1. 序論
1-1.この本が目的とするもの(私的考察)
この本が書かれた契機は、マルクス主義批判にある。平たく言ってしまえば、社会
構造を「経済的なもの」からすべて説明しようとする唯物史観により、「経済的なも
の」の中に人間の行動動機の源泉があり、それにより社会が構成され、権力の統合が
なされていったとする解釈、いわば、人間の行動原理を経済的範疇に求める、がマル
クス主義である。 吉本の不満は、その「経済的なもの」だけで人間社会の説明が可
能なのか?という疑問から生まれ、むしろ、経済的範疇を退けたところで人間の社会
構造を説明しようと試みている。
この本の一つの読み方として、フーコー的「内的規範」の分析と読む場合がある。
それは、日本特有の「見えない権力」の有様について、『遠野物語拾遺』の中のモ
チーフからその系譜を辿り、日本の習俗や伝統と権力の関係を解明していこうとす
る。この究明において吉本は、習俗や伝統の根源的な意味を解釈する民俗学に終わる
ことはできないとする。なぜなら究明のもう一つの目的は、それらの「根源的な意
味」が、私たちの現社会にどのような「位相」で、どのような関係性を持ち合わせて
いるかを解明することにあるからだ。
フーコー的「内的規範」とは、「知=権力」が人々に規律訓練されていく様を示
し、やがてはそれが個々人の内的「まなざし」となる権力の道具としての「知」につ
いての解明であるが、ここ(この本)では、習俗や伝統が、いかに「権力」と結びつ
き、それが人間の個々の内面にどのように作用しているかの解析となっている。ここ
で、「個々の内面」という表現をしたが、先のマルクス主義にしても、フーコー的
「内的規範」にしても社会構造や原理を、「外部的作用」から説明しているものであ
る。人間の内部からの作用は説明されていない。
ここで前述の吉本の不満に戻るが、吉本は、「経済的なもの」ですべてを説明する
こと、つまり「外部的作用」からの説明だけでは十全でない、というところから人間
の「内部的な作用」からの説明を試みようとしており、その説明のために「共同幻
想」というものを措定したのである。これは、多くの解釈学- 特に、私が関わって
きた社会学 -の見落とされやすい、いわば弱点をズバリ指摘している。 また、哲
学は常に内部からの説明を試みた学問(解釈学)だとするならば、哲学は外部からの
説明との関係性について、あまり鮮明に、或いは直接的には結びつけていないと思わ
れる。だから哲学は、特に日本人にとって、やや縁遠いもののように受け取られてい
る所以でもあるように思われる。
1-2.この本のキーワード
吉本が「内的作用」を説明する際、以下の3つの概念を設定している。
自己幻想: 個体の幻想。芸術理論、文学理論など美的分野にあるもの
対幻想 : 男女の性的関係を基盤としたもの、家族論
共同幻想: 村落、共同体、国家、とその制度、及び法
これらを、人間が異なる位相で作り上げている観念から成り立っているものとし、
その相互関係、結びつき、対立、矛盾を解析している。 そして、特に「共同幻想」
において、個体の幻想と「逆立ち」する構造を持っている、としている。この「逆立
ち」という意味についてが、この本の読解における鍵となる。
2.「巫覡論」の解釈をめぐって
2-1.芥川竜之介の『歯車』の解釈について
「巫覡論」は2パートに分けられる。一つは、ここに挙げる芥川の『歯車』をモ
チーフにした吉本流解釈である。 ここでは、『歯車』中で登場する「第二の僕」に
ついて、吉本は「僕」と「他者」との心の相互規定性を意味するとした。この小説
は、芥川の自殺する1ヶ月前に書かれているものということもあり、芥川の「死」に
ついての一般的解釈がまず挙げられる。 それは、「「第二の僕」は、自分と同じ水
平線に存在している「他者」であり、「死」によって都市の近代的知識人の孤独から
解放される対象として措定している。」という解釈である。
しかし、吉本の解釈は「死」の根本的な措定のし方から異なっている。つまり、
「第二の僕」が「死」と結びついているのではなく、はじめに「僕」は「死」の想念
がたえずあったため「第二の僕」に「死」が結びついた、と考える。この主人公
「僕」は、共同幻想への回帰の願望を、自死によって拒絶し、一切の幻想から解放を
求めているのである、とした。
2-2.離魂譚(魂が肉体から離れる現象をモチーフにした『遠野物語』の話)の吉
本的解釈
① 意識が朦朧した時に見た若者の幻覚… それは、村の実家へ帰っている幻覚…
共同体への回帰願望
② <いづな使い>… 狐という共同幻想の象徴(媒体)さえあれば、入眠状態で自
分の幻想を創り出せる技術を持ったもの。これは、<いづな使い>というものが、村
落の地上的利害と密接に結びつける役割があることを物語る。
③ ブリュル『未開社会の思惟』… 原始人は同じものを見ていても、私たちと同じ
精神で知覚するのではない。
「集団表象」をその感覚に混融させずには了解作
用が成立しない。
以上を前提として、吉本は共同幻想に人々を同調させるからくりを以下のように説
いた。
共同幻想の時間的流れは、地域や個人によって異なる。従って、個体が心の了解作用
の時間をまず変化させるために、心の異常状態、つまり入眠、嗜眠状態を生み出し、
強制的に共同幻想の時間性に同調させる。
しかし、そのためには、下記条件が必要である。
・ <狐>が霊性のある動物であるという伝承が流布されていること。
・ 村民の利害の願望が、自分たちの意思や努力ではどうにもできない<彼岸>にあ
ると信じられていること。
従って、村民の利害、つまり共同利害の変化、階層的な対立、矛盾が生じると
<いづな使い>は能力を失う。
④ 炭焼き小屋での話し。 夫婦と男一人が炭焼き小屋で寝ることになる。一人者の
男が女に手をだす。すると、
女は毛むくじゃらで、それに驚いた男は、女をばっさり鉈で殺してしまう。その夫が
それを怒り、男を訴えるという。だが、男は、女は人間ではなく狐である、という。
すると、死んだ女の姿がみるみる間に狐に変化した、という話。
村落共同体と「対幻想」の基盤である「家族」との関わりを暗示している。
<女>が<狐>であったということを「憑かれるものの特徴として女に多い」とし、
それを女性の生理的特徴に結びつける説は、民族学者たちが追従するものとなってい
る。 それに対して吉本は、<女>は対幻想の象徴であり、それが消滅すること(鉈
で殺されること)でしか共同幻想に転化しない、ということを読み取る。
2-3.「時間性の同調」における社会学的読み
以上が吉本流『遠野物語』解釈の粗筋(のホンノ一部)である。 しかしながら、
この本の全体のポイントとなるキーワードを多く含んでいる。前半の『歯車』のパー
トで語りたかったことは、最初のキーワードとして挙げた「共同幻想は、個体の幻想
と逆立ちする構造をもつ」というところの具体的事例と読まれる。同時に吉本が捉え
る「主体と客体の関係性」であるといえる。吉本は、序論で以下のように語ってい
る。
共同幻想も人間がこの世界でとりうる態度がつくりだした観念の形態である。<種族
の父>…中略…<習俗>や<神話>も、<宗教>や<法>や<国家>と同じように共
同幻想のある表れ方であるということができよう。人間はしばしば自分の存在を圧殺
するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然に促されて
さまざまな負担を作り出すことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担の
一つである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立ちする構造をもってい
る。…・
つまり、個体の幻想=主体と考えたとき、共同幻想=客体と考えられ、その関係性
とは、「圧殺されることをしりながら必然に促されて…」負ってしまう「負担」なの
である。これが「逆立ち」の構造となる所以である。
後半「離魂譚」のパートの最大のポイントは、「時間性の同調」のからくりである
が、これは「時間性」=情報、「入眠、嗜眠(意識の朦朧といた状態)」=情報遮
断、と読みかえると非常にわかりやすい。従って、情報量を管理することができれば
共同幻想は成り立ちやすく(多くの共産体制がそうであるように)、また、一般に
我々情報化社会と言われる社会においては、共同幻想は成り立ちにくくなる。
3.私的考察と今後の課題
以上が、ある“社会学ゼミ”称されるグループの中で、この本を読んだ時の解釈で
ある。実は、私は若干不満を感じている。例えば、『歯車』解釈の中で吉本が読み
とっている「死」というものの考え方は、どこへ行ったのか? また、「時間性」=
情報、というのは、いかにも社会学的な読み方である。仮にそう読んだとして、で
は、情報が反乱している現代社会は、本当に共同幻想が成り立ちにくいのであろうか
? そこの結論を持ってくるならば、吉本の『遠野物語』は現代に通ずるものが少な
過ぎる時代錯誤的な結論であったことになる。 しかし、吉本自身は、『遠野物語』
の読み返しを、「その幻想が現代に伝承されていることからくる必然的な修正」と述
べている。 吉本は、内部からの説明を試みた。しかし、その内部からの説明のため
に、やはり外部の概念がを媒介として読まれている。 内部を説明しきれるのであろ
うか? 私たちは、内部的説明とされる「共同幻想」について、いかにしたら、共通
了解に立てるのであろうか? (とりあえず、以上)