会合日時:2002年 6月30日(日)
担当:あだ
テーマ:「 フロイト『精神分析入門』第2部 夢 を読む 」
1.【夢と神経症】
精神分析とは、主に神経症と呼ばれる精神病理の一種を治療する技法とその理論のことであり、オーストリアの精神科医S.フロイトによって創始された。まず、神経症と呼ばれる病気はその症状の例を挙げることは容易だが、その意味や定義となるととたんに曖昧になってしまうという事情がある。この神経症とは何かということに関しての論考は後述にゆずことになるが、フロイトの『精神分析学入門』では、我々が神経症を理解するのに適切な概念としてまず錯誤行為を、そして、その後に「夢」という身近な例が取り上げられるのである。
みなさん、かって、ある種の神経症患者の病気の症状は無意味なものではないという発見てこの治療中に、患者が自分の症例の代わりに自分の夢の話を持ち出すということがあったのです。そこで、夢にも意味があるのではにかという推測が生まれたのです。(略)夢の研究は神経症研究の最上の準備となるばかりでなく、夢そのものがまさに神経症的な症状であり、しかもすべての健康な人に見られる神経症的な症状であるという点で、われわれにとって、夢は計り知ることのできない利益を持つからです。いやそればかりではなく、もしすべての人が健康であり、夢をみこそすれ決して病気ではないとしても、われわれは神経症の研究によってえられた知見のほとんどすべてを、健康な人たちの夢からもうることができたことでしょう」 (『精神学入門』S.フロイト)
しかし、夢という研究対象は、具体的に患者に接して症例を観察できる神経症の研究に比べてみても研究しにくい。この特徴をフロイトは、夢の研究は1.それを見た当人の記憶に頼らなければならないこと、2.夢の記憶が大抵「不確か、はっきりしない」ということを挙げている。しかし、またフロイトはこれらの特徴は夢の性質であって、このことによって夢が研究対象にできないということはないと強調する。
加えてこの「不確か、はっきりしない」という夢の特徴は、我々から見た神経症の特徴でもあるという。フロイトによれば2つはよく類似する。神経症患者の言葉、認識、世界観は意味が通りにくく、あいまいである(これは意味がないということではなく、それを知るのに分析を要するということだ)。『精神分析学入門』には、ある強迫神経症の女性の患者がフロイトに初対面の挨拶する例が出てくる。
「私はなにかを―子供かしら―いや、犬かしら―なにか生きものを傷つけたような、傷つけようと思ったような気がするのです。たぶん、橋から突き落とした―いいえ、違ったかしら…」
この患者の言説は非常に不鮮明な内容であり、われわれはここから類比的にいくらでも意味が読み込める。または、文脈がないために、その意味はほとんど決定不可能であるといえる。分析によってこのような神経症患者の言説から意味を把握するためには、「夢をみた人が語るがままのものを、その人が見た夢とみなし、本人が何かを忘れたり、変更を加えたりしているかもしれないという顧慮をすべて棄てる」という認識が前提となる。
また、神経症という領域には、われわれが普段気にとめない、些細なことが大きな意味となって現れてくる。この点でも夢は神経症と類比的であると言える。夢は我々の日常にとっては些細なものだが、それが重要な意味となって現れてくる場面もあるからだ。フロイトによれば夢から覚めたときの気分がその日いっぱい続くこともあるし、夢をみたのと同時にある精神病が発病し、この夢に由来する妄想が固着してしまう例もあるという。また、夢占いにみられるように、夢が大きい事業を始めるきっかけになることもある。
2.【精神分析と科学】
19世紀後半から20世紀初頭の精密科学(科学一般)は、夢を生理学的な問題として扱ってきた。そこでは、夢を心的行為としてではなく、むしろ心的活動における身体的な刺激の現れと受け取られるのである。しかし、精密科学には解釈(精神分析的に現象の意味を求める態度)が欠けていることをフロイトは主張する。
『精神分析学入門』では、睡眠中に作用した身体的な刺激が夢の内容にどんな影響を及ぼすかについての研究が挙げられている。ここでは目覚まし時計の音に対する反応として夢の例を見てみる。
第1の例。(略)しばらく鐘は静止していたが、やがて揺れ始めた―そして突然その澄んだ音がひびきわたった。―その音があまりにも冴えてひびきわたるために、私の眠りは終わりを告げてしまった。その鐘の音は目覚まし時計のベルの音であった」
夢と刺激の組み合わせ第2の例。(略)ついに手綱がひかれた。力強く振られる馬の鈴が有名なトルコの軍楽を奏し始めたが、その強烈な学の音のために私の夢の網の目は破られてしまった。これもまた、目覚まし時計の鋭いベルの音に他ならなかった」
さらに第3の例。(略)女中は戸口の敷居のところでつまずいた。―もろい器は床に落ち、がちゃーんと音を立てて、粉々になり、破片は床の上に散らばった。しかし、―私はすぐ気がついたが、このいつまでも続いている音はどうも、ものの砕ける音ではない。正真正銘ベルの音だ。―目が覚めてからわかったのだが、このベルの音は目覚まし時計が時を告げている音だった。 (『精神学入門』S.フロイト)
夢では目覚まし時計の音は、目覚まし時計の音として認識されていない。つまり目覚まし時計という対象は夢のなかに現れず、その音は他の音として代理されている。夢は眠りを妨げる刺激をその都度自分なりに解釈している、ということがこの観察からわかるのだ。しかし、加えられた刺激(ベルの音)が夢の中に現れるということ理解できるが、なぜその形(鈴の音、鐘の音、皿の砕ける音)を取って現れるのかははっきりしない。夢の原因を睡眠中の直接的刺激に還元することはできないのである。フロイトによれば眠りを妨げる外界からの刺激は、反応としての夢の一部分を説明しうるに留まる。
さらにフロイトは体内器官からくる身体的刺激(器官刺激)について論じる。確かに胃や膀胱、性器の状態が我々の夢に影響を与えていることは疑えない。しかし、体内刺激の場合も外部刺激と同じように、その刺激が夢の中でどのように作用しているかを明確にはできない、と結論される。つまり、我々が夢の外側から行う観測、分析においては、夢の意味―精神分析的な解釈にはたどり着けないのだ。
★しかし、精密科学(科学一般)の限界を指摘しつつも、フロイトの全思索に通底しているのは、「一つの統一的な理論によって世界のすべてが説明できるはずだ」という19世紀的科学主義である。フロイトは精神分析こそが、精密科学と統一理論を橋渡しできる理論だと信じていた。実際、フロイトの理論は、解剖学、経済学、物理学、社会学などの様々な術語(備給、抑圧、歪曲、検閲、解釈など)によって支えられており、フロイトの論述には一元論的な傾向が強くみられる。しかし、これら諸学(解剖学、経済学、物理学、社会学)の観点に立てば、精神分析の術語はすべて比喩になってしまうという逆説がある。フロイトは19世紀の諸科学から概念を借りることによって、人間の観念または心というものを「客観的」に記述していく領域を切り開いたと言えるだろう。このことの意味は大きく2つある。1つは、我々は、もはや精神分析的知(エピステーメー)の外側に立てないこと。1つは、フロイトのいう精密科学(実証科学)では記述できない領域が我々の認識にあること。そして、われわれは精密科学(実証科学)の比喩を用いてその領域を「客観的」「精密に」記述でしているいうことである。実際、20世紀に入ってからも精神分析は他の諸学(生物学、生理学、言語学、文学)から術語を導入しているが、それらの学問によって精神分析自体が規定されることはない。また精神分析を科学と結びつけようとする試みも続いているが、それらは失敗し続けている。
3.【精神分析的な最初のアプローチ】
驚くほど不確かで多種多様な夢というものの性質を1つの命題にまとめ上げるのは困難である。しかし、それでもいくつかの性質を簡単にまとめることができる。
1.夢をみるときには我々は眠っている。
2. 夢と現実には差異がある。(夢は覚醒時とは違った心的特殊性を持つ)
3. 実世界への実践的な関心が中断されている。
4. 眠りは苦痛のない休養の状態である(フロイトは母胎内、太古的世界という比喩を用いる
5.夢と眠りの間に密接な関係がある。
フロイトは、夢に対する最初のアプローチとして次に挙げられるような事柄を推論していく。種々の身体的な刺激の例(目覚まし時計のベルの音の例)から、夢は眠っている間に働きかけてくる刺激に対して心が反応する仕組みだということ。心的活動が睡眠中も引き続き残るということと、この心的活動の残存こそ夢ということ。また、我々は夢の中でいろいろな体験をするが、外からの観察によれば眠りを妨げる刺激以外のものは体験していないこと。
しかし、これらの説明が観察からの推論の粋をでるものでなく、精神分析が本来言及する領域でないことには、フロイトも自覚的であった。夢を内側から論じる次のような記述が精神分析学的記述の典型であると言える。
刺激は主として視覚像として体験されます。この体験には同時に感情が伴っていることもあり、思想がその中を貫いていることもあり、視覚以外の感覚を体験することもありますが、その主なものは視覚像です。夢について語ることの困難の一部は、この視覚像を言語に翻訳しなければならないということからきているのです。描くことはできるかも知れないが、どういっていいかわからないと、夢をみた人がよくわれわれに言います。しかし、そういったところで、夢は、天才に比べた場合の精神薄弱者の心の活動のように、低下した心的活動の所産ではないのです。夢は質的に異なる別種の心的活動です。
(『精神学入門』S.フロイト)
続けてフロイトは夢の多様性を描き出す。
夢の規模にしたところが、ほんの1つ、または2,3の視覚像しかもたない夢や、わずか1つの考え、いやそれどころかただ1つの言葉しか含まないような短い夢が一方にあるかと思うと、他方には内容がひどく豊富で一編の小説となっていて、」非常に長く続いたように感じられる夢もあります。(略)われわれに全くなんの感動も与えない夢もあれば、あらゆる感動が高まって、苦痛を感じたり、時には泣いたりしてしまう夢もあります。また、不安のあまり目が覚めたり、驚嘆したり、恍惚となったりする夢もあります。(略)要するに、このささやかな夜ごとの心的活動は膨大なレパートリーを持っていて、心が日中に作り出すことのできるものはなんでも作り出してみせるのですが、だからといって決して、昼の心的活動が作り出すものと同じものは作り出さないのです。
(『精神学入門』S.フロイト)
また、ここでフロイトは夢と類似した現象として、「白昼夢」に言及する。白昼夢は夢と違い覚醒時に生じる。また、現実感覚との比較においては夢と同じようにリアルでないという特徴を持つが、白昼夢の中では体験したり知覚を感じるということが、夢ほど受動的ではない。つまり、白昼夢という現象のなかで、我々は自分がそれを心のうちに描き出しているということを知っており、「見ている(知覚している)」というよりは、「考えている」(想像している)のである。このように白昼夢が能動的契機を持つということは、フロイトによれば白昼夢がはっきりした「動機」によって支配されていることを表している。
「白昼夢の中の情景や出来事においては、利己的な欲求、野心、権力欲あるいはその人の性愛的な願望が満たされる」のである。また、白昼夢が生活事情(環境)の変化によって変わっていくという特徴を、「時の刻印」を受ける、と言い表している。これらの白昼夢の特徴が、我々にとっての夢というものを考えるときにいかに示唆的であるかはフロイトの論述が進むにつれて明らかになっていくことになる。
4.【夢判断の前提】
前半のような考察を踏まえてフロイトは第6講の冒頭において提案する。
すなわち、これからの研究のために、夢は身体的現象ではなく心的現象であると仮定しましょう。(略)事情はこうです。もし、夢が身体的な現象であれば、夢は我々には何の関係もありません。夢は心的な現象だと前提されるときだけ、夢はわれわれ(注:精神分析的観点)の関心を惹くのです。すなわち、われわれは、夢が心的な現象であるという前提の基に研究を進め、そうするとどうなるかをみていこうというのです。
(『精神学入門』S.フロイト)
これは夢を身体的、形式的な観点つまり外側からの記述ではなく、その意味―つまり解釈を記述していこうという精神分析的なマニュフェスト(宣言)である。この視点は精神分析と同じように20世紀の思想全体に強い影響を与えた哲学者E.フッサールの現象学や、神経症ではなく精神病についての記述理論に影響を与えた哲学者M.ハイデガーの現存在分析の視点に類似している。しかし、先ほど述べたようにフロイト自身は、精神分析的な視点が科学的視点の枠を超えてしまうというところに自覚的ではなかった。むしろ、精神分析を科学と観念的、心的な領域を統合する理論と考えていたのである。
さて、白昼夢の分析によって白昼夢自体には明確な動機があることが分かった。ここで、フロイトはそれを夢に対しても当てはめる。つまり、フロイトによれば夢にも白昼夢と同様に動機があるのだ。そして、この動機を解釈するのに最も簡単な方法は夢を見た当人に聞くという簡潔なものである。
さて、もしも私がみなさんに対して、私自身についてのわけのわからないことを述べたとすれば、たぶんみなさんは私に、『それはいったいどういうことか』と質問なさるでしょう。とすれば、なぜわれわれもそれと同じことをしてはならないのでしょうか。すなわち、夢をみた人に向かってあなたの夢はどんな意味をもっているのかときけばいいではありませんか
(『精神学入門』S.フロイト)
通常、我々はあらゆる言説がその当人にとって意味を持っていることを確信している。つまり、発言に動機、意図を見るのである。錯誤行為や夢という現象が言説と類比的なのは、それが主体の行った「行為」として我々に現れることである。(夢は「見る」という行為として現れる)。ここで「動機」を明確にする(解釈する)ためにフロイトは夢をみた当人に直接尋ねることを提案するのだが、後述するようにあらゆる「動機」はコミューニケーションの中でしか明らかになり得ない。従ってこの最も簡潔でプリミティブな質疑「夢はどんな意味を持っているのか」に対して夢をみた当人は答えられないのだが、ここでフロイトは次のように述べる。
私がみなさんに言いたいのはつまり、夢をみた人はその夢がなにを意味しているのかを知っているのだ。ただ自分が夢の意味を知っているということを知らないのであり、そのために自分が知らないと信じているだけなのだということです。(略)われわれが、夢をみた人に対して仮定しようとしているようなこと、つまり人は自分が知っていることを全く知らずにいるというようなことは、どこで、どの学問の領域で証明されているでしょうか。しかもこれは、心的活動に関するわれわれの見解を変えてしまうような、注目すべき、意想外の事実であり、隠れもない事実なのです。ついでにいえばこの事実は、これに命名すると、自分からどこかへなくなってしまいますが、しかしあくまでも現実の存在であることを主張します。つまり1つの『形容矛盾』なのです。 (『精神学入門』S.フロイト)
★ここでフロイトが記述を試みているのは、精神分析の大前提である「無意識」という概念である。これも後述することになるが精神分析―夢の解釈は、分析者のみにおいては完結しない。それは、被分析者(ここでは夢をみた当人)が知ること(了解)において完結する。つまり精神分析の解釈(意味)は、「自分が夢の意味を知っているということを知らない」という無意識の知を前提とするのだ。しかし、フロイトの述べるようにこれは論理的な視点(単純に論理学的な視点を考えてみればよい)では「矛盾」である。例えば現象学的な構えからは、「知る/知らない」の分節と段階的な「知る」の確信の構造として分析されるのだが、ここでフロイトはそのような観念的な記述を取らない。この節においてフロイトは、催眠現象、暗示という実例によって、この「形容矛盾」を説明しているのである。このフロイトの説明が説得力のあるものかどうかはともかく、フロイトの無意識の概念が、現代までに我々の知に通底するような概念になった根拠には、「知っているということを知らない」という命題から我々が受け取ことができる直観があるからだということは指摘してよいだろう。我々の認識には常に規定を逃れるよな曖昧な契機があり、実際の生活でそれを体験することがあるということだ。しかし、その曖昧さの根拠を実体(または形式)として終点まで遡行できると信仰したところにフロイトの誤りがある。我々はこの無意識の「知っているということを知らない」という命題と古代ギリシアの哲学者プラトンの有名な箴言「知らないということを知っている(無知の知)」から、精神分析的な知の本質を「知っているということを知る(知の知)」と比喩的に定式化しておこう。
5.【夢判断の技法】
さて、ここからフロイトの論述は夢判断(解釈)の技法に入っている。
そこで問題はただ当人に当人がそれを知っていることに気づかせて、それをわれわれに報告することができるようにしてやるという点にあるでしょう。われわれは、夢をみた人がその夢の意味をただちにわれわれに報告するというようなことは要求しませんが、その夢の由来、夢が出てくる源となる思考や関心のありかをみつけだすことはできるだろうといっているのです。(略)われわれは、夢をみた人にどうしてそんな夢をみるようになったかと尋ね、彼がその場ですぐに言うことをその説明とみなそうというのです。彼が何事かを知っていると信じて言おうと信じていまいと、そんな相違には目もくれないで、どちらへ転ぼうと本人の答えを唯一のものとして取り扱うのです。 (『精神学入門』S.フロイト)
そして、この技法(夢をみた当人の思いつきに任せるという技法)が恣意的であるという批判を念頭に置いてこう解説する。
それは、こころの自由と恣意性に対する信念がみなさんの心の中にしっかりと根を下ろしているが、しかしその信念は非科学的であって、心的活動を支配している決定論の要請には屈しなければならない、ということでした。(略)私が、なんらかの夢をみた人をうながして、夢のある要素について思いついたことを語らせる時、私はその人が出発点となる表象をしっかり念頭に置いたうえで自由な連想のおもむくままに語ってもらいたいと言っているのです。つまり、そのやり方は注意力の特別な配分を要求しているのであって、それはものごとを熟考する場合とは全く違っており、熟考を排除するのです。(略)しかしこの思いつきは、心の内部の、意味深い体制によって、いつも厳密に決定されていることがわかります。ただ、この態勢はそれが活動している瞬間には、それがどういうものであるか、われわれはわかっていないのです。それはちょうど、錯誤行為の時の妨害する意向や、偶発的行為を引き起こす意向がわれわれにわかっていないのと同じことです。
(『精神学入門』S.フロイト)
この部分の記述は抽象的である。フロイトの言葉をそのまま借用して説明してみよう。我々の心が日常では自覚できない体制によって規定されているとすると、ある条件(「注意力の特別な配分」と「出発点となる表象」)を整えることによって、隠されている動機・意義へと自然に向かうということになる。「注意力の特別な配分(自由連想)」とは自意識の活動を押さえること、「出発点となる表象」とは夢をみた当人と分析者の間で共有されているキーワード、つまり「夢の意味」のことである。フロイトは自由連想が隠された目標(意味)に向かって突き進んでいく様子を「不可解な確実さ」と形容している。
また、無意識を規定している規制、制約とは何だろうか。ここですぐ後のフロイトの回答は「被験者の身近な事情、いろいろな特性およびその思いつきの瞬間の状況など」というふうに精神分析的には定式化されていない。しかし、その後、思いつきを規制、制約しているものをコンプレックス(複合観念)として定式化している。
調べてみると実際にいろいろの思いつきは、その発端となる一表象によってわれわれが加えた束縛のほかに、さらにもう一つ、強い感情をともなう思想や関心の得よう行き、すなわちコンプレックスに左右されていることを示しています。このコンプレックスがそこに同時に働いているということは、その瞬間には本人には分からないのです。つまりそれは無意識的なのです。(略)ですから、夢の要素に結びついて、さらに浮かんでくる思いつきもまた、その要素のコンプレックスを発見できるようになるだろうと期待しても、これは行き過ぎではありません。 (『精神学入門』S.フロイト)
6.【夢の顕在内容と潜在思想】
ここまでの考察の結果をフロイトの進み行きをフロイトは次のようにまとめる。
夢の要素については、われわれはそれが本来的なものでなく、他のあるものの代理物であるという見解を持っています。代理物とは、夢をみた人は自覚していないが、錯誤行為の場合の意向と同じく、その人の心の中にはそれについての知識が存在しているはずのあるものの代理物という意味です。われわれは以上の見解を、このよううな要素から成り立っている夢全体に及ぼしてもいいと思っています。われわれの技法は、そういう要素についての自由連想によって、別の代理物を浮かび上がらせ、その別の代理物にもとづいて隠れているものを推測できるようにすることを目指しているのです。 (『精神学入門』S.フロイト)
続けてフロイトはこの「隠されているもの」という用語の変更を提案する。
隠されているとか、手がとどかないとか、本来的なものではないとかと言う代わりに、もっと正確に、それは、夢をみる本人の意識にとっては、到達不可能である、または無意識的であるということにします。(略)当然のことですが、この無意識に対立させて、夢の要素自体と連想によって新しく獲得された代理表象は意識的と呼んでいいでしょう。(略)さて、1つひとつの要素についてのわれわれの見解を夢全体に及ぼしてみますと、夢は全体としてはある他のもの、すなわち無意識的なものの歪曲された代理物であり、夢解釈の課題はこの無意識的なものを発見することにあるということになります。
(『精神学入門』S.フロイト)
つまり、夢の要素の背後に隠された「無意識的なもの」を自由連想によって浮かび上がらせることが夢判断(解釈)の課題なのだが、フロイトによればそれは容易に行われない。われわれの心に次のような表象が浮かび上がってきたとき、われわれはそれを報告せずに捨象する傾向があるからだ。フロイトによればその表象は「あまりにもとるにたりない、あまりにもばかげてる、ここには関係はない、ひとに話すにはあまりにも不快だ」というものである。フロイトはこの傾向を「抵抗」と命名する。
この抵抗は全く新しいもので、われわれの前提にもとづいて見つけた一現象でありながら、この前提に含まれていなかったものです。(略)われわれは、夢の要素であるところの代理物から、そこに隠されている無意識的なものへと押し進もうとする時には、きまって抵抗に出会います。だかこそわれわれは、代理物の背後には意味深いなにものかが隠されていると考えてもいいのです。 (『精神学入門』S.フロイト)
また、ここでフロイトが抵抗の種類ではなく、その大きさのみに着目している。
抵抗という力動的な観念をこの事態の中に導入させると同時に、われわれはまたこの要因が量的な変動を示すものであることを考えなければなりません。抵抗には種々の度合いがあるのです。そしてわれわれは、夢の解釈の作業中にこの強弱の変動を経験することになるでしょう。(略)つまり、たいていの場合は1つ、あるいは2つ、3つの思いつきで夢の要素からその無意識的なものへたどり着くことが出来るのですが、長い連想の鎖をつないだり、多くの批判的な反対を克服したりせずには、そこへたどりつけない場合もあるのです。これらの差異は抵抗の大きさが異なっていることと関連があるとわれわれは考えるのですが、おそらくこの考えは正しいと思います。抵抗がわずかであれば、代理物は無意識からそう遠く離れていないことになりますし、大きい抵抗は無意識的なものの大きな歪曲を結果し、当然、代理物から無意識的なものへの道も遠くなるということになります。
(『精神学入門』S.フロイト)
この節の後半から実際に夢が取り上げられ分析がなされるのだが、1つの夢に対する分析(解釈)は膨大な文章を必要とするためフロイトは夢の全体の分析(解釈)を手がける代わりに、夢の個々の要素を分析(解釈)することを提案している。1つの例を紹介しよう。
夢:ある婦人が語ったことですが、子供の時に紙製のとんがり帽子をかぶった神様の夢をよくみたそうです。
分析:彼女は、子供の頃、食卓につくときには紙製のとんがり帽子をかぶせられるのがならわ しでした。というのも、兄弟姉妹の皿に自分の皿よりもたくさんのごちそうが盛られているのではないかと、盗み見する癖があり、それがどうしてもやめられなかったからです。帽子は目隠しの役をしていたことになります。(略)『神様はすべてを知り、すべてを見ておいでだと聞かされていましたので、この夢はみんなが私を邪魔しようと思っても、私は神様のようにすべてを知り、すべてを見ているという意味だと思います』と彼女は語ってくれました。
実際の夢を分析(解釈)するにあたってフロイトは、始めから現れている夢の内容を「夢の顕在内容」、分析(解釈)を通じて到達できる隠されているものを「夢の潜在思想」と術語づける。そして、顕在内容と潜在思想の関係を論じている。(この術語には2回の変更が行われたことになる。「隠されているもの」→「無意識的なもの」→「夢の潜在思想」)
(略)顕在的要素は潜在思想の一成分でもあるのですが、しかし、そのほんの一小部分たるに過ぎないのです。無意識的な夢の思想の中にある、大きい心的な合成物の中から、その一小部分だけが顕在無二入り込んできたのです。その入り込む様子は、まるで一大合成物の一破片として、あるいはその仄めかしとして、見出し文句として、電文の略語のような言葉として入り込んできた、といってもいいでしょう。夢の解釈の仕事は、(b)の例で見事に成功しているように、夢の断片や仄めかしから全体を完成させて行かなければなりません。夢の作業は歪曲にあるといっていいのですが、その歪曲の1つの仕方は、断片や仄めかしによる代理形成です。 (『精神学入門』S.フロイト)
この後、フロイトは歪曲の仕方にさらにもう1つを付け加えるため、夢の分析(解釈)の例を3つ挙げているがうち1つを引用してみる。
夢:夢のなかで、ある知り合いの婦人をベッドのかげから引き出した(hervorziehen)というのです。
分析:彼は最初の思いつきから、自分でこの夢の要素の意味を見つけだしました。すなわち、この婦人が好き(Vorzug geben)なのだ、という意味です。
この新しい歪曲は、簡単にいえば言葉の音と意味の問題でもある。フロイトは次のように記している。
ここでは、顕在要素が潜在要素の歪曲などではなくて、むしろもとの語義から出発した、潜在要素の一表現、その造形的、具体的形象化なのです。しかし、だからこそ、ここにもまた歪曲が生じるのです。我々はある言葉について、それがどのような具体的な形象から出てきたものであるかをとっくに忘れていますから、もとの言葉が形象によって代理されているのをみても、そこからもとの言葉を見つけることをしかねるのです。顕在夢が主として視覚像からなっており、思想や言語からなることは少ないということを考えてみれば、みなさんは、いま述べたような関係は夢の形成にあたって特別な意味を持っていることを察知なさるでしょう。また、多数の抽象的思想に対して、顕在夢の中で、これを隠す役目を果たす代理の形象を作り出すことは、このようにして可能になる、ということもお分かりでしょう。これは判(はん)じ絵の技法と同じものです。(『精神学入門』S.フロイト)
普段、人の思考内容(フロイトの言い方では思想)は、言説として現れている。しかし、顕在夢においてそれは視覚的な形を取って現れているために、分析(解釈)では言葉の「音」としてその思考内容が媒介されるということであろう。これも後述するがフロイトによれば、夢のなかでは思考内容(思想)を含めたあらゆる対象(オブジェクト)が平板化され同等のレベルで動いているのである。このように思考内容(思想)が分析によって明らかになるという性質をフロイトは「判じ絵の技法」という比喩で表している。
★判じ絵とは絵画、図画などに、形、音や意味の繋がりなどを利用して、ある意味を隠しておくものである。例えば江戸時代のある歌舞伎役者の半纏(はんてん)の文様には「斧」と「琴」と「菊」の順番で細かい図柄が格子状に織り込まれていた。これは絵柄の表す表象の音を利用して「よき」「こと」「きく」。つまり「良きことを聞く」という内容を意味する。
7.【エリーゼ・Lの夢】
今度はいよいよ夢の個々の要素ではなく、1つの夢全体を分析(解釈)してみようとフロイトはいう。
夢:まだ若いのですが、結婚してからもうかなり年数の経っている婦人のみた夢です。「夫といっしょに劇場の座席にすわっています。片側の平戸間席は全部空席でした。夫は私に、『エリーゼ・Lもその許嫁といっしょに来たかったが、3枚で1フローリン50クロイツァーという悪い席しかなかったし、そんな席では彼らの気に入らなかった』と言いました。私はそんなことは別に不幸なことではないと思いました」という夢です。
分析1:夫は実際に、エリーゼ・Lという、婦人とほぼ同じ年頃の知り合いの婦人が目下婚約中であることを話してきかせていたのです。夢はこのニュースに対する反応でした。(略)片側の平戸間が空席だったというのは、なにに由来するでしょうか。それは前の週にに現実に起こった事件をほのめかしているのです。彼女はある芝居の出し物を見に行こうと思い、早々と切符を手に入れました。ところが、あまりに早めに求めたので予約発売の手数料を払わなければなりませんでした。劇場に行ってみると、自分の心配が杞憂にすぎず、平戸間は片側がほとんど空席でした。切符は見物の当日に買っても充分に間に合ったのです。(略)―では、1フローリン50クロイツァーというのはどこからきたのでしょうか。それはこの話とは全く縁のない関連からきていますが、しかし同じように前日にあった出来事をほのめかしています。すなわち、夫の妹が夫から150フローロンもらいまいした。するとこのおばかさんは、せっかちにもさっそく宝石店へ駆けつけ、財布をはたいて装飾品を買ってしまったのです。さらに3という数字は。これについて婦人は、花嫁となるエリーゼ・Lが、10年も前に結婚した自分よりも3カ月しか若くないということは思いつくが、それ以外はなにも思い浮かべることはできないと言いました。
分析2:彼女がその夢に関して報告したものの中のそこここに、時間の規定が現れており、これが材料の様々な部分をつらぬく共通のものを示唆しているという点がわれわれの注意を惹きます。(略)「早すぎた」とか「あまりにも急ぎすぎて」とかいう点に、自分より3ヶ月若いだけの友人がいまりっぱな夫をもつようになったというニュースに加え、さらに義妹に対する非難の中に現れている「そんなに急ぐのはばかなことだ」という批判をたしてみると、つぎのような夢の潜在思想がおのずと構成されてきます。そして、この構成にとっては、顕在夢は、ひどく歪められた代理物なのです。
つまり、「あんなに結婚を急いだ自分はばかだった。エリーゼの例でもわかるように、もっと遅れてからでも夫をもつことはできたのに」というわけです。(急ぎすぎは、切符を買う時の彼女の態度やお義妹が装飾品を買うときの態度に現わされています。劇場に行くことは、結婚の代理物になっています)。これが夢の主要な思想でしょう。(略)われわれはただ、この夢が表現しているのは、彼女が夫を高く評価していないことと、結婚が早すぎたと悔やんでいることだと推測するだけなのです。
☆コラム 哲学と精神分析☆
同じように観念を扱う領域に哲学がある。しかし、哲学を勉強した者でなくても論理というものに鋭敏な者なら、精神分析の論理がいかに穴だらけで荒唐無稽な部分を持っているかにすぐ気がつくだろう。
では、例えば哲学と呼ばれる思弁と精神分析的な思弁の違いはどこにあるのか。一言でいうなら答えはその実践にある。精神分析自体には哲学のように超越論的(観念論的)志向があることは確かに否めない。しかし、それが哲学とは違った「治療」という実践的な観点に支えられていることも事実なのだ。このことは、精神分析が哲学のような猶予を持たないことに端的に繋がっている。
精神分析は常に仮説性の高い概念群(エディプスコンプレックス、原光景、リビドーなど)を用いながら、その概念の客観性というよりはより直接的にそれらの持つ語感や文学性に支えられている。(この当たりは前期ハイデガーの現存在分析の概念群に似ている)。言い換えれば、精神分析は患者の症状の判断を保留しない。分析とは常に仮説的な概念を用いた判断(診断)の形なのだ。精神分析とは患者を治療し続けるようとする、言い換えれば患者に影響し続けようとする治療者の意図である。つまり、精神分析が仮説であり続けることと、実際に患者が治り続けることはパラレルなのである。