* このテーマを決めたきっかけ
ここ最近、自分の仕事に対していろんな疑問をいだくようになっていました。
「なぜ今わたしは働いているのか?」
「ただお金のためだけに働いているのか?」
「これから、どんな仕事をしていきたいのか?」
現在の私の仕事は「サービス業」であり、
大型チェーンのスーパーで接客の仕事をしています。
自分が希望している分野の仕事ではなく、
「とりあえず」的な感覚で選んだ仕事でした。
そして、「労働とは何か?」と考えると同時に
「遊びとは何なのか?」と不思議に思っていました。
子どもと一緒になって遊び、その“遊び”を観察していたら、
子どもは“遊び”という非現実的な体験の中から、
生きていく為の知恵みたいなことを学んでいるかもしれないと感じたのです。
私が幼い頃にしていた遊びを思い出す限り挙げてみると、
ままごと、人形遊び、虫取り、お絵描き、スポーツ
(バレーボール、サッカー、バスケットボールなど)、
多くの遊びに夢中になっていました。
それと同時に、「人形遊び」→洋服屋さん&デザイナー、
「ままごと」→食べ物屋さん、「虫取り」→理科の教師、
「お絵描き」→画家またはマンガ家、「スポーツ」→プロの選手という具合に、
小学校時代は、“遊び”の延長線上に、
自分の将来の職業を見い出すようになっていました。
だからと言って、“遊び”が実社会での労働に従事するための
予行練習であるとは考えられません。
私にとっての“遊び”は、「現実的生活の全てを忘れて心から
夢中になれるもの」という感覚があります。
「働くということ」(1982、講談社現代新書)の中で、
著者の黒井千次氏が以下のように述べています。
『「労働」の中には「遊び」がひそんでおり、
「遊び」の底には自己表現を核とする「労働」が
沈んでいる事実が忘れられてはならないのである。』
「労働」と「遊び」を切り離して考えていた私は、
この黒井氏の言葉に大変興味を持ちました。
“労働”は生活の一部分であり、それと相反するものとして、
生活からは離れた“遊び”があります。
“遊び”というと、なぜか無駄なもの、余計なもの、
というマイナスのイメージがありますが、
はたして本当に、“遊び”が私たちにとって、無駄なもの、
余計なものなのでしょうか?
一見すると対立的な関係にあるように思うけれど、
そこには相補的な関係が見え隠れしている
“労働” と “遊び”について考えてみたいと思います。
1.働くことはなぜ面白くないのか
私が現在の仕事に就いてから約6年になります。
人見知りが激しくて、人と話すことが苦手だった私が、
毎日多くのお客さまと接する仕事に就くなんて考えてもいませんでした。
最初の頃は「仕事が楽しい」と思える要素がなかったにもかかわらず、
今まで続けてきた一番の理由は「生活のため」であると言えます。
しかし、本当に生活のためだけであったのならば、
もっと給料の良い仕事へと転職していたと思います。
ならば、「生活のため」以外に、今の仕事を楽しく感じられるようになった
要素は何だったのか?それは、私が一番苦手としていた“接客”という
仕事の中にひそんでいました。毎日たくさんのお客さまと接することによって、
精神的に疲労感を感じることもありましたが、自分の仕事に対して、
お客さまの声を直接聞いたり手応えを感じることができる状況にありました。
「人と話をする」ということに関しては、毎日の仕事の中で私の楽しみ
となっていったのです。その一つの楽しみを見出せたことによって、
私の現在の仕事に対する姿勢は変化していきました。
毎日同じことのくり返しに苦痛でしかなかった仕事が、
「人と話をする」という楽しみ方を知ることにより、
自分の仕事に対する責任感も芽生えてきました。
黒井千次氏は、細分化された単純な労働の繰り返しは
確かに仕事の能率を高めるが、一方で一人の人間にとって
の労働の姿を歪めずにおかない、と言っています。
昔の靴職人が一足の靴を作り上げた時、その職人はその靴の
すべてがわかっていたはずです。
しかし、それは分業システム下の労働者には無理な話です。
労働が細分化されて間接的なものになるにしたがって、
生産物自身も労働者にとって間接的なものとならざるを得ないからです。
さらに、昔の靴職人は、生産物である靴のこともさることながら、
消費者である購入者に関しても、顔や体つき、足の形までを知っていた
わけであり、労働者にとって消費者はもっと身近な存在でした。
でも、現代の労働者の多くは、“大量生産”という名の元に、
生産物を購入して使ってくれる消費者の姿がますます遠のいて
見えなくなっているのが現状です。全てにおいて間接的な状況の中で、
労働者が金銭によってはかることの出来ない労働の手応え、
働きがいを得ることは難しく、そのことを黒井氏は次のように述べています。
『今日の労働者は労働の過程においても、生産物とのかかわりにおいても、
つまり二重に働きがいを拒まれた場所で生きているのだ、といわねばならない。』
このような生産と消費という社会的な環の中では、
自分の足で立っているという実感をもち得るはずもなく、
「いったい今何をしているのか?」というように、
労働の中で自分を見失うようなことが起こるのだと思います。
2.人は金のみのために働くのか
毎日の労働において、少なくとも「ただ金のみの為に働いているのではない」
と私は思っています。働くことが日々の歓びであり、私の大きな生きがいで
あるような状況で仕事をしているわけではないのに、
なぜわたしたちは働くのでしょうか? なぜ働くことをやめないのでしょうか?
その答えとして、「生活のために」という理由が大半を占めると思います。
実際に、わたしたちが生活をしていくためにはお金が必要であり、
お金を手に入れるために働かなくてはいけないのが現実です。
仕事の内容にかかわらず、日給、時給、月給、「時間=お金」という
換算方法で労働の価値が定められ、1日24時間という限られた枠の中で、
私たちは時間を売って、会社はそれを買っているのだと思います。
私の仕事の報酬は、あらかじめ契約で定められた時給に基づいて
支払われています。時間帯加給もあり、大抵は早朝、または夕方~夜に
かけて時間給に加給がされるのですが、加給は労働者の時間に対する
価値基準ではなく、あくまでも会社側の基準によって定められているので、
特に“時間を売っている”ということを感じやすい状況にあると思います。
* 貨幣に関する思想について
都市社会から今日に受け継がれていく「近代貨幣」が
登場してくるまでは、貨幣は交換のある部分を担っているにすぎず、
富の絶対的な価値基準ではなかった。
↓
市場経済の成立過程―商人資本の時代を経て
マニュファクチュアから産業資本が生まれていく。
国家間対立の時代に、経済が国家経済として形成された。
↓
労働が商品化され、貨幣の普遍性が確立されたこと。
産業資本の成立とともに貨幣が資本として機能するようになった。
↓
貨幣に絶対的な力を与える。
17世紀 イギリス
1640年代~80年代にかけての間に、ピューリタン革命、
王政復古、名誉革命とつづく激動を経験。
さらに、三度にわたる英蘭戦争では、常に圧倒的な力をもつ
オランダを前に苦戦の連続。
戦争による財政難によって、イギリスの社会は疲弊しきっていた。
そのために戦争を遂行するための国家財政の確立が緊急課題となっていた。
こういう状況の中で、生活次元で自己展開し終了してしまうような
経済活動は、国富の増加にはつながらない、役に立たないものとされてしまう。
労働を国家の富を生み出す基礎ととらえるとき、
労働を共通の視点からとらえる必要性が出てくる。
生活しない主体を経済の軸にとらえようとするときには、
生活と結びつかない、客観的で抽象的かつ普遍的な価値のみを必要とする。
労働の価値を、その労働によってつくりだされた貨幣量に等しいと
考えることによって、すべての労働はその差異を失い、
国富の基礎となる貨幣を生み出すものであるという認識がつくられた。
このことは、今日の企業においても成り立つ。
企業というそれ自身では生活しない主体が求めているものも、
生活に根ざした使用価値ではない。
必要なものは貨幣の拡大再生産能力である。
すなわち、一億円の資本投下によって、
一億二千万円を生産する能力が企業にとっては必要なのである。
3.“働くこと” と “遊ぶこと”
仕事に人生の価値を見出すことは困難だと、
今は仕事以外のものへの関心が異常に増大しています。
その原因として、生産技術の発展によって、
労働による肉体的苦痛がはるかに減少し、
労働時間が短縮されたことによって余暇が発生したことが挙げられ、
さらに経済的なゆとりが生まれたことによって、
人は余暇を楽しむ余裕を得ることができたことが挙げられると思います。
全くの遊びのための仕事と、有無を言わせぬ強制労働と、
この両極端が共通するものを持っています。
それは両者とも金のためにする行為ではなく、「無償の労働」です。
この無償の労働について説明されている良い例があります。
旋盤工として、また作家として活躍している
小関智弘氏の著書の中で挙げられていた話です。
『 労働がイコールものを作るの関係で、
仕事をしている人間は幸せだと思う。
それは、どんなに合理化されてきても、
ものを作っている過程だけでは自分のものだという、
犯されぬ領域があること、その領域の中では、
遊びと同様に胸をドキドキさせ、新しい疑問を自分で作り、
それに勝負をいどんでゆく賭けの醍醐味もあるからなのだ。
そこでは、遊びと仕事は同質の意義をもつ。 』
小関氏の場合、
「労働」の中に「遊び」に通ずる楽しみが見出されているのである。
注目すべきは、「労働」と「遊び」の小さな違いではなく
大きな共通点である、と黒井氏は言う。
「労働」と「遊び」を互いに背反するものと考えるのではなく、
むしろ相互補完的な人間の営みとして受けとめようとする
姿勢こそが重要なのであると。
つまり、労働の中に求めているのは自己表現であり、
労働を通して人は自己実現を欲しているに他ならない。
「労働」が病んでいる時には、「遊び」もまた病んでいる、
と著書の中で述べている。
*ここで、「遊び」の本質的なものを少し考えてみたいと思います。
シラー「人間の美的教育についての書簡集」
(文化史における遊びの特別性を強調)
『最後にはっきりいえば、人間は完全な意味で人間である時のみ遊ぶのであり、
また遊ぶときのみ、完全な人間であるのです。』
彼は、遊びと芸術は生命力の余剰から生まれる、と考えていた。
ヴント「倫理学」(1886年)
『遊びは労働の子供である。
遊びの形式は必ず何らかのまじめな仕事の中に模範を持っている。
この模範はまたまじめな仕事にも先行する。』
カール・グロース 「動物の遊び」(1896年)
「遊び」を過去も未来ももたぬ、現実世界の圧迫と拘束から
解放された純粋な活動と定義した。
ロジェ・カイヨワ 「遊びと人間」
「遊び」を次の4つの範疇に分類した。
競争(アゴン)…競争、取っ組みあいなど(規則なし)運動競技
ボクシング、玉突き、フェンシング、チェッカー、
サッカー、チェス、スポーツ競技全般
運(アレア)…鬼を決めるじゃんけん、裏か表か遊び、賭け、ルーレット
単式富くじ、複式富くじ、繰越式富くじ
模擬(ミミクリ)…子どもの物真似、空想の遊び、人形、
おもちゃの武具、仮面、仮装服、
演劇、見世物全般
眩暈(イリンクス)…子どもの「ぐるぐるまい」、メリー・ゴー・ランド、
ぶらんこ、ワルツ
ヴォラドレス、縁日の乗物機械、スキー、登山、空中サーカス
ほとんどすべての遊びは、個人や共同体の繁栄あるいは運命を
左右していた厳粛で重要な活動が徐々にその権威を失ってきた
最後の段階なのであるという見方があるが、それは錯覚である。
遊びは時代遅れの大人の仕事の摸造品を作り、
これを後世に伝えることがあるにせよ、
廃れたものの下らぬ残滓では決してないのである。
遊びは何よりもまず、仕事と併立する独立した活動である。
この活動は、遊びに独得の、遊びを遊びたらしめる特有の性質によって、
日常生活や行動や決定とは対立している。
遊びという行為は子供に固有のものと考えられがちだが、
他の形で大人をも誘惑しないではおかないものである。
同時に、この遊びという休息なるものが、大人がそれに没頭する時、
職業的活動と同じほど熱中させることも認めざるをえない。
さらに、この休息が仕事以上に関心をひくこともしばしばである。
4.ま と め
「労働」も「遊び」も人間の営みならば、働くことも、遊ぶことも
生きることであると思います。高校を卒業して、今の仕事に就き、
そして自分で働いたお金を手にするようになるまでは、
「生きる」ということを真剣に考えたことなんてなかった気がします。
親元にいれば、衣食住など生活の心配は親が全部引き受けてくれる。
自分の生活が誰かに保護されている中では、本当の意味で
“明日の生活”なんて考えることは少ない。
特に私は一人暮しをした経験がないので、
親に甘えていた環境にあったことになかなか気付けなかった。
さまざまなことがきっかけで、仕事の転職のことを考えていた時に、
「私はどんな仕事をしたいんだろう」と“働くということ”を深く考えて
いくにつれて、最終的には“私はどうやって生きていくか”を考えていました。
今の私たちが生きている現代社会の構造は、
人間が人間らしく“生きる”ことを難しくさせています。
企業という大きな組織の中の分業的な労働形態の中では、
自分の仕事が何を生み出しているのか創造しているのかという
全体像をつかみにくい状態にあり、
現実に私は「今ここで何をしているのか」という疑問や、
会社の一つの歯車にされて使い捨てにされるような不安も抱いていました。
趣味の延長線上に仕事があればどんなにか良いだろうけれど、
趣味はしょせん趣味の範囲を脱せず、生活をしていくのは難しいという
現実があります。そのような恵まれた条件にある人は、ほんの一握りです。
労働の中で表現された自己や、分身としての作品は、
顔も見えない不特定多数の消費者に、
遥か遠い場所でお金と交換されていき、
結局は“売れる品物”でしかないという現実があるならば、
表現された自己は常に行方不明となる運命を
背負わされているといえるのかもしれません。
それでも私は “自分の存在” を確かめることができる実感を、
人間の営みである“労働”に求めています。
*** <主な参考文献> ***********
「遊びと人間」 (講談社学術文庫)
ロジェ・カイヨワ 著 / 多田道太郎・塚崎幹夫 訳
「働くということ ― 実社会との出会い ― 」
(講談社現代新書) 黒井千次 著
「貨幣の思想史 ― お金について考えた人びと ― 」
(新潮新書) 内山 節
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