近所のおばちゃんに遭遇したとき(特に平日昼間)、冠婚葬祭の席で久しぶり
に親戚と顔を合わせたとき、必ずといって「今何しているの?」と聞かれます。
この質問に対する答えを私なりに細かく考え始めたことが、このレジメの出発点
でした。
この質問の意図には、現時点での自分の立場・身分について尋ねているのだと
いうニュアンスが多分に含まれており(少なくとも私にはそのように受け取れま
す)、常にどこの枠組みに所属しているかで自分が評価され、その枠組みのひと
つひとつとして種々の職業が存在し、このことこそが人をカテゴライズしている
のではないかと強く思うようになりました。この社会においては、学校を卒業す
れば働くことが当たり前であり、職業名がその人となりを最も表すものとしてID
と一体化されているように思えます。何をするにも書類には職業欄がつきもので、
日々の生活のなかでも否応なく職業名を通した自己認識をしなければなりません。
この「今何しているの?」という質問が、「あなたは何をしている人なのか?」
を経て「あなたは誰?」という質問に置き換えられるとしても、その回答に職業
名を充てることに不自然さを感じません。そこから、いわゆる「仕事」と自己の
存在についての認識との関係を考え、その視点から「仕事」(あえて「労働」と
いう言葉は避けます。)とは何かを自己認識の視点から考えてみようと思います。
■仕事とは何か
一日八時間労働であるとして、ほとんどの人が起きている時間の半分近くを
「仕事」に費やしていることになります。私が「労働」という言葉を使わずに
「仕事」という言葉を使うことにしたのは、国語辞典での定義が次のような内容
であったからです。
【仕事】[為シ事]の意。からだや頭を使って、働く(しなければならない事をす
る)こと。(狭義ではその人の職業を指す)<新明解国語辞典第四版 三省堂>
人が起きている時間の半分を費やしてするべきこととは何なのか、一体何のた
めにしなければならないことなのか、起きている時間の半分を、何をして過ごせ
ば納得がいくのかと考えたとき、以下のような点にぶつかりました。それをひと
つずつ考えてみましょう。
1 生命維持活動+αが主たる目的であるとした場合
他の動物と同様にひとつの生命体として考えれば、生命を維持し子孫を残すこ
とが生きる目的であり、それ以外のことに意味がもたらされることはない。(動
物に聞いたわけではないが)しかしながら人間はそれだけの生活に甘んじること
に虚しさを感じる。そこに何らかの「意味付け」を求め、+αの価値を見出そう
とする。この後2で述べる「善いことをする」という概念も、日々の生命維持活
動に意味付けられた+αの価値のひとつではないだろうか。
2 生きるための仕事か、仕事をするための生命か
「働きたくない者は、食べてはならない」(テサロニケの信徒への手紙2)と
いう言葉からはキリスト教の労働観をみることができる。これは日本で言う「働
かざるもの食うべからず」とは少々違う。パウロがこの言葉でいいたかったこと
は、神に喜ばれる「善いことをする(doing good)」ためのエネルギーを得るた
めのパンを得る方法として、労働について述べているようだ。この考えからは、
働くことが厭わしいことであるという発想につながることはなく、生命維持のた
めに仕方なく働くということとは相反する。キリスト教社会では仕事は善い行い
であり、ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』のように勤勉
が美徳とされたのである。
宗教を除外しても、使命のように位置付けることで自分の人生に一生の仕事を
設け、生きる意味を見出そうとする人々もいる。仕事をするために生きることで、
人としての誇りを維持することができるのだ。
3 金銭のやり取りがなければ「働く」とはいえないのか
世の中には金銭という目に見える報酬を得ることなしに働いている人がいる。
専業主婦や学生が該当するであろうか。
とりあえず、専業主婦にとっては、家族のために家事一切を始めとする諸事を
行うことが仕事であるが、それには普通金銭で報酬が与えられることはない。そ
の代わり彼女には家庭という生活の基盤が保障されることとなる。また学生も、
彼(または彼女)自身が勉強することによって将来得られるであろう予定的価値
に対し、しかるべき保護者のもとで社会ぐるみの投資が行われることで生活が保
障されていると考えることもできる(小・中学生は労働を禁じられている)。主
婦や学生といったこれらの仕事は独特の労働形態として考えられるのか、非自立
として捉えられるのか、この問題は仕事の捉え方と大いに関わる問題である。
また、ボランティア活動は無償奉仕であるが、自分もその行為によって何かし
らの充足感を得ようとして行うものである。こういったものの価値観は個人差が
分かれるものではあるが、これはメンタルな領域で得た対価と呼ぶことができる
のだろうか。
つまるところ、自らの生計維持に直接結びついている活動をすることが仕事で
あるのか、それとは無関係に一定の情熱を傾けて打ち込んでしている活動も仕事
に含まれるのかという捉え方の差である。
■自分の存在と仕事の関係
マルクスは、社会・共産主義社会においては労働が人間の自己目的活動となり
うると考えたようで、資本主義の生産システムが、人間の本質的な活動である労
働を「疎外(自分の生み出したものが自分から引き離されて、逆に自分がその生
み出したものによって抑圧・支配されるという意味)」するとしていました。こ
の姿勢は労働そのものを生きがいとし、社会への参加に対する満足感を得るため
のものとして仕事を捉えようとする上で参考になりますが、どのような社会シス
テムであったとしても分業システムであることに変わりはなく、そのどの部分を
受け持っているかが、他者の目からみた実質的な人物評価になる傾向があります。
1 社会の「人材」として捉える自己
中国の出産事情を取り上げた番組で、中国人の多くの親が「どのように育てた
いか」との問いに対して「国家の役に立つ人材として育てたい」と言っていたの
が印象に残っている。別の番組で同じような質問が日本の親に対してされていた
が、「とりあえず健康に」といったものが多かった。これは、国のために自分を
使うという考えの有無を示す差である。日本人は、国のために自分を使うという
ことに嫌な感触を持つことが多いと思われ、自己の存在が何かしらの対象物のた
めにあるという感覚には疑問がわくが、この感覚も「意味付け」の求め方のひと
つである。
2 分業社会でのプレッシャー
生きているということは、強制的に現在のこの社会システムに組み込まれるこ
とになる。古代ギリシアや中世貴族社会では、働くことは卑しいこととされてい
たが、私たちの生きる社会では働くことが善であるとされており、当然のことと
なっている。そしてその感覚に従わざるを得ない状況になっている。分業社会に
おいては自分の領域をそれなりにこなしていかなければならない。だからこそ、
どういう領域で何を社会に産出しているのかという点が人物評価に欠かせないも
のとなり、職業=その人そのもののような見方が一般的になってしまうように思
う。それが自分自身のアイデンティティをそのまま仕事につなげる思考へとつな
がっていくならば、仕事を持たないこと=アイデンティティを持たないことであ
ると錯覚させやすくしてしまう。
また、そのまま自分の役割を放棄して他からの貢献のみを享受することには本
人の気持ちに罪悪感を伴いやすく、周囲から非難の対象とされやすい。そのよう
な無言のプレッシャーも、人が仕事に就こうとする要因のひとつではないかと思
う。現代の日本のような貧富や階級の差が感じられにくい社会においては、皆等
しく一定の労苦を担うべきであるとの暗黙の了解があるように思えてならない。
3 社会とのつながりとしての仕事
このところの経済情勢の悪化から、働く理由の第1位は「お金のため」に取っ
て代わったそうであるが、かつての一番の理由には「生きがい」というものがあっ
た。とにかくきちんと職業を持っている人が一般的に「社会人」と呼ばれ、社会
に関るにはなんらかの職業に就くことが手っ取り早い。私の個人的な考えとして
も、社会に積極的に関ったほうが生きていて楽しいという実感が得やすく、充実
しているような気分になる。他者からの影響を受けたい欲求と、それとは反対に
与えたい欲求が満たされることで、日々繰り返されるただの生命維持活動に+α
の意味付けをし、自分の生死の無意味化を避けることができる。このことは、自
分がやらねばと思える、使命的な意味合いを帯びた仕事を求めることに繋がるこ
とがあり、自己認識の方向性のひとつである。
[参考までの関連事項:シュマッハー(ドイツの経済学者)「人間の三つの使命」]
1.自分の社会と伝統から学び、自分の外部から教えを受けることによって、ひ
とときの幸福感を味わうこと。
2.自分が身につけた知識を内面化して検討し、良いものを残して悪いものを捨
て去ること。
3.まえの二つを達成することが条件になるもので、自我や好悪の環状を越え、
さらには自己中心の妄念をも越えること。
これがそのまま、彼の言う「よい仕事」の条件と重なり合っている。しかしな
がら共通の宗教的観念がないためか理解しがたいところが多い。
■おわりに
時局を鑑みても、いわゆる「使えない人間」の肩身がますます狭くなっている
ように思います。リストラしかり、就職難しかりです。個々の能力がコストパフォー
マンスを優先して評価され、経済至上主義という弱肉強食が顕著になっているよ
うな気がしてなりません。
本来ならば生命維持活動ができていればそれでよいはずです。呼吸も食事も生
きるためにしなければならない本来の仕事です。しかし私たちはそれを貨幣なし
で行うことができないゆえに、各々の力をお金に換算しなければなりません。す
なわち自分の存在価値という大問題が仕事に直結していることは間違いなく、自
分が何者なのかという問いに対する答えを歪めかねないのです。同時に私たちは
感情ある人間として他者と関わり合い、互いの不足部分を交換によって補う習慣
を生み出しました。この営みの繰り返しが日々の生活を形作っています。しかも
それは決して経済的な循環におけるものだけではありません。何気ない言葉のや
り取りですら、お金に換算することのできない価値を刻々と新しく生み出してい
ます。
他者なしでは自己を認識することはできません。仕事がそのまま自身のなすべ
きものなのか、その内容がそのまま他者の目からみた自分自身であると言えるの
か、一言ではいえませんが、その人が生きていくことによって関わりあった他者
に何が与えられたかが重要なことであり、それこそがその人を最も表すのではな
いでしょうか。生きているだけで精一杯な私にとっては、そうでないと困るとい
うのが正直なところです。
■おまけ@参考文献紹介
『働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか』中島義道 日本経済新
聞社
中島氏による、仕事に生きがいを見出せない四人の架空の人物との対話という
形式をとって、「仕事」とはなにかを考える内容になっている。
『「良い仕事」の思想』杉村芳美 中公新書
旧来の勤勉倫理に取って代わる新しい仕事倫理を模索した書。「良い仕事」を
探し求めて、様々な角度からの捉え方が載っています。