会合日時:2000年12月16日

 

レジメ担当者:山竹

 

テーマ:無意識と関係性の了解

 

今回は、前回の「欲望と不安の自己了解」とも関係する内容です。

前回のレジメの後半に、「他者による自己了解」と「無意識とは何か」

ということを書いていますが、その問題に深く踏み込んでいくつもり。

 

山竹伸二

----------------------------------------------------------------------

 

無意識と関係性の了解

 

自分の感情を内省すれば、自己の欲望や不安(「……したい」や「……ねばな

らない」)を知ることができる(自己了解)。そのことが不安や葛藤の解消に

役立つことは間違いない。しかし、内的規範(自分の中のルール)の歪みが大

きければ、自己了解をすることは難しくなる。このような人々には、どうして

も他者の助けが必要になるのだ。例えばカウンセラーや心理療法家は、様々な

技法を使いながら自己了解を促す他者なのである。では、他者との関係におけ

る自己了解ということには、一体どのような原理が働いているのだろうか。

 

内的規範の形成と現代社会

 

母子関係による内的規範の形成

 

自分の行為に対して「よい/悪い」という区別を始めるのは、母親によってあ

る行為を禁止された時からである。衝動的な欲望が母親に「だめ」と禁止され

れば、それは母親に嫌われる行為なので抑える必要があるだろう。そうでなけ

れば、母親との関係の中にエロスは得られないので悪い行為ということにな

る。逆に「よしよし」と肯定されれば、それは母親に愛される行為なのでよい

行為である。こうして、他者との関係性の中にエロスを得るために、「よい/

悪い」という区別が生じ、原初的な行為の基準、内的規範が形成され始めるの

だ。

 

三者関係による規範の普遍化

 

内的規範が関係性のエロスという欲望を超え、より普遍的な行為の規範となる

ためには、母子関係だけでなく、父親(第三者)との関係を考える必要があ

る。フロイトによれば、エディプス期(3歳~5歳)になると、それまで絶対

的だった母親との関係は、父親の介入によって崩れることになり、父親はあら

ゆる他者の代表として社会規範を体現し、内的規範のモデルとなる。この三者

関係の葛藤を乗り越えることで、普遍性のある内的規範を形成し始めるのであ

る。

 

規範の内面化と近代社会

 

近代は、自己を反省し、自分がどうあるべきか、どのように行為すればよいの

かを、自己の内面に深く問いかけ、自分なりのルールや価値観(内的規範)に

従って主体的に生きることが可能になった時代である。ウェーバーは、プロテ

スタントが神の審判への不安から、絶えず自らを内省し、監視し、誰も見てい

なくても一生懸命働く倫理を作ったのだと述べている。フーコーも、自己を監

視する視点が近代社会の様々な仕組み(監獄、学校、兵営など)によって形成

されたのだと主張している。しかし、社会規範に普遍性がなければ、その内的

規範は個人の欲望を過剰に抑圧し、神経症の原因となるのだ。

 

規範の崩壊と現代社会

 

今日のように社会規範の絶対性が崩れた時代になると、今度は親が子どもに社

会規範を与えることができず、自由に育てようと甘やかすか、逆に自分勝手な

論理を押しつけがちになる。自由すぎれば、子どもは自己中心性を脱すること

ができず、衝動的な欲望を抑えることが難しくなる。結果として、キレやす

く、衝動的な行動に走りやすくなるだろう。一方、親の勝手な論理を押しつけ

られた子どもは、やはり歪んだ内的規範を形成し、絶えず不安を感じやすくな

る。いずれにしろ、自分の内的規範の歪みに気づき、他者と共通性のある規範

へと修正することが必要なのである。

 

無意識の本質直観

 

一切の仮説やモデルを使わないで無意識の本質を考えるためには、現象学的な

方法(本質直観)が必要になる。本質直観とは、簡単に言えば意識に直接与え

られた意味を受け取ることだ。無意識という言葉は、数多くの人々が様々な状

況で使ってきており、その意味にはある程度のばらつきがある。しかし、そこ

には必ず他者と共通に了解できるような意味が残るのだ。それが無意識の本質

である。そこで、無意識という言葉から直接思い浮かぶ意味(直観された本

質)を、誰もが認めるような本質へと練り直す必要がある。以下、無意識の本

質直観を試みてみよう。

 

無意識という経験

 

1.習慣化した身体の反応: スポーツや車の運転のように、訓練次第で身体

は注意深く意識していなくても自動的(スムーズ)に反応し、動くようにな

る。訓練による運動だけでなく、習慣化した感覚器官の自動的な反応もまた、

無意識だと感じさせるものである。通い慣れた場所には考え事をしていても辿

り着くし、大勢のざわめきの中でも、自分の気になることだけは耳に入ってい

る。このように、身体は訓練や習慣化によって自動的に反応し、いつのまにか

必要な情報を知覚していたり、身体が反応しているものだ。そのとき私たち

は、「無意識のうちにやっていた」と後になって気づくのである。

 

2.意図に反した表象・感情: 感情は欲望や不安を直接示しているので、現

在、その欲望や不安があることは間違いないと言えるが、それが無意識に抑圧

されていたかどうかは仮説の域を出ない。しかし、その感情が自分の意識的な

考えに反していたり、意表をついたものであるために、抑圧されていた欲望や

不安があったのだと確信されることになる。感情に比べて記憶表象や想像の場

合は、その表象が指し示す欲望、不安は推論されたものに過ぎないが、振り

払っても消えないイメージに悩まされれば、そこに無意識の不安や欲望がある

のだと思ってしまうものであろう。

 

3.他者の反応から知る無意識: フロイトによれば、抑圧された本音は「言

い間違い」や「忘れ物」のように、行動となって現れるという(失策行為)。

しかし、これは他人に指摘されない限りは無意識だと認めることは少ないだろ

う。また、自分では平気なつもりでも汗が出てきたり、身体に震えがきたり、

動かなくなったりすることもある。こうした失策行為や場違いと思える身体的

表出がある場合、自分で反省して無意識があるのだと思うことは少ないといえ

る。それは多くの場合、他人の指摘や態度によって、事後的に「無意識的なも

のがある」と感じる経験なのである。

 

無意識の共通本質

 

私が知らないうちに私の身体が反応し、動いてしまい、イメージや感情が湧き

出てしまうとき、私たちはそこに無意識があることを確信する。特に強く無意

識を意識するのは、「知らなかった自分」を強く感じる場合、特にそれを他者

に指摘される場合である。しかも、他者の指摘を受け入れるためには、その他

者との関係に親密感、エロスが必要である。その他者との関係性が大事だから

こそ、その指摘を真摯に受け止めることになるのだ。また、この「知らなかっ

た自分」は、言葉による指摘でなく、他者の微妙な表情や行為によって知らさ

れることもある。無意識とは、意識の主体性を超えて私の身体を動かすもので

あり、この意識を超えた私=「知らなかった自分」を知ること(自己了解)

が、無意識の本質だと言えるだろう。また、無意識的な身体の表出は自己了解

だけでなく、他者との関係そのものの了解に繋がっている。そして、その関係

性にエロスがあれば、私たちは他者の反応から「知らなかった自分」を認める

のである。

 

「無意識の了解」としての心理療法

 

無意識の本質が「知らなかった自分」を知ることだとすれば、無意識という仮

説を使っている心理療法の原理は、他者(治療者)との関係、他者の指摘や反

応によって、「知らなかった自己」(=無意識)を知ることだと考えられる。

このことを簡単に整理してみよう。

 

カウンセリング(来談者中心療法)

 

ロジャーズ流のカウンセリングでは、あまり指示や解釈を与えたりしない。ク

ライエント(来談者)が話すのをひたすら聞くことが中心である。そうするう

ちに、クライエントは自分で自己了解して不安を解消していくわけだ。ただ

し、カウンセラーは自分の欲望や不安を自覚し、自己了解できていること、言

動が一致していることが最低条件である。指示しないといっても、カウンセ

ラーの反応を通して自己了解するという心理療法の基本原則に変わりはない。

 

象徴化使った心理療法(遊戯療法、描画療法、ユング派)

 

欲望や不安を言語化することが難しいクライエントには、言語以外の媒体を利

用することができる。例えば絵を描かせたり、子どもの場合は遊ばせてみる。

この言語以外の媒体に現れた象徴を、無意識の欲望や不安と考え、それを解釈

する(言語化する)のだ。そして、この解釈を「知らなかった自分」としてク

ライエントが受け入れるためには、カウンセリング以上に心理療法家との関係

が重要となる。

 

刷り込まれたルールの修正(認知療法、行動療法)

 

習慣化された思考、強く身体化されたルールは、単に意識化しただけでは修正

されない。認知療法では、病気の原因を認知的枠組み(内的規範)の歪みによ

るものと考える。患者の考え方に根拠はあるのか、矛盾はないのかを考えさ

せ、この歪みを修正するのである。しかし、幼少の頃から身についたルールは

なかなか修正できるものではない。そこで、学習理論の「条件づけ」などを利

用した行動療法が有効となる。例えば「……ねばならない」という強迫観念を

治すには、「……ねばならない」行為とは反対の行為を何度も実行させ、内的

規範(ルール)を修正しても大丈夫だと実感させるのだ。

 

精神分析療法

 

精神分析の基本は自由連想である。自由連想は忘れられた過去(「……した

い」という欲望)を想起し、無意識の欲望を知るために行われるのだが、身体

化されたルール(内的規範)によって、自我は(無意識のうちに)欲望を隠蔽

しようと「抵抗」することになる。抵抗は、身体的反応、具体的な行動となっ

て現れることが多く、この抵抗に気づくことができれば、その背後にある無意

識的な欲望を自覚することが可能になる。そこで分析家は、被分析者の身体的

反応や行動、ちょっとした言動に対しても平等に注意を向け、意識化されにく

い無意識の欲望、抵抗を読みとり、それを被分析者に指摘し、解釈を伝えるこ

とになる。

 

ところで、先の本質直観によれば、無意識の了解は他者との関係にエロスがな

ければ生じない。心理的な治療にラポールが重視されるのはこのためである。

心理療法はこの原理がうまく働いている限りで効果を生んでいるのだ。そし

て、この治療関係を特に重視し、「転移の解釈」として技法の中に組み込んで

いるのが精神分析である。以下、転移を中心に関係性の了解という問題を考え

てみよう。

 

無意識と関係性の了解

 

転移とは何か

 

転移とは、被分析者の分析家に対する強い情動的な関係であり、幼少の頃の重

要な人物、特に父親や母親に対する感情が分析家に向けられ、再現されること

である。転移は治療への抵抗でもあるが、それは被分析者が幼児期に求めてい

た愛情や憎しみの現れであるため、無意識を解釈する上で最大の手がかりとな

る。しかも、適度な陽性転移の場合は治療にうまく利用することができる。勿

論、過剰な陽性転移は分析家の解釈を何でも受け入れ、分析家に対してあから

さまに愛情を求め、治療関係を壊してしまうし、陰性転移に変化することも少

なくない。

 

逆転移

 

被分析者の転移にともなって、分析家のほうにも被分析者に対する転移(逆転

移)が生じてくることがある。分析家にとっての過去の重要人物への感情が被

分析者に向けられ、過剰な愛情や憎悪となるなら、治療は著しく阻害されてし

まうだろう。しかし、逆転移は必ずしも分析家の過去と関係があるわけではな

く、被分析者の転移感情が分析家の無意識に直接伝わっている、ということも

ありうるのだ。そこで、分析家は自分の中に生じたその感情を解釈し、それを

被分析者に伝えることによって、被分析者の自己了解を促すことができるので

ある。

 

関係性の了解

 

分析家の逆転移は無意識のうちに身体的表出となって現れ、それを被分析者に

敏感に察知される可能性もある。さらには、被分析者もそれに対して無意識的

な反応を生じる可能性さえある。このような無意識のコミュニケーションが成

り立っているという確信は、他者の身体的表出に対して、自分も知らないうち

に感情が動き、身体的な反応をしていた、と事後的に見出すからでしかない。

相手のちょっとした反応は、自分に対する感情を最も正直に指し示すものだと

思いやすいものだ。それは、自分の感情や身体的表出が、頭で考えるよりも確

かな自分の本心だと確信しているため、相手もまた身体的表出のほうに本心が

現れているのだと確信するのである。したがって、相手の身体的表出に対して

自分の感情が動き、何らかの身体的表出が現れれば、そしてその私の身体的表

出に対して、相手が何らかの身体的表出を生じれば、それは言葉を介在しない

直接的な心の触れ合い、「本当の関係」だと感じることになる。つまり、この

ようなコミュニケーションは、お互いが好きなのか嫌いなのか、相性が合うの

か合わないのかという関係の了解に、強い確信を与えているのである。

 

まとめ

 

心理療法は無意識=「知らなかった自分」を知ること(自己了解)であり、

「……したい」と「……ねばならない」を知ること、欲望と不安、内的規範を

知ることである。そして欲望や不安との関係から内的規範に歪みが認められれ

ば、それを他者と共有できるものへと修正する、それが心理的な治療のエッセ

ンスなのだ。これは心理療法の原理というだけではなく、私たちの誰もが日常

で経験しているコミュニケーションの原理でもある。間身体的コミュニケー

ションを通した他者との関係は、そこにエロスを感じれば「いい関係」だと了

解され、その他者によって無意識(知らなかった自己)を了解する機会は多く

なる。他者との関係における無意識(知らなかった自分)の了解、それは私た

ちがお互いの可能性を開き合っている基本的な原理なのである。

 

 

戻る