会合日時:2002年 4月28日(日)

担当:いしわたり

テーマ:「 セム的一神教の思考構造 」

 

1)セム的一神教とは?

 セム語世界が起源であるユダヤ教・キリスト教・イスラーム教は現在、世界の多くの地域に広がり、人々の生活中に根ざし、またその人々の思考パターンに多大なる影響を与えている。セム語世界とは今の中近東地方、すなわちシリア地方・アラビア半島・メソポタミアあたりのセム語(アラビア語・ヘブライ語・アラム語など)を話す人々の住む世界を言う。これらの宗教をここでは「セム的一神教」と呼ぶ。

 セム的一神教の特徴には以下の通りである。

 1)一つの神を唯一神として信奉している

 2)預言者を介して神の言葉を人々に伝える啓示宗教であること

 3)神から多くの宗教的義務を法として課すこと

 4)天国と地獄という概念を持ち、「最後の審判」でその行き先が決まること

 などなど・・・

 

2)三つの宗教の関係

 ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教には非常に共通点が多い。その理由は三つの宗教が兄弟の宗教であるからだ。すなわちユダヤ教(紀元前10-5世紀~)がまずあり、その改革運動としてキリスト教(紀元0年頃~)が現れ、さらにその改革運動としてイスラーム教(紀元7世紀~)が現れたという経緯があるためである。

 セム的一神教のトップバッターであるユダヤ教は紀元前5世紀にはすでに存在し、その後キリスト教が出現し浸透する紀元後0年~300年頃まで中東世界で大きな勢力であったといわれている。紀元後0年にキリスト教が登場するとその教勢は瞬く間に広がりイスラーム教が現れる6世紀まで中東の主要な宗教であった。そしてイスラーム教があらわれると、さらに中東の宗教地図は塗り変わった。

 その後、キリスト教とイスラーム教は中東世界の枠組みを越え、世界中に広がっていった。キリスト教は地中海世界の宗教になり、西欧やロシアに伝わり、さらに大航海時代を経てアジアやアフリカ、アメリカに広がった。またイスラーム教は東はインドシナから西はスペイン、南はブラックアフリカまで広がっていった。一方、ユダヤ教はその独特の選民意識によって世界宗教とはなりえずにユダヤ人のための宗教として現在もつづいている。

 

 

3)すべてのものは一に起因する

 セム的一神教は「ひとつの神」にすべての原因を求める。すなわち、第一原因としての「神」である。これはアリストテレスやプラトンに代表されるギリシア哲学、ひいては形而上学との親近性が強い。そのため後代になってギリシア哲学は聖書やコーランの物語性の理論的補強に用いられた。さらにユダヤ教はペルシアで信奉されたゾロアスター教(紀元前7世紀頃)の「善悪二元論」や「最後の審判」、「天使・悪魔の概念」に影響されていると言われている(文献2)。いずれにしても紀元前五世紀前後にセム語世界とその周辺地域において、世界をひとつの原因に帰着させる思想が行き渡っていたことが伺われる。

 ユダヤ教ははじめから「唯一神」という思想を持っていたのかというとそれも非常に怪しいらしい。『神の歴史』(文献1)によると、ユダヤ教ももともとは中東の多くの神々の存在は認めていた。しかし、その中でもヤーヴェ(ユダヤ教のいう唯一神)と契約関係を結んで、ヤーヴェのみを信奉することをヤーヴェに約束したという。しかしその後もヤーヴェ以外に対する神々への信奉への反動も見られ、少なくとも紀元前7世紀のバビロン捕囚の頃までは確定しなかったようだ。

 さて人間の思考に特徴的なものが「あらゆる結果には原因がある」と考えることである。そして、とりわけセム的一神教では「世界を認識する」過程においてもこの論理を適用する。論理の連鎖で行き着く先は「第一原因」である。第一原因とは「世界はどのようにして出来たのか」という問いに答えるものである。それを「唯一神による世界創造」と表現するのがセム的一神教である。

 

4)選民意識 - 信ずる者しか救われない -

 セム的一神教徒の思考の癖の一つに一神教徒は多神教徒よりも文明的と考える点がある。彼らの論理では多神教は当然邪教である。わたしたち日本人のようにキリスト教の神も自分たちの神のひとりに加えてしまおうという柔軟性はもちろんない。神は唯一であるから、他の神は認められない。

 ここにセム的一神教徒の選民意識が働く。選民意識は何もユダヤ教徒の専売特許ではない。確かにユダヤ教の選民意識は極めて強いが、キリスト教徒やイスラーム教徒にも同じ様な傾向がある。すなわち「信ずる者は救われる」、逆説的に言えば「信じない者は救われない」。何に対して救われるかといえば、それは「最後の審判」である。最後の審判では生きている者も死んでいる者も神の前に立たされる。そして罪深き者は地獄へ、そうでないものは天国へ行く、というのである。もちろん多神教徒は罪深き者なので地獄へ行くことになっている。

 キリスト教の宣教師の例を挙げる。大航海時代や植民地時代を通して、彼らの言う「未開の世界」へ宣教師たちが旅立った。その目的は布教である。布教の意味は「救われない可哀想な多神教徒たちを改宗させ救ってやる」ことであった。

 さらに僕の経験から。イスラーム世界を旅し、イスラーム教徒(ムスリム)と友だちになることがある。そして彼から僕にこんな言葉が発せられる。「おまえはこんないい奴なのに何でムスリムじゃないんだ」、と。そして「アッラー」(アラビア語でThe

Godの意味)の素晴らしさを切々と語り始める・・・。

 

5)善悪二元論に基づく世界観

 セム的一神教徒は非常の単純な善悪二元論を持ち合わせている。それは世界が善(すなわち神)と悪(すなわち悪魔)で出来ていて、それらは単純に2つに分けることが出来るという確信である。

 とりわけこの傾向が強いのがキリスト教ファンダメンタリストの国、アメリカである。アメリカの政治的傾向を見ると、常に「悪を作りだしそれを討伐する」という傾向が見られる。対ソ連であったり、対イラクであったり、対アフガニスタンであったり・・・。そして、悪のレッテルを貼るとその国は「悪魔」であり「神の使いであるアメリカ」がやっつけなければいけない、という論理が働くのである。まあ現実はそれほど単純ではないが心の奥底に何かそういう確信が隠れているように思えてならない。

 さらにアメリカの映画にもその傾向が見られる。多くのアメリカ映画には「善」の役割と「悪」の役割が極めて明確に現れている。そして悪役は徹底的に叩きのめされる。善の

役の不幸や死は非常に崇められるが、悪役の不幸や死には全く同情が感じられない。そこには「人間」という概念以前に「悪」という概念が現れている。

 

6)セム的一神教徒の歴史観 -普遍史-

 セム的一神教徒にとっての歴史とは確定事項である。細かいところまで決まっているわけではないが、彼らは大雑把な意味で以下のように捉える。すなわち、天地創造に始まり、預言者の登場(モーゼやキリスト、ムハンマドなど)、自分のいる現在、そして最後の審判における終末である。この一直線上に時間が流れ歴史があると彼らは考える。すなわち歴史自体はすでに神によって決められており、それを私たちが辿っているだけだ、としている。

 そして先にも述べたが、彼らにとって非常に大きなウェイトを占めるのが最後の審判の存在である。つまり最後の審判において自分はいかにして天国へ行けるのか、という問いである。そして実生活の中で天国に行くための方法を模索し、実践していくのである。例えば「カトリックにおける中絶の問題」や「自殺の禁止について」や「イスラーム教徒における自爆テロの概念」注)などがそうだ。これらは天国へ行くための実践活動のひとつであるといえるだろう。

 いずれにしても、最後の審判後の天国での生活?のために今の生き方に制限を加える、もしくは今の生き方そのものを否定するという立場は、彼らの眼差しが現世よりも死以後に重きを置いていると受け取れるのである。

注)イスラーム教徒の自爆テロについては、ジハード(聖戦)に定義づけることにより合法事項とされる。つまりジハードでの死亡は殉教にあたり、殉教者は無条件で天国行きが確定している。

 

7)パレスチナ問題とからめて

 セム的一神教徒にとっての聖地であるイェルサレム。この帰属問題でもめているのがパレスチナ問題である。なぜこのイェルサレムという都市がこんなに問題となるのか。それはユダヤ・キリスト・イスラーム教にとって極めて重要な都市だからである。

 ユダヤ教にとってはダビデやソロモン王が首都とした聖なる都市であり、神によって約束された土地である。キリスト教にとってはキリストが磔の刑にされた都市である。またイスラーム教にとってはムハンマドが天に昇る旅をした地であり、来るべき最後の審判の行われる地であるからだ。

 兄弟宗教である以上仕方のないことであるが、みっつの宗教の間で聖地が重なってしまっているのだ。イスラーム教徒が支配していた20世紀前半まではわりと大きな問題にはならなかった。それはイスラーム教がユダヤ教・キリスト教を先輩宗教と認めており、

彼らの居住や巡礼を認めていたからだ(ズィンミーの概念)。しかし、シオニズム運動が起こりユダヤ教徒の大量移住が始まると事態は変わってきた。ユダヤ教の排他性が多くの衝突をもたらすようになった。そしてイスラエルの建国になると、事態はさらに複雑化していくのである。そして結果、現在のような状況になっていった。

【参考文献】

1) カレン・アームストロング著、高尾利数訳『神の歴史 ユダヤ キリスト イスラーム教全史』柏書房、  1995

2) 岡田明憲著『ゾロアスター教の神秘思想』講談社現代新書、1988

3) 岡田勝世著『聖書VS世界史』講談社現代新書、1996

4) 新田義弘著『哲学の歴史』講談社現代新書、1989

5) 立川武蔵著『はじめてのインド哲学』講談社現代新書、1992

 

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