「地図とは何だろう?」、それが今回のテーマです。世の中には地図に関する書物がたくさん出ているけど、この問いに対して真正面から取り組んでいる書物を見たことがありません。それらは地図の用法に関するものや地図から見た地形や地名の不思議についてなどの、まずすでに地図があってそれから先のことを論じたモノばかり。ぼくの論じたいのは、そもそも地図とは何なのか、なぜ地図が生まれたのか?、人間(私)にとって地図とは何か?という点です。つまり端的に言えば今日のテーマは「地図を哲学する」です。
1)そもそも地図とはなんぞや?
地図とはいったい何なのか?難しい問いですね。とりあえず広辞苑で調べてみたら、
「地球表面の一部または全部を一定縮尺で平面上に表した図」
とあった。当たらずとも遠からずだが何か物足りない。もっと広い意味があるのではないかと思う。
ぼくが思うに地図とは、
「人間が自分の生きている世界を全体的に把握するために
モデル化してそれを図示して表現したもの」
といえるのではないだろうか?
現代においては実証主義から科学が発達し、さまざまな技術(測量技術など)が確立してから「客観的な」地図が作られている(「客観的な地図」については後述)。しかし昔は観測技術の未発達から、現在航空写真で確認できる地形とはかけ離れた地図が作られたりしていた。地図の正確さという観点からは確かに現代においては大きく進歩したといえるであろう。
さて、現代の地図は実証的なデータをもとに描かれているが、過去においては必ずしもそれだけにとどまらなかった。それは現実世界の延長線上に「あの世の世界」をつなげてみたり、また「あの世の世界」だけの地図を作ってみたり、また観測の及んでいない地域については伝承や伝聞なども元に想像で補われたりしてきたようだ。
このように広く地図というものを眺めてみれば、必ずしも観測による「客観的」事実をもとに描かれたものだけにとどまらないことがわかる。
2)地図作成における視点
地図は「客観的なもの」ととらえるのは、広い意味では間違っているといえる。というのも、世界をモデル化するにあたっては、必ずその作成者の視点が入ってくるからだ。それは、この世界をぼくらが認識し、識別し、記号化し、そしてそれを紙などの上に描いていくというプロセスを経て地図は作成されるからだ。現代の多くの地図は非常に似通っているのだが、それは地図を描く上での視点や方法、記号化についての共通認識が確立したからに他ならない。つまり、地形は「等高線」で表現し、道は「2本の平行な線」、海は「水色」・・・。
また、地図に対する認識も同じ、地図というモノはこういうものだという強烈なイメージ、とりわけロードマップや国土地理院の5万分の1の地図のイメージが刷り込まれているから、一般的な硬直した地図のイメージができあがってしまった。しかし、地図はもっと自由でもいいのではないか、と思う。
例えば先の広辞苑の例で出てきた「一定縮尺」という言葉、何も地図は一定縮尺にする必要はないのではなかろうか?登山の地図を作るのに、一定縮尺でつくるよりは自分の体感時間でつくってみたらどうだろうか。急な上り坂は視覚的に長く、緩やかなところは短く、景色のいい場所はゆっくり歩いてしまうから、長くするなど・・・。神の視点から人間の視点へもどるのもいいのかも知れない。
3)地図という表現方法
地図は人が言葉を持つようになった頃よりあり、どっかの洞窟には原始人が描いた地図が残っているらしい。どこまで遡れるかはともかく、人類が文明を築き上げる以前から地図が存在したことは確かなようである。これはある意味すごいことだと思う。すなわち、人が言葉を持つのと同じように、地図を持つことがきわめて自然であり重要なことであったということである。
人間の発展に言葉は欠かすことは出来ないが、言葉で表せないものもある。いや、表せたとしても同じ事を「地図を描く」という方法で表現した場合の方がずっと簡単で的確な場合が多くある。家までの道順を電話で説明するよりもファックスを1枚流した方がずっと早いという経験をした方も多いと思う。では「地図」という表現方法はどういった特徴があり、他の様々な人間の表現方法とどこが異なるのか。
「地図を描く」という表現方法に最もよく似た表現方法は「絵を描く」であろう。しかし両者の決定的な違いは「視点」と「単純化」にあると思われる。
まず「視点」について。地図の視点は常に上からの視点である。すなわちそこには全体を見渡そうとする欲求がある。一方、絵画の場合は視点に拘束性がなく自由である。この違いはそれらの目的にある。絵画の目的は「世界を紙(キャンバス)の中で表現すること」であり、地図の目的は「世界(この場合の世界は世界地図の世界のみならず自分を取り巻く世界の意味)を見渡すこと」にあるのだ。
次に「単純化」について。絵を描く行為は前述のように「世界の再現」であるから、そのベクトルはより精密に忠実にという方向に向いている。抽象画においても単純化を目指しているのではなく、目に見えないもの(例えば感情とか熱とか心の中とか)を表現しようとしているのであり、関心は同じく「世界の再現」である。それに対して「地図」はその目的が観測された多くの情報を限られたスペースにいかに詰め込むかにあり、そのために単純化された記号を多く用いようとするのである。
ただし例外がひとつ、それは「鳥瞰図」である。鳥瞰図はその名の通り、鳥が空から眺めた景色をそのまま描写しようとする地図の描き方である。なるべく記号を排除し、実物に忠実に表現しようとする。鳥瞰図は絵画と地図との中間のものと言えるかも知れない。
4)地図の主題
地図を描くに当たっては、その主題が重要となってくる。それはその地図でどんなことを表現したいかという意志表示である。例えば、地形図においては地形を距離や高さという尺度に従って表現しようとする。道路図は道路を利用する人が使いやすいように道路の状態や接続性などに主眼を置いている。地質図は対象地域の地表の地質分布を色で塗り分けて表現している。また地下鉄路線図は地下鉄の路線やその乗り継ぎ性をを重視して表現されている。
とりわけ地下鉄路線図は利用目的にもっとも特化した地図だといえるだろう。それは地下鉄の路線をあらわす様々な色の曲線たちと、その上に位置する点としての駅、曲線の交点にある乗り継ぎ駅から構成されている。地下鉄路線図は路線と駅順、乗換駅さえわかればいいわけだから、これでも十分なのである。むしろ余計なノイズを排除していてすっきりして見やすい。地下鉄路線図の例は極端ではあるが、地図の数だけその地図が伝えたい主題が存在するわけである。
5)地図はどこまで自由に描けるのか?
このタイトルは何を意味しているのか。それは地図制作者がどこまで彼の意図で脚色が可能であり、どこまで観測された現象の基づいて(観測結果に拘束されて)描かなければならないのか、という問いである。
結論から言うと、それは制作者の主題と意図によって左右される。すなわちさまざまな取り決め、例えば「北は上」「1キロを1センチ」「川の色は青」・・・といった取り決めをどこまで採用するか、また測量結果をどこまで反映させるのか、これらは地図作成者の判断にゆだねられる。ただし、一度その基準を採用してしまったら地図全体に散らばる記号たちはそれに従わなければならないのである。つまり「北は上」と宣言したら、地図上では北が上になるように記号を並べなければならないし、「等高線を精度良く表現する」と宣言したらば、地図上ではそのように表現しなければならない(多少の例外があるが・・・。
これはちょうど、世界そのものと同じ存在形態である。ある一定のルールや法則に従って事物がある、まさに世界の縮図をぼくらは紙の中に表現いているのかもしれない。
以上、地図について哲学してみました。
ただ、まだ書き足りないところがあるかもしれません。例えば「地図と支配者」「地図と世界観」とか・・・これらは時間があったらお話ししたいと思います。