(2001.2.10.PMC:)
記憶の反復と抑圧
トラウマ(心的外傷)とは、過去に受けたショック、苦しみ、恐怖などが心の傷となり、現在の心理に影響を及ぼし続けることである。こうした記憶が繰り返し想起され、通常の社会生活もできない状態になると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、治療が必要になる。逆に不安な記憶が忘却(抑圧)され、その無意識的記憶が身体的症状や強迫観念に転換すれば、神経症(ヒステリー、強迫神経症)と呼ばれることになる。神経症の原因を「トラウマの無意識への抑圧」として解明したのはフロイトだが、彼は過去の無意識的記憶を想起すれば神経症は治癒すると考えた。しかし、後にフロイトは「トラウマの多くは幼児期の空想である」と主張し、トラウマの現実性を否定してしまうのである。
解離性同一性障害
最近、トラウマ理論は再び注目されるようになった。何故なら、幼児虐待が激増し、その影響で様々な心の病が氾濫し始めたため、トラウマを空想とみなすフロイト理論は強い批判を受けることになったからだ。特に解離性同一性障害(多重人格)は、ほとんどのケースが幼児期において虐待を受けている。これは複数の人格が交代して現れ、お互いの人格は他の人格の記憶がほとんどないという症状を起こす精神障害である。その原因は、幼児期に虐待を受けた際、あまりの恐怖から解離(意識の分裂)が起こるからだと言われている。それはつまり、記憶の分裂でもあるのだ。
脳と記憶
一般に記憶を可能にするものは脳だと考えられている。大脳生理学の進歩によって、多くの人がこの唯脳論(心の問題を全て脳の機能で説明しようとする因果論的な考え方)を支持することだろう。だとすれば、脳の解明が飛躍的に進めば、記憶による精神障害の多くも解決するのではないだろうか。それだけでなく、将来的には記憶の操作も容易な時代となり、自分に都合のいい記憶を手に入れることさえ可能になるかもしれない(催眠の例を考えれば不可能ではない)。トラウマを消去し、捏造された理想の記憶を植えつけることができるとすれば、その時、私たちは幸せになれるのだろうか?
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記憶の現象学
脳の気質状態や脳波に関する実証的データを山ほど集めようと、それは心という主観的なものを客観的対象に還元しようとするものであり、記憶の本質を明らかにすることはできない。確かに脳の機能と記憶の間には因果関係があるだろうし、私もそれを疑っているわけではない。しかし、上述したような疑問は、記憶の本質に関わる問題であり、それを考えるためには現象学的な記憶の分析(本質直観)が必要になるのである。
表象として現れる記憶
記憶という言葉から即座に思い浮かぶのは、視覚的表象、聴覚的表象としての記憶である。例えば目の前にコップがあるとしても、そのコップが幻想だという可能性はどこまでも残る。もし私が「コップよ消えろ」念じただけでそのコップが消えたなら、私はそれを現実ではないと思うだろう。この現実ではないと思われる表象のうち、単なる夢や幻想ではなく、過去に見たり聞いたりしたことがある、と思えるものが記憶である。それは意志の力で呼びよせることができ、呼びよせられたイメージを意志の力で変化させることもできる。この点では想像の産物と同じだが、記憶の表象には意志の力では変えられないイメージ(核となるイメージ)が必ず中心にある。それは過去を(意識的には)変えることができないのと同じであり、この変えられないイメージが中心になければ、それを記憶だと確信することはできないのである。
反省として現れる記憶
私たちが記憶という言葉を使う場合、それは必ずしも視覚的表象、聴覚的表象としての記憶だけを意味しているのではない。例えば、目の前のコップを見て、「このコップはどこかで見たことがある」という漠然とした感じだけでも「記憶がある」と言われるし、訓練による反射的な運動なども「身体が覚えている」などと言われるだろう。それは、知覚や運動感覚に触発されて現れる記憶であり、必ずしもはっきりしたイメージとして想起されるわけではない。記憶とは視覚や聴覚、嗅覚、味覚、身体感覚など、「過去に知覚し、経験したことがある」という実感の全てを意味するのである。また、そのコップをあまりにも見慣れている場合、反省しなければ「コップの記憶」という経験さえ成り立たないだろう。運動などのように身体で覚えている記憶もまた、反省しない限りは意識されない。記憶には必ず「過去に経験した」という反省がともなっているのである。
意味としての記憶
記憶はある意味としても現れる面がある。意味として(整理されて)記憶されているからこそ、長期的で膨大な記憶が可能になるのだろう。しかし、このことが記憶に幻想を織り交ぜ、記憶錯誤を生じさせる大きな要因であるに違いない。何故なら、意味は固定的なものではなく、その類似した意味(隠喩、換喩など)に容易に変換されるからである。
「現実」を可能にする記憶
目の前の世界が「現実」である、客観的に実在している、という確信も記憶が可能にしていると言ってよい。例えば目の前にコップがある場合、目を閉じてまた開けても変わらずにそこにあるのなら、私はそれを現実とみなすことができる。それは、目を閉じる前に見たコップの記憶の像と、いま見えているコップの像が一致するからだ。だが、(誰もいないのに)コップが消えていれば、私はそれを夢か幻覚だと思うだろう。現実は意志の力では変化させられない表象というだけでなく、記憶の一貫性によって、そのリアリティは保たれているのである。
「私」を可能にする記憶
想起された過去の記憶が事実と違う可能性は常につきまとう。例えば虐待された幼児記憶が事実とは異なっていた、という報告も少なくない。これは、記憶がいつでもその都度の感情や考え方に影響を受けるからであり、それは想起される度に変形、強化される可能性があるからだ。私たちは多かれ少なかれ、様々な幻想を実際の経験に混ぜ込み、自分なりの自己物語を作ってバランスを取ろうとしている。また、表象としての記憶だけではなく、知覚や運動感覚に触発された記憶も「私はそれを過去に経験した」という自己了解に繋がっている。記憶の表象は想起される度に幻想を織り込みながら自己の物語を再構成し、その都度の知覚や運動感覚によって了解される自己を繰り込みつつ、「私」の同一性(アイデンティティ)を可能にしているのである。
記憶とは何か
記憶は私の固有な経験の総体であり、記憶の一貫性こそ、「現実」を成り立たせていると同時に、「私」の同一性を成り立たせている。また、記憶は常にある程度の幻想を織り込んでいる可能性があるため、それは過去の事実の総体ではなく、その都度における自己了解を示しているとも言えるだろう。
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再びトラウマ問題へ
例えば虐待された幼児記憶が事実とは異なっていた、という報告は少なくない。にもかかわらず、他人から見れば歪められた幼児記憶も、それが変えられないイメージとなっていれば、本人にとっては「確かにあった」はずの現実だということになる。逆に、虐待が事実であったとしても、それを思い出せばいいというものでもない。治療でトラウマを思い出した結果、さらに悪化した例は少なくないのである。つまり、記憶の事実関係は周囲の人間と齟齬を生じない限り、あまり重要ではないのだ。要はどのように記憶を了解しているかであろう。