ロバのティールーム >> ロバのコラム目次<時系列> >> ロバのコラム_2001/01/27

ロバのコラム、無茶を承知でデイリー化  2001年1月27日 土曜日(大雪でした)

 

今日からなるべく毎日ここに何かを書いていこうと思う。いわゆる日記ね。わりと多くのホームページでこういった日記風のコーナーを持っているから、その真似っこになってしまうけど・・・。でも、ホームページに日替わりで更新される部分があると読んでいる人にとっても楽しみになるわけで、がんばって(まあ「がんばる」って言葉もあんまり好きではないけれど・・・)書いていこうと思います。実際ぼくも読むのを楽しみにしているページがあるえわけですから・・・。そもそもこの「ロバのコラム」はそのつもりで開設したんだけど、更新があまりされていないですね。ほとんど死んでますね。この際ですから、このコラムを蘇生させます。今日は蘇生の第一回、さてさて何を書こうかな。そうそう

 今日は、がっこ(慶応通信)の試験を受けてきました。大雪でなんだかんだ大変でしたが、まあなんとか。今日受けたのは「現代倫理学の諸問題」という科目でした。恥ずかしながら初めてじゃないんだよね、この科目の試験を受けるのは・・・、まあそれは良しとして。これは実存主義的な色合いの濃い科目で、昨日の夜と今朝とキルケゴール、ハイデガー、サルトルと復習しました。しかし、勉強の甲斐なく結局これらは出なくて、もっと比較的簡単な問題がでました(問題の公表はまずいみたいなので、ここでは書きませんが)。でもこの復習が結構為になったというか、おもしろかったですねぇ。サルトルとハイデガーってのは問いの立て方ではほぼ同じなんですね。現存在が意味を存在者(もの)に投げかけて、世界内存在を構成するところまでは・・・。その後のサルトルの「社会参加」への視点、以前は合点がいかなかったんですが、ようやく判った気がする。なるほどと思いましたね。世界内存在は対自(現存在)の即時(存在者)への投げかけによって構成されるわけだから、その投げかけを良き方向に変えてやれば現状を乗り越えた自分にとってよりよき世界内存在を再構成できるのではないか、と考えたのではないか。積極的な社会参加は、今の自分を否定し乗り越えようとする対自(現存在)の実践であると、彼は考えたのではないか、そう思いました。今までハイデガーはまあある程度は実存主義者としてしっくりきていたんですが、サルトルはしっくりこなかったんですが(特にアンガージュマン(社会参加))、ようやくなんか判ってきたような気がします。曲解かも知れませんが・・・、もし間違っていたら教えて下さい。