルジェ広場方面からヒジャース駅方面を望む(右側の肖像画があるビルが中央郵便局)

2)ダマスカス中心部の様子

3)マルジェ広場周辺の様子

 

上の2枚の写真は、

1)マルジェ広場近くの生鮮市場(サングラスの男の肖像画はアサド大統領の長男(交通事故で死亡))

2)建設中のビル、これはたぶん日本では建築基準法に引っかかりそう

 

 マルジェ広場で萩原さんはあるアラブ人に声をかけました。どうも闇両替をするらしい。シリアでは闇両替は普通に行われているらしく、あるビルの地下のレース屋に案内されました。レートは1ドル=50£、公定レートが43£なので1割ほど徳であり、これ以後、僕もこの手を使うことにしました。

一通り街を散歩した後、アルハラメインホテルに戻りました。すでにお昼近くになっていました。

そろそろパルミラに向かおうと思うが、どうやって行くのかよくわからない。セルビスタクシーに声をかけるも、一向に話が見えてこない・・・

 

<と、ここで当時の日記は終わっているので、この後は23年後の僕が思い出しながら書きます。>

 

 記録によると、どうもホテル前からタクシーに乗ってバスターミナルへ行き、バスターミナルでパルミラ(都市名はタモドル)行きのバスを見つけ、バスに乗ってパルミラに向かったらしい。

バスは途中で砂漠(荒れ地というべきか)の真ん中のチェックポイントで停車し、そこでちょっと乱暴そうな軍人(憲兵)の抜き打ち検査を受けました。このチェックポイントでアラブ人のひと家族が下ろされましたが、私たち(僕と萩原さん)は特におとがめ無く通過できました。

 

上の3枚の写真は、

1)ダマスカスからパルミラへ向かうバスの車内からの景色

2)検問所で抜き打ち検査中の車内からの景色

3)検問所の様子(盗み撮り)

 

16時過ぎにはパルミラ(タモドル)に到着しました。

パルミラの遺跡の近くにはタモドルという町(たぶんオアシス)があり、パルミラ観光にはこのタモドルが拠点となります(パルミラ遺跡までは徒歩で行けます)。タモドルは小さな町なので、ホテルも数軒しかありません。僕らはAFQAホテルというホテルにチェックインしました。交渉して朝食付きシングルで500£(10ドルぐらい)でした。

ホテルに荷物を置いて萩原さんと2人で遺跡巡りをしました(4月末なので日が長い)。

石坂浩二がナレーターをしていたNHK特集の「シルクロード」でその存在を知ってからずっと、小学生の頃から憧れてきたあのシリアのパルミラ遺跡にですよ!いまこう立ってる訳ですよ!

 

パルミラは紀元前から続く隊商都市で、ローマの属州でありながら半独立を保った都市でもあります。ローマに影響を受けた建物などが数多く残っています(いました)。

 

※2010年代のシリア内戦でISにかなり破壊されたと聞きます。いまはどうなっているのだろう・・・?

破壊前と破壊後を比較したサイトがありましたので、リンクを貼っておきます

 

ISから奪還のパルミラ遺跡、破壊前の写真と比較

https://www.afpbb.com/articles/-/3082532

 

 

上の3枚の写真は、

1)パルミラの遺跡で記念撮影する僕

2)門と列柱道路を前に記念撮影する僕

3)門と列柱道路

 

 パルミラの遺跡はタモドルの町から少し離れた(徒歩10分くらいか)荒れ地の中にあります。とにかく荒れ地の中に遺跡が広がっている感じです。門があってそこから列柱道路と呼ばれる両側にギリシア式の石柱が並ぶ道があります。道は四角い石が敷き詰められて舗装されています。

 

上の3枚の写真は、

1)列柱道路の列柱を見上げた写真、列柱の天頂にはギリシア式の彫刻が施されている

2)門をしたから見上げる、やはり彫刻が施されている

3)列柱道路と交差する道から門と列柱道路方面を見る

 

 パルミラ遺跡にはローマ式の半円形劇場が残っています。また、四面門と呼ばれる門の四つの柱もあります。柱の部分は復元ですが、頭頂部と台座部分は当時のままのようです。また、遠くの山の上にはアラブ城と呼ばれる城跡が残っています。アラブ城はイスラム化以降に作られた比較的新しい城です。

 

上の3枚の写真は、

1)ローマ式半円形劇場で記念撮影する僕

2)四面門とアラブ城(山の上)

3)パルミラ遺跡から遠くを望む

 

上の3枚の写真は、

1)四面門をしたから見る(4本の柱は復元らしい)

2)列柱道路の夕暮れ

3)タモドル市街へむかう道

 

1997年4月29日(火)

 この日はパルミラ(タモドル)で朝を迎えました。前日の夕方にだいたい遺跡の全体を見て回れたので、今日はバル神殿を見てからアラブ城にむかいました。朝食を摂った後に萩原さんとふたりで散策しました。バル神殿ってのはギリシアの神様のバール神を祀った神殿であり、地中海のギリシア・ローマの遺跡にはだいたいあります。

 

上の3枚の写真は、

1)バル神殿(入口側より)

2)バル神殿(裏側より)

3)バル神殿の祭壇

 

上の3枚の写真は、

1)バル神殿

2)バル神殿

3)バル神殿

 

 バル神殿を見学して、パルミラの遺跡はだいたい見尽くしたので、山の上のアラブ城に行こうということになりました。パルミラの遺跡を横切り、アラブ城のほうへ歩きます。左手側の丘にはビルのような石造物がありますが、かつて鳥葬に使われた塔だということです。鳥葬なのでたぶんゾロアスター教だと思います。

 

上の3枚の写真は、

1)アラブ城に行く道すがら、パルミラ遺跡を撮る(たぶん神殿)

2)アラブ城に行く道すがら、パルミラ遺跡を撮る

3)鳥葬の塔らしい(ゾロアスター教?)

 

 山の上のアラブ城からはパルミラ遺跡や隣接するタモドルの町が一望できます。タモドルの町の手前に草競馬場があるのが見えてので、山を下りて町に戻る道すがらに寄ってみました。

 

上の3枚の写真は、

1)目指すアラブ城

2)アラブ城に登る途中から見たパルミラ遺跡

3)アラブ城山頂付近から見たパルミラ遺跡

 

上の3枚の写真は、

1)アラブ城山頂付近から見た鳥葬の塔

2)アラブ城山頂付近から見た草競馬場

3)アラブ城山頂付近でのスナップ

 

 草競馬場近くには砂漠の民ベドウィンがキャンプを張っていました。なんでも、数日後にパルミラフェスティバルというお祭りがあって、草競馬が行われるということ。さすがにあと数日ここに留まるわけにもいかないので、パルミラフェスティバルの見学はできませんでしたが・・・

 

上の3枚の写真は、

1)草競馬場でのスナップ写真

2)草競馬場のベドウィンテント

3)ベドウィンの民と一緒に写真を撮る

 

 タモドルの町へ戻ると、道で子供たちが遊んでいました。カメラマンの萩原さんは各国の子供たちの写真を撮ることを仕事としていますので、ここぞとばかりに写真撮影です。僕も便乗して子供たちと記念撮影しました。

 

上の3枚の写真は、

1)タモドル市内の子供たち

2)タモドル市内の子供たちと萩原さん

3)タモドル市内の子供たちと僕

 

 この日の午後、タモドルの町を後にしました。地中海沿岸にむかう萩原さんともここでお別れです。僕はシリア中部の町ホムスへ向かうためバスに乗り、タモドルを去りました。

 

上の2枚の写真は、

1)ホムスのレストランで食べた夕ご飯

2)ホムスのモスク

 

1997年4月30日(水)

 この日はホムスで朝を迎えました。今日は十字軍の城クラックデシェバリェへむかいます。

 

上の3枚の写真は、

1)クラックデシェバリェ近くのキリスト教徒の村

2)クラックデシェバリェの城壁

3)クラックデシェバリェの城壁

 

 

※この記事は2020年12月に当時の資料を参考にして作成しました。そのため記憶違い等が含まれている可能性があります。