会合日時  :2001年8月25日(土)

レジメ担当者:あだ

テーマ   :実存における「本来性」と「非本来性」

 

 

夏合宿レジュメの代替としての小論と夏合宿レジュメへの反省

 

1.小論(実存における「本来性」と「非本来性」)

『存在と時間』は「個人の生(実存)」についての鋭い洞察に貫かれている。

この書の後半の文体はある種、扇情的であり、文学作品の趣さえ漂わせているのだが、その幽玄性を読み解けば以下のようになる。

まず、前半において日常性を現象学的、解釈学的に分析し、その構造を明らかにしていく。ここでは個人の生(実存)と世界との関係は「頽落」として解明されるが、これは個人が世界の中に自分の可能性を次々に見出し、有意味の内に生活しているという構造である。

 さらに、これを可能にしている「気遣い」という構造があるのだが、ここから個人と世界を密接に結びつけている契機が「情状性」(気分)であることをハイデガーは考察する。つまり、「個人の生(実存)」にとっては情状性(気分)が、そのまま個人と世界の関係を表すというわけである。

 そして、『存在と時間』の前半の最後で、日常性(頽落)を壊す情状性、しかし世界と個人との関係を端的に開示する(情状性が個人にとっての世界の有り様を示してくる)という意味での根本的情状性として「不安」が取り上げられる。

 「不安」は情状性の1つなのだが、他の情状性とは異なり「対象がない」(つまり個人が世界の中の特定の対象、可能性に注意を向けないという状態)ために無・気分と呼ばれる。

 注意しておきたいのは、例えばこれは反省的、客観的な無気分とは異なっている。反省的考察、観察という行為は特定の対象を究明するために、いわば自覚的に気分を押さえようとする行為に過ぎないが、それでも個人の「情状性」は興味、感心として対象へ向っている。いわばそれは「客観的な気分」ということができる。

 しかし、「不安」という情状性のなかで、個人は特定の対象、可能性へ向かわない。これによって世界と個人の関係は解かれ、ハイデガーの表現を借りれば、世界は「不気味なもの」「居心地のわるいもの」としてその全貌を表す(本来性)。

 ハイデガーはここから「死」の考察を行っている。要するにこれは、世界の中に意味や可能性のないこと、個人が世界から切り離されて孤独化(単独化)されることはそのまま、観念的な(しかし、これには机上のとか、空想的なという意味ではなく)「死」を実感させてくれるということだ。

 前述で「不安」という根本情状性が個人と世界の関係を端的に示すと述べたのは、つまり以下の通りである。

 人間存在(現存在)は日常性(頽落)のなかで様々な情状性(気分)によって世界と係わっているが、「不安」という無・気分のなかで世界の意味、可能性を取り払われて、「本来的」な状態になる。逆にいえば、人間存在(現存在)が日常性の内で「不安」という情状性に襲われるのは、日常性が世界に対する可能性や意味といった状態(頽落)の内で営まれていることの証しである。

 ハイデガーが『存在と時間』の序論で「超越論的還元は必要ない」と述べたのは、前半の個人と世界の構造について考察が、「不安」という情状性の開示性の内で、いわば後から実感として裏打ちすることができると考えたからだ。

 しかし、これには問題が残る。ハイデガーは「不安」という自分の実感に拘泥し過ぎた。「不安」の中にも様々なレベルがあり、例えば日常頻繁に経験するような軽い不安は「死」を開示しないし、世界から完全に切り離されるような重度の不安、つまり完全な無・気分の内では「不気味な世界」はおろか、世界そのもの、さらには自分自身さえももはや開示されないであろう。これは観念的な「死」ではなく本当の死であって、現存在不可能であるとさえ言える。

 「不安」がハイデガーにとっていかに「絶対感」を持ったものであったとしても、それは理論的絶対にはなり得ない。理論と実感を無理に接続しようとした所にハイデガーの失敗がある。私の見るところハイデガーが否定しようとも『存在と時間』が、「超越論的還元」の視点に始まっていることは明らかである。(ここから例えばフッサールの考える「直観」とハイデガーの「気遣い」を比較することもできる)

 加えて『存在と時間』の後半では、「不安」の内で「死」を受け入れた人間存在(現存在)が、再び日常性(頽落)に陥らずに「本来的」に実存する可能性が述べられている。しかし、これは我が国の現象学者、木田元が指摘しているように『存在と時間』のモチーフが本質的に相容れない二つの契機(「フッサール的契機」と「キルケゴール的契機」)によって貫かれていることを示している。「頽落」という概念自体もこの2つの契機が混同されているため、論理性を欠いているところがある。

 最初の叙述に戻ろう。『存在と時間』は「個人の生(実存)」についての鋭い洞察に貫かれている、と述べた。それは、「個人の生」(実存)は、様々な理念(観念的な理論、学問、主義など)の根拠だが、「個人の生」(実存)自体は、理論的にはそれ以上の根拠を問えない(あるいは端的に根拠がない)ということである。しかし急いで付け加えておくが、それは「個人の生(実存)」が意味のないもの、ということではい。むしろ、個人は意味という世界のなか(有意義連関のなか)に既に生きているということになるのだ。

 実存の内側にあるレベルでの幻想(「物語」)を作りながら生きている日常性(頽落)という状態、これと「不安」という情状性における世界(幻想、物語)との剥離感、生や死の絶対感という状態が体験の中で繋がっていること。このことは「実存」がその根拠を問えない(根拠がない)といったことに起因しているのである。

 ハイデガーが「本来性」(不安)と「非本来性」(日常性)という転倒しているとも言える概念で(本人の意図とは全く逆に)明らかにしたのは、我々の生(実存)が宿命的にこれらの2つの相を持つことなのである。

 

2.夏合宿レジュメへの反省

 個人的に言えば「不安」という情状性は、世界から意味や可能性をはぎ取ってしまうという部分で「本来的」であるどころか、むしろ一種の欠落であるとさえ感じることがある。

現代の思想のなかには、死や狂気、性といった日常性を異化するものを過度に肯定し、それらの概念がもたらすパースペクティブから、特権的に様々な問題を考察しようとする潮流がある。しかし、この考え方は思想的にはロマンティシズムに過ぎず、結局は物語の上に物語を重ねていくことになる(危険なのは、フィクションがその意外性を持って現実に影響を持ってしまうことだ)。

 このことの内には、日常を超え出て超越的なものを求める人間の本質があるのだが、しかし、よく注意すれば日常を異化するものが興味の対象として我々に現れてくるのは日常のうちにおいてなのでだ(しかも、ある距離感を持ってである)。我々は狂気の中から、狂気について語ることができる訳ではないのである。

 私が夏合宿のレジュメで試みたのは、現代思想によって無批判に否定される日常性を、『存在と時間』における「平均的日常性」と概念を元にして、精神分析寄りの視点でより具体的に論述することにあった。すなわち「平均的日常性」を情状性として分析する狙いであった。

 その失敗した試みに代わって、この小論を載せるものである。以下の図は夏合宿のレジュメにおいて使用されるはずであった。これも付けておく。

 

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