会合日時:2001年 1月 6日

 

レジメ担当者:西村

 

テーマ:消費社会・情報社会

 

はじめに・・・「心配性の担当者よりお断り」

 

(最初にお断りしておきたいのは、これは共産主義のすすめではないということ

です。科学文明の弊害を指摘しても「縄文時代に還れ」といっていることになら

ないのは明白でしょうが、現在の消費社会、すなわち経済システムの弊害を指摘

するとそういう極論をあびせられることが多いので、念のためにお断りしました

 消費社会、情報社会ともに、それが悪であるというつもりは毛頭ありません。

いい面も大いにあり、また善かれ悪しかれそういう方向に変化していく流れは止

めようもないでしょう。しかし、この部分はこれでいいのかな、と立ち止まって

疑問をもつ視点は、いつの時代、何に対しても必要なことだと思います。)

 

 消費者重視の時代と呼ばれています。大量生産から多品種少量生産、さらには

変種変量生産、つまり生産者の都合でなく消費者の都合で生産が行なわれ、消費

者保護のために規制緩和が善とされ、CS(顧客満足)の追求が企業の使命とさ

れています。少しでも安く、便利で、良い品を提供する。それが悪いことのはず

はありません(倫理に反するビジネスでないかぎりは)。しかし、はたしてそう

なのでしょうか。「わがまま」という本来否定的なことばが、「消費者のわがま

まに応える」となると、疑問の余地なく良いことのように言われるのはなぜでし

ょう。このような流れが加速度的に進んでいくと、どうなるのでしょうか。

 消費社会、情報社会が人間の精神にどう影響を与えているのかを、「ボーダー

ライン 青少年の心の病」(町沢静夫 丸善ライブラリー)の「はじめに」を使

って見ていきたいと思います。

 

一 「ボーダーライン」の「はじめに」の主張

 

1 欲望発散の時代

 現代の消費社会は欲望発散の時代であり、フロイトのような抑圧の時代ではな

い。抑圧される欲望というのは現代ではほとんどない。むしろ、欲望をいかにコ

ントロールするか、いかに抑圧していくかを学ばなければならない時代であり、

その学ぶための試みが精神療法の主たる目標になっている。つまり、フロイトの

ような抑圧の下に隠れている欲望を分析し、明らかにするというスタイルから、

欲望の抑圧を再学習するという時代に向かっていると私(町沢)は考える。

 

2 消費社会、情報社会における価値の喪失

 現代社会を定義することは、いま我々がその中に生きているだけに難しいが、

現代を前時代と比較すると、ボードリヤールが言うように、生産主体の時代から

消費社会に移りつつあり、消費することに喜びを見出す時代になってきている。

それと深く結びついて、物そのものよりもさまざまな物の情報の交換を中心とし

た社会、つまり情報社会であるということもできる。消費するためには消費する

ためのさまざまな情報が行き交わなければならない。宣伝、広告、評判といった

、扇情的なまでに消費熱を高めるための情報が、消費社会には欠かすことができ

ない。その商品の実質上の良し悪しよりも、どう宣伝するか、どのように消費熱

を高めるかということに、現代の会社は膨大な投資をしている。

 現代を消費社会、情報社会ととらえると、我々個人の内面がどのように扱われ

るかが問題になる。激しく変動する流通社会の中で、人間の内面を十分に見る、

話す、伝えることはいかにして可能であろうか。我々の内面にある生き方や価値

観といった抽象的なことを、記号的情報にすることは難しいであろう。となると

現代の消費社会、情報社会は我々の内面を疎外していく可能性がきわめて高いと

いわざるを得ない。

 我々の表面的な価値、地位、学歴、容貌、ファッション、知名度の側面は情報

になりやすく、その情報に基づいて人を評価し、評価されることは当然と考えら

れる。消費社会、情報社会は人の欲望をかき立てる社会であり、欲望がかきたて

られればかきたてられるほど欲望のコントロールを失うようにしむけられている

。現代社会は欲望をコントロールできるように人を成熟させるよりも、自己のコ

ントロールが不足するように社会が仕組んでいるともいえる。なまじ欲望を抑え

て理性的でいては、情報社会では目立たない存在となり、つまり情報としての価

値を失うことになるかもしれない。

 

3 レーダー人間としての現代人

 リースマンはかつて『孤独なる群衆』(1950)の中で、伝統に縛られてい

る人間を伝統指向型人間として、それを最初に登場する古典的人間の特性である

と述べている。次のジャイロスコピックな人間は個人主義で、自分の価値を追求

し、あまり周囲を気にしない。あくまで自分の生き甲斐を追求する。いわゆる生

産主体の人間であり、資本主義を生み出した人達である。その次に登場してくる

のがレーダー人間であり、このレーダー人間こそ、今まで述べてきた情報社会、

消費社会に生きている現代的人間だと言える。巨大な情報を取り込み、それを伝

え、そのやりとりの中で自分の適応に備える。このような情報収集に長けたレー

ダー人間は、リースマンによって予測されていた。

 ジャイロスコピックな人間は、自分の価値追求を頑固なまでに守った。しかし

現代ではその反動として、その固い価値観は崩れたものの新しいものはなお確立

されず、価値観が混沌としてしまっている。そして、ただ価値観を持たぬまま情

報収集にのみ能力を発揮するレーダー人間が多く見られるようになっている。レ

ーダー人間は内面から築き上げた価値観を持たないため、一人おかれたとき、自

らの人生を楽しむ能力が失われていることが多い。自分自身の考え、趣味、そし

て自分で自分を楽しむ能力が情報社会では忘れられていくのであり、情報の中に

紛れ込み、自分を見失っていく形が現代人の生きる通常のあり方になってしまう

。彼らは群衆のなかにいても本当に楽しむわけではなく、まるで情報の交換が行

なわれている機械にすぎない。本当の喜びはそこにはない。

 

4「中心からの逃走」

 産業社会にあっては、働き、生産するために、まじめであることが最大の美徳

であった。今日の情報社会、消費社会を文化面から考えると、高度大衆社会とも

言える。この社会では、レジャー、流行、芸能・サービス業、遊びといったもの

が顕著に目立ち重視される。かつて我々はモノの豊かさを目指した。いまの大衆

社会の若者にあっては、モノの豊かさはほぼ達せられたと考えられるが、しかし

欲望の肥大は止まることを知らない。欲望が限りなく広がっていくとすれば、モ

ノの豊かさは達することはない。欲望はモノの豊かさとは別の次元のところにあ

るという事実に、我々はいま直面している。いかにモノが豊富であっても、欲望

は満足できない。そこで欲望の断念を迫られ、ひいてはそこにニヒリスティック

な遊びが氾濫することになる。

 ゼードルマイヤーはこの時代を「中心の喪失」と論じた。つまり、我々の心の

中身、意味、価値が空洞化し、見かけの形式的な人格の外枠しか身に付けていな

い、ととらえている。現代情報社会はフロムが述べたような「自由からの逃走」

の時代とはいささか異なると思うが、やはり本質的には我々は「自由」から逃走

させられている。見かけの自由はあり余るほどあり、その自由の裏側に消費熱、

あるいは欲望を操る隠れた意図がある。我々は、その見えざる手に支配されてい

る。そこでは、支配と被支配の関係がいつでも交代する。

 技術、情報、消費の社会とは、人間が生きる上での価値を問題にしない時代で

もある。人間の中心が疎外されており、人間の核を作ることが困難な時代でもあ

る。さらに多くの人は、自分なりの価値観、中心を作ることから限りなく逃げよ

うとする時代でもある。

 フロムの「自由からの逃走」を、現代では「中心からの逃走」と言い換えても

いいのではないだろうか。中心を喪失した人格が、中心のない社会とパラレルな

わけである。人間が一人一人中心を失ったラベルないし情報と化し、ある場合に

は部分として分断化され、人間疎外のただなかにおかれる。現代の若者は、その

ような疎外を疎外と感じず、それを甘んじて受けているとすら思えるのである。

現代人にとって疎外は、情報社会、消費社会、高度大衆社会、技術社会を生きる

のに有効な防衛であるのかもしれない。

 

二 

 

 抑圧される欲望がないといいきると、反論があるでしょう。すべての欲望が無

条件でかなえられるのでないかぎり、欲望は必ず抑圧されることになります。し

かし、 「こういう欲望を抱いてはならない」という強い規範のない時代という

意味にとれば、うなずけるのではないでしょうか。欲望をコントロールするすべ

を知らない人間は、どんなときにも「満たされない」心をもつことになり、かつ

他人との関係を築きにくいという意味で不幸です。

 

 消費者重視の社会といわれますが、実は、消費者という部分のみでできている

人間はいません。ほとんどの人は同時に生産者(サービス業を含む)です。未成

年者も生産者の扶養家族であり、無職の人も潜在的生産者です。一生遊んで暮ら

せる資産家のみが純粋な消費者でしょうが、なぜかこういう人も、事業を行なっ

たりと、生産者の仲間入りをしたがります。

 一般に、生産するとき人間には文字通り「生産的な」喜びがあります。自分が

会社の歯車にしかすぎないと感じる人も、義務を果たしているとか、自分はよく

がんばっていると満足する感情をおぼえることが皆無ではないでしょう。一方、

消費するときの喜びは快楽の追求という、ある意味刹那的なものです。両方共、

人生に必要なものです。しかし、後者を重視する傾向がつよまれば、生産的な喜

びには苦痛がともなう(可能性のエロス?)だけに、ますます後者に傾注する人

間が多くなるでしょう。これでは自分の価値観を確立すること、維持することは

困難になります。

 顧客主義、消費者保護はある程度までは必要(特に、最低限度の生活ができる

レベルまでは不可欠)です。しかし、程度が過ぎればミクロに見れば良いことに

思えても、全体的に見れば、「自己のコントロールが不足するように社会が仕組

んでいる」ことになってしまいます。また、それらが引き起こす企業間の激しい

競争は、同じ人間の別の面である生産者(仕事をする人間)を不安定で厳しい環

境におくことに直結しています。(倒産、リストラ、業績評価の人事システム、

厳しいコストダウン要求など常なる改善を求められ続けること)

 

 幼児に好きなものを無制限に与える保護者は保護者失格です。ましてや、その

幼児が何を欲しがるかを先回りして、欲する前に目の前に並べる保護者は。しか

し顧客満足追求とは、それを無条件で奨励していることに他なりません。

 実はこの譬えは二点において、現代の消費社会を表わすのに適切ではありませ

ん。ひとつは、私たちはすでに自我を確立させているはずの大人であり、発達途

上の幼児ではないということ。もうひとつは、幼児と保護者がどちらも私たち自

身になってしまうという点で。しかし、どんなに自我の確立した人間でも、欲望

を刺激され続ければ、影響を受けないではいられないでしょう。ある意味私たち

は、欲望の刺激の前では永遠に幼児の部分を残しています。「自己をコントロー

ル」するためには、環境の手助けも必要なのです。

 過剰な「消費者重視」「消費者保護」「消費者のため」は、生活者の保護では

なく快楽追求の道具立てにすぎないということをみてきました。それに気づき、

私たちが消費者であると同時に生産者であること、幼児であると同時に保護者で

あることに気づけば、私たちの生活を精神的にもっと豊かなものにしていけるか

もしれません。

 

三 おまけ

 一の繰り返しにもなりますし、ポスクラメンバーには釈迦に説法のようなもの

かもしれませんが、今回のテーマに関係のある他の本からの抜き書きを付録とし

てつけてみました。特に「セカイをよこせ」の方は、ここだけ読むと難解で、当

の若者はそう感じていないかもしれませんが、上の文と併せてみてもらえれば、

わかりやすいと思います。

 

「普通の子」が壊れてゆく

千石保 NHK出版 

 「子どもの荒れは、こっちを見てと訴える合図だ」というのは荒れの原因をみ

んな大人の愛情不足に帰因させている。しかし…かえって子どもを苦しめる可能

性さえある。何を言っても「あなたを大切に思っているのだから」と言われるの

では、子どもはいいようのない立場に追い込まれる。フラストレーションがたま

る一方だ。

「したいことしちゃダメなの?」という問いかけは偏執蓄積型社会への抗議であ

り、これは評価されるべきだ。しかし同時に、倫理観の脱落した感覚なのである

。われわれは彼らに対し、「したいこと」は大いにしてよいが、「悪いこと」は

だめ、とはっきりわからせる社会を作らねばならない。

 通常、人は自分の欲求に対し社会規範を意識する。欲求と規範との対立のなか

にあって、「してもよい」「してはならない」と判断する機関が必要になる。そ

の機能をもつのが「自我」である。…しかし彼女の場合、義務を感ずるのは秩序

や社会にではなくて、自分の欲望に対してである。だから「自分のしたいと思う

ことをしなくてもいいのですか」と言ったのだ。

[社会化なき自立が問題であり、偏執蓄積型社会からの逃走は肯定(承認あるい

は奨励)されるが、その行き先が必要である。そこには、自我を形成しての自立

(社会化)がなければならない、という趣旨である。]

 

セカイをよこせ! 子ども・若者とともに

楠原彰 太郎次郎社 

 日常の強いられた非人間的な関係、一方的な教育的関係や現実世界からの隔離

が、若者や子どもが他者や世界と豊かに交わり、まじめに他者や世界や歴史を認

識し思考することを邪魔しているだけではなく、絶望的な無力感と自信の喪失を

もたらしている。

 古い関係は崩壊しつつあるが、新しい関係はまだ見えてこない。

 いま存在しているのは、多くの場合、異質な他者や社会にたいしてきわめて閉

鎖的な家庭内での大人と子どもの過保護-過依存の関係か相互没関心関係(関係

の放棄)、また現実世界に閉じた学校での管理-被管理、飼育-被切り捨て、と

いった関係である。

 さらに社会のなかでは、子どもたちは一方的に市場経済(金儲け)のターゲッ

トにされ、売り手-買い手の関係のネットワークにからめとられ、消費の欲望の

みをかきたてられる。

 子どもたちは家庭でも学校でも社会でも、つねに被抑圧・被管理・被操作の関

係におかれ、そこでの無惨な経験から、彼らはどんな「関係」をも毛嫌い、疑い

、恐れるようになり、孤絶して内面に閉じこもるか、個々の人格を溶解させ非人

格的な固まりとなったような集団(仲間うち)関係に逃げこもうとする。

 自分自身の弱さを中心に地球が回っているという自己惑溺の世界に、ぼくはド

ンドン吸い込まれていった。…明日が来なければいいな、と子ども心に思うこと

が多かったのは、明日はもっともっとみじめな自分と出会うに違いないと感じて

いたからだろう。…それでも他者との関係を求め続けたのは、ぼくの空虚さとや

りきれなさが、他者との平和でハッピーな交わりによってしか満たされるもので

はないことを、感じていたからであろう。一人で自分自身になることはできない

。他者との関係が変わらない限り、自分は変わることができない。

 

 

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