現象学の2つの方法
現象学は意識に直接現われたもの、それが直観されたことの絶対性を主張する哲学である。例えば「机」や「コップ」などの物の場合、それらが客観的に実在しているという保証はないのだが、「机」や「コップ」が意識に現われている、それらが見えていること自体は絶対に確かなことだ。そして、この絶対性こそ、私たちが事物の実在性を信じている理由なのである(超越論的還元)。また、このことは抽象的な概念などについても同じことが言える。例えば「不安」や「自由」などのような抽象概念についても、そこに客観的な意味(真理)があるという先入見を捨て、意識に直接現われた(直観された)意味を考えてみる。「不安」や「自由」などの言葉から直接思い浮かんだ意味、それが直観として与えられた記憶の本質、意味なのだ。しかも、この直観された本質はさらに普遍的なものへと練り上げることが可能なのである(形相的還元=本質直観)。
本質直観の普遍性
しかし、コップを見て「コップ」という意味が与えられる場合と違い、「自由」についてすぐに思い浮かんだ言葉、「自由」の意味は、自分の中でも十分に確かだと思えないような側面がある。多かれ少なかれ、他の人の意見とも違うことだろう。本質直観が自分にとって確かだと思える本質の把握であるならば、それは他者にとっても確かだと思えるものでなければならない。より確かな本質だと思えるためには、誰もが納得するような普遍性をもった本質でなければならないのだ。他者と共通に了解できるような本質(普遍的な本質)、それこそが求められているのである。
最初に自分にとって確かだと思えるような本質は、必ずしも誰もが納得するような本質、他者と共通に了解することが可能な本質だとは限らない。しかし、よくよく考えれば、誰もが共通に認めるような本質が理解できる可能性は必ずある。何故なら、普遍的な本質とは誰かが勝手に定めた定義ではなく、また客観的な真理でもないからだ。「自由」の本質は何かと問われても客観に正しい意味はないのであり、「自由とは○○である」などという真理を誰かが決めたわけでもない。「自由」という言葉は、数多くの人々が様々な状況で使ってきており、その意味にはある程度のばらつきがあるとしても、その微妙な意味の違いを振り払えば、そこには必ず他者と共通に了解できるような意味が残るはずだ。そうでなければ、「自由」という言葉は多くの人が共通に使うことなどできないし、すでに複数の言葉に分裂しているはずである。したがって、「自由」のように誰もがあたり前なものとして使っている言葉、それでいて他者と微妙なズレを含んだ抽象概念には、必ず誰にとっても成り立つような普遍的な本質、共通了解できる本質があるはずなのである。
本質直観のプロセス
普遍的な本質を得るためには、まず本質直観の対象となる抽象概念を、その言葉がどのような意味として使われているのか、どのような経験に当てはまるのかを思い出す必要がある。そして、そこに共通するものは何かを考え、その概念について必ず当てはまること、言えることを取り出すのである。その際、最初に直観されたものは、意識の中で練り直され、想像の上で様々に変化させられることになる。これが現象学における想像変容である。「自由」の本質直観なら、「自由」という言葉がどのような意味で使われているのか、どういう場合を「自由」と呼んでいるのかを、よくよく考え直してみることだ。そうすれば、最初に漠然と思い浮かんだ「自由」の意味も想像の中で変化し、より確かだと思える本質に近づいていくことになる。個別的な経験における本質は、より一般的に認められる本質へと移行させることができるのだ。
本質直観の有効性
自分なりに練り上げた(想像変容して取り出した)本質直観を他の人たちと話し合ってみれば、より共通に了解できる本質が取り出せる。勿論それは、「記憶」や「嫉妬」の根源的な意味や客観的な真理などではない。それは他者と共通了解し得る普遍的な本質とは違うのである。この普遍的な本質を客観的で根源的な意味と混同してしまえば、デリダのように、現象学は客観的真理を求める形而上学である、というような誤謬に陥ってしまうのだ。例えばハイデガーの『存在と時間』は、「時間」「存在」「不安」「死」「存在」などを本質直観した、見事な実例である。フッサール自身は『イデーンⅡ』で「物」「身体」「心」などを本質直観している。本質直観は「客観的真理の直観」でも「神秘的な力による直感」でもない。このことが理解できるなら、本質直観が優れた実践性を有していることを、誰も否定することはできないはずである。
<実践に当たってのポイント>
1.方法としての本質直観が有効な対象は、「感情」「現実」「真理」「善」「美」「恐怖」 「生」「欲望」など、誰もが共通に使っている言葉、抽象概念である(個物は除く)。
2.本質直観の検討に当たっては、まずその対象の種類(類似した対象)を考える。「記憶」
であれば、「想像」や「知覚」が同じ表象だし、「恐怖」であれば、「不安」や「悲しみ」
などが同じ感情である。同一種との比較検討が鍵になる。
3.他の誰もが実感として納得するような意味を考える。したがって、自分一人で想像変
容と検討を重ねた後は、何人かで話し合うとさらに有効である。
「嫉妬」の本質直観
「嫉妬」はまず嫉妬の対象となる他者が存在する。ある他者に嫉妬すると言う場合、それはその他者の立場を羨み、その他者に取って代わりたいという欲望がある。それは、自分がその他者のようになりたいと感じる場合もあれば、その他者のようになりたいわけではないが、その他者の立場に身を置くことで、同じ恩恵を受けたいという場合もあるだろう。前者は有名人への憧れや尊敬から転化した嫉妬が考えられるし、後者には三角関係における嫉妬が考えられる。しかし、羨望があるだけでは嫉妬とは言わない。嫉妬には羨望にともなって、その他者に対する恨み(怨恨、ルサンチマン)の感情があるのだ。
例えば誰か、憧れ、尊敬する人物がいるとしよう。その羨望の眼差しには、最初は恨みどころか愛情さえ感じる場合もあるはずだ。そこにあるのは、自分もそうなりたい、という思いである。しかし、自分は同じようにはなれない、少なくとも今はまだなれないし、なれるかどうかもわからない、という不安を感じたとき、羨望の対象である他者に対して怨恨が生じることになる。あるいは、本当は自分のほうが認められるのにふさわしいと感じる場合は、さらに激しい怨恨が生じ、嫉妬は強くなるだろう。その人物に取って代わりたい、それが無理なら、その人物も自分と同じように苦しめたい、引きずり下ろしたい、という感情が湧いてくるのだ。
ある人物を敬愛し、その人物を見習いたいと感じることと、その人物に取って代わりたいと感じることには、大きな違いがある。その人物を見習いたいと感じていたとしても、自分なりのやり方でそうありたい、自分の納得のいく形でやってみたい、という信念や自信があれば、その対象に取って代わりたいとは思わないはずである。嫉妬に繋がる羨望の場合、「自分は自分だ」という意識が希薄で、その対象を自分と「同一視」してしまう傾向にあるのだ。例えば、自分の代わりに夢を叶えてくれる人物に愛を捧げ、献身的になる場合、そこには同一視が生じている可能性が高い。しかし、同一視が「自分がそうなりたい」という羨望を含んでいる以上、それは容易に嫉妬へ転ずることになるだろう。
一方、他者への憧れはないが、その立場が誰かに愛され、認められる立場なので、その他者の立場に身を置きたいという場合、この羨望はさらに容易に嫉妬へと変わる。愛する人が別の誰かを愛していれば、その愛されている人物に取って代わりたい、その人物さえいなければ全ての愛は自分に向けられるはずだと思うのだ。例えば母親に愛されるきょうだいに嫉妬する場合、そのきょうだいへの愛情もあるのだが、母親の愛情が自分に向けられないことに対して嫉妬が生じることになる。しかも、その嫉妬の相手に対して全く愛情がなければ、その憎悪は激しくなるだろう。不倫における愛人の嫉妬のように、相手の配偶者(妻、夫)には全く愛情も憧れもない場合、愛する人の配偶者への憎悪は激しくなりやすいのだ。
こうした愛情の絡む三角関係の場合、複数の人々や社会から認められたいことから生じる嫉妬とは違い、唯一の誰かに愛されたいという欲望が中心にある。そのため、嫉妬はより強いものになりやすいはずだ。もともと、私たちの「社会に認められたい」という欲望も、特定の誰かに愛されたいという欲望が、複数の人々に愛されたい、認められたいという欲望へと一般化したものかもしれない。親に愛されたい、認められたいという感情が、やがて誰にとっても認められる存在でありたいという欲望へと繋がる、そう考えることができるのだ。だとすれば、様々な嫉妬の原型は、唯一の誰かに愛されたい、その愛を自分の代わりに享受する他者は許せない、という感情にあるのかもしれない。
もう一度整理すると、嫉妬はまず愛や承認を受ける対象(嫉妬の対象)と、それを与える第三者という、三者以上の関係において生じると言えるだろう。「私-母-父」、「私-母-きょうだい」、「私-愛人-その配偶者」など、特定の愛情対象をめぐる三角関係がその原型で、嫉妬も強烈になる場合が多い。それは、その特定の愛情対象を取り替えることができないため、愛を受ける嫉妬対象への憎悪は激しくなるのである。しかし、特定の愛情対象ではなく、身近な複数の人々に愛されたいとか、社会に認められたいなど、愛や承認の対象が抽象的である場合もあり、この場合は嫉妬対象とは違うやり方で認められる道があるため、そのことに気づくことができれば、嫉妬への固執はなくなるであろう。
また、嫉妬には嫉妬対象への同一視と羨望が生じていると考えられる。勿論、同一視のレヴェルは様々であり、同一視が強く生じていればいるほど、その対象への共感や愛情も強いため、そこに怨恨がともなうことは少なく、羨望が嫉妬に変わる可能性も少ないかもしれない。しかし、どんな同一視であろうと、その幻想性に気づけば自分が愛や承認を得られないことを自覚せざるを得ないため、たちまち怨恨が生じ、嫉妬と化す可能性があるのだ。といっても、同一視が完全に解除されて嫉妬に変わるというより、同一視が残ったままで怨恨が生じ、愛憎の入り交じった状態になることも多い。また、最初から嫉妬対象への愛情がない場合、例えば愛人の妻への嫉妬のような場合でも、「もし自分があの女(妻)の立場だったら…」というような、欲望が満たされた状態を想像し、その同一視によって羨望は生じることになる。同一視と羨望がなければ、それは嫉妬というより憎悪と呼ぶべきものなのだ。
<結論>
嫉妬とは三者以上の関係において、ある対象への自己愛的な同一視から生じる、羨望と怨恨の入り交じった感情の総称だと言えるだろう。