会合日時  :2001年9月24日(月)振替休日

レジメ担当者:いしわたり

テーマ   :『環境問題またはエコロジー」

 

エコロジー

 

 20世紀も半ばを過ぎた頃から、あらわれだした「エコロジー」または「環境」と いう言葉。それまでの人類史の中でこの言葉がクローズアップされることはなかったと思う。それはすなわち、20世紀になって人間活動の規模が大きくなりすぎて何を やるにしても自分の生きてゆく生活環境が劇的に変化してしまう、という事実に私たちが気がついてしまったからに他ならない。そのシグナルは例えば動物や植物の死で あり、地球の平均気温が上昇することであり、オゾン層に穴があくことである。そして、そのシグナルに対する危機意識、それが環境への問題意識や環境保護への努力の 源泉となっているのである。環境問題の根本は人類生存のための方策をさぐる事であり、環境問題そのものは人類のためにあると言って過言ではない。たしかに環境への 取り組みは他の動植物などを救うという副産物を産み出すが、それも結局は人間生存のための方策から生まれたに過ぎない。つまり環境への取り組みは一見して自然に対 する奉仕的な態度に見えるが、実体は極めてエゴイスティックなものなのである。

 しかし、ここのレジメでぼくは環境保護の取り組みが悪いことである、と言いたい のではない。環境保護の思想的バックボーンやこれまでの流れを振り返って、これから僕らがどのように環境保護に取り組んでいかなければならないのかを考えたいので ある。

 

1)エコロジーとは何か?

 エコロジーとは文字通り「環境」のこと。まず、この「環境」の意味を問うところ から始めてみたい。「環境」とは我々をとります自然界や都市を含む全ての世界を表している。そしてそれを現状維持、もしくは悪化させる以前の状態に戻そうというの が「エコロジー」や「環境」に対する運動であるといえよう。ではよりよい環境とは何なのか?少なくとも人間にとってよいという意味になるかもしれない。

 ただ人間にとってよいというだけなら環境問題が目指す環境とはなり得ない。なぜ ならよい環境を維持するためには今よりも不自由な思いをするケースが現れるかもしれないからだ。例えば自動車の排ガス規制というものがあるが、排ガスに一定の基準 を設けることによりそのエンジンの生産コストが上がったとする。しかし自動車の値段が上がることよりも排ガスの中に占める有毒物質の量を抑えることの方が公共の利 益が高いと判断された場合には後者が選ばれるわけである。多少不自由な思いをすることが人間が長く生きながらえるという意味において致し方がないと認知されると、 これは認められるのだ。

 さて環境保護運動は人間の進歩史観に対する一つの反証であるといえる。つまり2 0世紀前半までの「進歩により人間は幸福になれる」という楽観的な思想が公害問題などで打ち砕かれてしまったことに端を発しているといえよう。人間の産み出す技術 で全てが解決できる、そう信じて自分たちで産み出した公害に対して対策をとったこともあったが、それは完全なものではなかった。自然のシステムは人間の想像を遙か に超えるものがあり、そしてそれが非常に微妙なバランスで保たれていたのである。

 人間のとる対処療法では一時的には効果があっても、長期的な視点からみると失敗 に終わった例が多く見受けられるのである。例えば、日本でのカモシカの頭数が激減するということがあったとき、カモシカを保護する目的で日本政府はカモシカの捕獲 を禁止する措置をとった。すぐにカモシカの頭数が増加し、一見この措置は成功したように見えたが、こんどは増えすぎてカモシカによる樹木への食害が問題にされるよ うになった。またカモシカの例ではなく他の生物の例(具体的な生物は忘れてしまったがここでは「生物a」とする)では、aを保護することによって一時的にaは増加 したが、あまりにも急激に増加しすぎたため生息域でのaの餌が不足して飢餓状態となり、逆にその後急激にaが減少したという。人間による安易な対応(自然への介 入)は逆効果を生みだしてしまうといういい例であろう。

 

2)「地球にやさしい」という言葉

 最近よく目にする言葉で「地球にやさしい」という言葉がある。この言葉は様々な 製品のパッケージ等で見受けられるが、非常によくできたコピーだな、と思う。しかし、環境への配慮を示すこの言葉、ホントのようで巧妙に隠されたウソがある。つま りこのコピーを字面通り受け止めた場合、はたして今の環境が地球にとって本当によい姿なのか、という問いにたどりつく。

 そもそも地球の本源的な姿とはどんな姿なのか?今の地球は現存する生物などにと ってはよい姿の中も知れないが、生物が地球に寄生しているモノと考えると地球にとっては決してよい姿とはいえないであろう。つまり地球にとって最もよい姿は生物に 支配される前、地表が冷え固まる前の火の玉の状態の時といえるかもしれない。しかし火の玉の地球は人間が生存することが不可能であろう。私たち人間が生存できない 世界を想像することはそもそも不可能であり、また実存の意味においても全くナンセンスなのである。それ以前に実際のところ、地球にとって最もよい状態なんて最初か ら規定し得ないのである。

 結局のところ「地球にやさしい」は「人間の住環境にやさしい」と言い直した方が いいのかもしれない。ただキャッチコピーとしてはダサダサだけどね。

 

3)「環境保護」と「文明」

 環境保護という観点は明らかに文明という観点と衝突する。「環境保護」は人間活 動をこれ以上大きくさせないようにする運動であり、「文明」は人間活動を拡大しようとする運動であるからだ。

 「文明」は人々の生活の利便性をより豊かにし、より安全にしてゆく。人間は文明 を持つことにより自然から離れるという選択をした。それは自然界の生態系の連関からの逸脱行為であった。生態系の連関の中では常に捕食や飢餓によって淘汰されると いう恐怖があった。しかし文明を得ることによって淘汰の恐怖からはだんだん遠ざかっていった。自身の生存を脅かすモノがあれば人間は文明の力を使ってそれを駆逐し た。自然はだんだんと外に押しやられ人間によって飼い慣らされ、そしてその絶対量も減少していくわけだが、そんな中、人間は自然の必要性に徐々に気が付いてゆく。 自然なしでは人間は生きられず、また文明も自然から得た資材をもとに作られている、ということにである。そして自然回帰願望が生まれるのだ。しかし自然への回帰 とは文明の縮小であり、獲得した豊かさや安全性の放棄であった。かといってさらなる文明化は自然をさらに搾取することであり、残された自然が少ない以上おのずと限 界が見えた。自然の消失は自然からの資材に頼っている文明の死でもあったからだ。

 そして人間がこの問題に対してとった方法、それが文明と自然保護の両立であっ た。いや、その道しかなかったというのが本当のところかも知れない。文明を持ってしまった私たちが今更文明を放棄して原始の生活に戻ることは出来ないのである。試 みとしてこの矛盾する2つの両立は始まっているが、果たしてそれが可能なのかはまだまだ未知数のところがある。ただ言えることは、もっとも有効なこれ以上人間が生 活圏を広げないようにすることであり、それは文明に取り込まれた資材を文明の中で循環させることであろう。文明圏と自然圏の完全な分離は不可能だとしてもそれに対 する努力は世界の破綻を少しでも遅らせることができる唯一の方策ではないかと僕は思うのである。

 

3)あなたは自然が好きですか?

 さてここまで「人類の生存の条件」と「自然保護」という大上段からの仰々しい議 論をしてきた。ここでもっとぼくらの「自然な」感覚に立ち戻ってみる。ここでひとつ質問。

  「あなたは自然が好きですか?」

 この質問に対してみなさんはどう答えるだろうか?多くの方が「好き」と答えると 思う(自然大好きなボクにとってはそうであってほしい)。嫌いと答えた人でもたまにふと緑を見たくなったり、小川のせせらぎを聞きたくなったり、海に行きたくなっ たりするだろう。これがぼくらの「自然」に対する「自然」な感覚なんじゃないかな、と思う。

 ぼくのよく訪れる房総半島の館山にぼくの大好きな海岸がある。そこは砂浜と岩場 が混在する海岸で、訪れる人も少ない比較的穴場の場所であった。最近、そこに新港を作る動きがでている。実際に工事も始まっていて、あとこの砂浜も5年の命だそう だ。個人的にはいろんな想いが詰まった海岸を残して欲しいと思うが、地域経済の視点から言えばそれも無理なのであろう。5年後に生物が豊かだったあの海岸線が人工 的で無味乾燥なコンクリートの護岸に変わってしまうのは寂しい。失うことの悲しさ、これも自然保護への大きな原動力になっているのかな、とも思う。

 開発には死のにおいがある。有機的なシステムは無機的な構造物によって取って代 わられてしまう。生物の本源は「動」であるが、無機的な構造物のそれは「静」である。生物には「時間」があるが、構造物には「凍結された時間」があるのである。そ の「凍結された時間」に死のにおいを感じるのかもしれない。

 

4)ゆがんだ自然保護

 世界には様々な自然保護団体があり、また人それぞれ自然保護に対する取り組みが あるとおもう。その中には時折、首を傾げたくなるような行動をとる人も中にはいる。

 まず、人間否定の立場をとる人。彼らは自然保護にあまりに強く肩入れしすぎて諸 悪の根元は人類の存在にある、と考えている。確かにこの世から人間がいなくなってしまえば今生きる多くの人間以外の生物にとっては幸せなのかもしれない(これもホ ントのところはわからない)。しかし、前にも述べたように自分がいない世界を想定すること自体が無意味であるから、この考え方はナンセンスである。

 また、ある一つの生物に偏愛している人。例えば鮭の稚魚を放流する人々など。人 工的に孵化させて放流することは当該の種(この場合は鮭)を増やす意味においては正しい。しかし、放流はその川の生態系を乱す行為でもあるのだ。鮭が増えたことに より鮭の天敵であった生物は当然死滅してしまうのである。また、そもそも鮭の遡上が報告されていない川で放流を行う人がいるが、これは言語道断、自然破壊のなにも のでもないのだ。このような例からもわかるように自然保護の方策はよくよく考えてやらないと逆に自然破壊を招くおそれもあることを常に念頭に考えてあろう。むし ろ、自然保護は自然への人間の積極的介入をさけるべきであり、消極的というか自然にはなるべくタッチせずに文明から自然への影響を極力抑える方向に力の力点を持っ て行くべきではないか、と思うのである。

 

5)結論(とりあえず)

自然保護の方法

 ○自然との共存をはかる。

 ○自然には介入しない。

 ○文明圏をこれ以上広げない。

 ○文明の中でのサイクルの確立、

  文明圏は少なくとも物質収支の上で閉鎖系に近づける。

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追記

 

メーリングリスト掲載文(9月27日)

タイトル:会合後のレジメ担当者のつぶやき

 

どもども

会合報告はまあ、おいおいゆっくり書くとして・・・

とりあえず会合後のレジメ担当者より一言です。

 

まず、やっつけ仕事であったことがバレバレでした、あはは。パースペクティブの一 貫性に欠けるような点を指摘されました。そのとおりです。書いていて、いろんなこと考えちゃって、書きたして、という結果があのレジメです。もっと熟考してから書き始めた方がよかったかも知れません。また、パースペクティブを固定して書くべきだったかも知れません。例えばAくんが言っていたように「自然」の本質直観から始 めるとか、なんでボクが自然を保護しなければと思ってしまうのか、そこから考えるべきだったかもしれません。

また「自然」対「文明」の2項対立について、これも安易に使えばいろいろなつっこ みが来るだろうなぁと思いつつも使ってしまった。しかしやはりこの2項対立は論を進める上ではもっとも組み立てやすいのもたしかなんだな。だけど、確かにどこまでが文明でどこまでが自然だと言えないところもあるし、自然の創り出した文明をどこ まで反自然だといえるのか、その辺も難しいところがあります。確かに人の手の入っていない自然などあるわけないのです。

ただこれだけは言いたいことは、自然を今はやりの「癒し」の線で語られてしまうの は心外でした。少なくともぼくにとって自然はそんな安易な存在ではないです。人に

よって飼い慣らされた「自然」は嫌いです。それは去勢された牛のようです。自然を求めるぼくが目指す場所はある意味では自分の命の危険さえも感じてしまうところです。緑豊かな公園よりも藪の中が好きです。

自然を失うことの悲しさ、これは少なくともぼくにとっては自分の恩師を失ったこと に似ています。今年4月、ぼくの人生の中で最初で最後の「先生」と純粋に呼べた「先生」が亡くなりました。その時感じた心の中の空白感は、子供の頃(長野に住んでい た頃)遊んだ森が住宅地に変わってしまった時の空白感に非常によく似ていることに気が付きました。少なくともボクにとって自然破壊は自分の居場所がますます減っていくことの悲しみに感じられるのです。きれいな小川がただのどぶ川に変わる悲しみです。

経済性と政治性の話が出ましたが、あれはいまいち腑に落ちません。といいますか、 それは結果論とか方法の問題だと思います。もっと心の奥底にある自分の感覚、「失うことの悲しさ」に目を向けたい、そう思うのはぼくだけなのかな・・・

 

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会合報告(ML掲載文)10月2日

 

・・・(前文省略)

さて、「レジメ担当者のつぶやき」でも書いたとおり、少し練りが足りないレジメだったかも知れません。なんでも網羅しようとするボクの悪い癖が出て、いまいち焦点のぼやけたものになってしまったかなぁ。

まず「エコロジー」や「環境」という言葉の曖昧さ、「人工物」と「自然」の2項対立についてするどいつっこみが来ました。大きな概念からものを語ろうとすると、そこに大きなイデアみたいなものが出来てしまって、現実から離れていってしまうんですね。自然自然と叫ぶにつれて、現実世界との距離を徐々に感じてしまったことには気づいていないわけではありません。しかし、環境保護という視点をとるとどうして もこういう語り口になってしまうんですね。

経済活動と環境保護について会合で議論になりました。確かに何か事を起こそうとす ればそれにはお金が掛かったりするわけだし、また環境保護で一儲けする人もいるでしょう。実際に環境ビジネスとして成り立っているケースもあるわけでそれについては否定しません。しかし前にも言ったけれど、それはあくまでも方法論の問題となってきます。つまり環境をどうにかせねば、という動機がまずはじめにあって、それがうまく経済にのっかったと考えるべきでしょう。いまみんなが「環境にやさしいもの」というキャッチコピーに触発されて、割高なものでも買う。これは確かに経済と広告の領域です。しかし、こういう危機を感じた初めての人もいるんです。例えばレイチェル・カーソンとか。少なくともこのまま開発をやり続けたらヤバいな、と思った人がいる。これが人間の初めての環境への視線の投げかけです。この時点ではまっ たく経済性が関係してこないのです。

最後に実存に立ち返って、ぼくがどう感じているかについて。ぼくの感じは「このままではヤバいな」です。絶対破綻するだろうな、という意識です。人口論書いていた頃のマルサスみたいな悲観主義です。ライオンに追い立てられて断崖絶壁に向かって走っているような感じです。これが1点。そしてもう一つは失われてゆくものに対する懐古です。「うさぎ追いし彼の山」です。銀河鉄道999でテツロウが機械の体を求めて旅をはじめるが、旅をするうちにやはり今の自分の体がいいと考えを変えてしまう、そうあの感覚です。わっかるかなぁ~。

 

環境の話は何か偽善ぽかったり、嘘臭かったりするけれども、そんな中でも仮にそんなに心配しなくていいとしてもやはり打てる手は先に打っておきたいな、とボクは思ったりします。みなさんはどうなのかな・・・

 

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