++++ はじめに… なぜ「家族関係」というテーマを選んだか? ++++++
普段の生活の中で、皆さんは家族(親・きょうだい)との会話がありますか?
さらに、今まで家族と本音をぶつけ合って話し合う機会は、どれくらいありましたか?
親子関係においてでさえも、大事な時に大事なことをしっかり話し合えないために、社会生活の中での人間関係において苦しむ人が増えているという。子供たちの成長過程におけるゆがみや障害の背後には、必ずといって良いほど、家庭や学校、社会での人間関係が深く絡んでいると言われているが、家族どうしのコミュニケーションの希薄さが、様々な問題をひきおこす要因の一つとなっている。日常生活を共にしている家族から受ける影響は、想像以上に大きいものなのかもしれない。
今回のテーマでは、そこに「家族関係」というものがどう絡んでいるのか?皆さんと一緒に考えていきたい。
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§1 なぜ肝心な事が話し合えないのか?
今回のレジメのテーマを決めるきっかけになった本がある。
◇◇ 「話しあえない親子たちー“対立”から“対位”へー」(PHP新書) 伊藤友宣著 ◇◇
この本で、心理カウンセラーとして活動している著者が指摘していること。それは、親子関係において、大事な場面で、本音をぶつけたり、話し合うことができない為に、それ以外(学校や会社など)の人間関係において傷ついたり、深く悩む人たちがとても増えているということ。例えば、顔が見えないチャットとかなら、都合が悪くなればすぐに“落ちれば”よい。何となく気に入らないと言いながら、言葉で攻撃し放題もできる。実生活でいじめら
れっこの子でも、実体が分かりにくいネット上ならば、いじめっ子になって、うさ晴らしだってできる。
ネット上でチャットやメールなどを利用したコミュニケーション方法が、こんなにも普及した背景には、人間関係において、かすり傷が致命傷になってしまう若者が、今の現代社会にはとても多いからなのかもしれない。わずらわしい人間関係を避けて暮らしていけるシステムができればできるほど、逆に、人々は、ほんのわずかな人間関係にも耐え難いわずらわしさを感じずにはいられぬようになる。社会がこどもを育てる、というその“社会”とは、具体的に言えば子供を取り巻く人間関係の実質であると、著者は言う。親と子の関係、親たちの夫婦関係、親族との関係、きょうだいとの関係、友達との関係、先生と親との関係、先生同士の関係など、子供を取り巻く人間関係が、しっくり安定したものであることが、どれほど大事なことか…と著書の中で述べている。
§2 家族との出会いの中で…
◆ 家族関係の大変動 ◆
家族の成員を結び合わせている絆は同種のものではない。夫婦という横の関係を結ぶ絆、親子という縦の関係を結ぶ絆、それに兄弟・姉妹という関係も加わる。家族は単に「一体」としては把握できない複雑さがあるために、思いがけない対立や葛藤も生まれる。家族関係は、親子という「血」の関係と、夫婦という血によらない関係とが共存しているのが特徴。
◆ 生活の変化による影響 ◆
子供の数の変化
昔は…乳幼児の死亡率が高かったために、どこでも5人以上の出産が当たり前だった。
女性の平均余命は約43歳。だから、末っ子が学齢期になるころには母親と死別ということもあった。
現在は…子供の数は2人の家庭が標準となっている。
女性の平均余命も80歳近くまで延びた。
昔とは反対に、親と子が接していくことができる期間が長くなった。
子供の出産の数や、平均寿命の延長などが、親自身の生活を変え始めたことは確か。親と子の触れあいの流れも変わってきている。その流れを変えてきたと思われる原因として、物質社会の到来が挙げられる。経済的水準の向上によって、たいていのものは、お金があれば手に入る。子供が欲しがるものはできる範囲で揃えてやりたい、という気持ちから、子供へいろんな品々を与えるが、それで親の役目は終わったと、あぐらをかいてしまう。そして、その後の子供の生活ぶりに注意を向けようとしない場合が少なくはないであろう。
そういう状況では、親子間での人間的ふれあいを望むのは難しい。
§3 家族に対する考え方
◆ 東洋と西洋の大きな違い ◆
東洋 …大家族的=まず家族の中で自分の位置がどこにあるかという考え方
(優先順位)子育てが中心で、次が夫婦関係。離婚率低い(近年増加傾向)。
*日本の場合…同居子との濃密な接触と別居子との疎遠な交渉。
西洋 …核家族的=自分が中心にあって、その周囲に家族があるという考え方
(優先順位)夫婦関係が中心で、子育てが次。離婚率が比較的高い。
*欧米の場合…同居子との濃密な交渉。
※日本は、東洋の大家族的な方に分類されるが、近代の日本では少し環境が異なってきた。
大家族 …戦前の家父長制によって家族が統率されている形態。
↓
核家族 …わが国の高度経済成長の波に乗って導入された。
* しかし、今でも大家族的な考え方だけは残っているので、
どうしても、夫婦関係よりも子供への関心が強くなりがち。
§4 親子という関係
まず、この世に生まれて初めて接するのは「母親」である。その母親とのコミュニケーションの形成が上手くいかない場合、子供の成長過程において、他の人間関係を築いていく上では大きな障害をもたらす原因となりうることが考えられる。それ以外にも、父親やきょうだいの存在も、子供の人格形成に強い影響を及ぼしている。
人間関係のはじまりは、「母と子の関係」…母子の一体感が、わが国の家族関係のみでなく、人間関係の根本に存在していると思われる。
母子の一体感を破るものは「父親」…子供は、父親の存在を通じて「他者」の存在を知る。母親との一体感の多幸な状態を出て、子供は他者と接し、その他者と接していくためには、そこに存在する規範を守らなければいけないことを、父親を通じて知る。
⇒以上の事から、人間の生き方を支える原理として抽象化してみると…
母性原理…「包含する」ことを主な機能とし、すべてを包み込み、すべてのものが絶対的な平等性をもつ。
父性原理…母子の一体性を破ったように、「切断する」ことを主な機能とし、すべてのものを切断し分割する。
相対立する二つの原理は、片方だけでは不完全であり、相補ってこそ有効なもの。しかし、実際にはどちらか一方が抑圧されたり、無視される状態になっていることが多い。日本の場合は、この母性原理がとても強いと言える。父性原理が弱いために、母子の一体感はどこまでも温存され、他人に対して個と個の関係を持つ事はない。
*現在、子供たちの心の深層には、父性的なもの(=全体のバランスを壊しても、自分の力を主張する力)が生じてきたのではないか?しかし、その萌芽はまだ弱いものであるから、少しでも何かの困難にぶつかると、母性的な救いの中に逃れようとしてしまう。
*真の父性が育っていくためには、自己の主張が現実にぶつかり、あるいは社会の規範と衝突し、次にそれらを自分のものとして受けとめて考えていく過程が必要。
これらは、親子関係において話し合えない原因の一つであると考えられはしないだろうか?
なぜならば…母性原理が強いということは、包含性が強く存在するということ。
すべてを包み込む=温かいイメージが浮かびやすいが、裏を返せば、都合の悪いことは覆い隠すような 一面も持ち合わせていうことでもある。包み込む事で、知らぬ間に相手の言動を抑制している事もあるのだ。母性が強いってことは、あまりにも度が過ぎると、親の決めた枠に子供を縛り付けることへつながる。それを良い意味で立ち切るのが父性原理であるが、今の日本の家族関係においてはそれが希薄だという。
§5 きょうだいの存在
◆ きょうだいは他人のはじまり ◆
きょうだいの存在 ⇒他と分かち合うこと、強調すること、
競争心をどのようにコントロールするかなど、
きょうだい間の様々な体験を通して、
他人との関わりあい方の練習をする。
同性どうしの場合 … 自分の無意識の影を相手に投影して、その影と対決する面をもつ。
自分のマイナス部分を、もう一方のきょうだいへ預けて、
他を通して、その自分のマイナス部分と向かい合っていく。
異性どうしの場合 … 自分の影となる部分を相手に投影しながらも、相手から何かを学び取る。
異性の親に、配偶者となる異性の像を重ねてイメージを作り上げるが、
それに現実味を帯びさせるのは異性のきょうだいの存在。
きょうだいが多いと、関係はとても複雑化する。
複数のきょうだい間においての母親の争奪戦は、宿命的な体験であると言えるが、人生にとっての貴重な対人的試練でもある。おやつやおもちゃの取り合い、テレビのチャンネル争い、ささいなきっかけで始まった喧嘩でも、子供にとっては大事な対人関係を学ぶ場となる。
§6 なぜ対話が必要なのか?
人間は、親と対決し、心理的に親を殺していくことによって、他者の存在、他者と対決する方法を知る。それによって、自分と同じように、他人も自分のことを大切に思っているのだと感じる事ができ、 相手の気持ちを推し測る事もできるようになる。本来、子供が成長していくためには、親と対決することが必要不可欠なものなのだ。それがないと、人の気持ちが分からないまま育ってしまう。「他」がないという事は、本当は「自」もないという事。ところが、今の日本における子育ての実情としては、そのような状況が成り立ちにくいと思われる。それは、親の無関心、親の過保護の為に、子供と対決しないという問題が潜んでいるからである。日本では核家族化が進み、家族の枠がとても狭くなり、その小さい集団の中で集合性を保とうとしている。昔の大家族制度のもとでは、集合的ではあっても、家族の掟や部族の掟があった。しかし今では、そういった掟さえもすべて消え去ってしまったために、対決もなく自他の区別もつかない、だから、自分の世界だけが拡大してしまった人間が出てきてしまうのである。親に対する心理的な葛藤を正面から受けとめ、自分の中である程度解決して、親を一人の人間、他人として見られるようになった時、初めて「自立」ができたと言える。
自分と他人の区別がつかないという事は、現実と幻想の区別がつかないということ。
現実と幻想の区別がつかないからこそ、人を傷つける事だって何とも思わないのである。
家族といっても、夫婦にしても、親と子にしても、お互いに立場が違うし、異質な存在といえる。例えば親と子は、世代的にも異なるし、特に子供が幼い時に親は保護者であると同時に、権力的な圧迫者としても存在する。つまり、家族という最小単位の集合体の中でも、個々は対立した存在といえるのだ。 だからこそ、個々人の自立を大切にしようと考える場合、個人と個人との対話が必要なのである。対話をしつつ共存してゆくためには、人は自分の欠点や他人の欠点について、ある程度触れていく勇気を持たなければならないである。
§7 私にとっての家族とは?
私自身が「家族のしがらみ」と感じていたものは、母性原理に基づく何かに対してだったのだろうか。
とても「家族」という存在を重苦しく感じていた時があった。私の家族構成は、父、母、兄(私より7歳年上)、私の4人である。私は2人きょうだいの末っ子だったため、甘えさせてくれる人は周りにたくさんいたわけである。だけど、一時期、母親に対して強い嫌悪感ばかり感じて、どうしても衝突してしまう時期があった。母親自身、とてもしつけが厳しい人で、どちらかと言えば、私にとって父親は、甘えさせてくれる逃げ場でもあった。ある程度自分の考え方が出てきて主張し始めた時に、それも、親の意見に反するような言動をしたので、
母親と大衝突してしまったのである。今考えてみれば、こんなにも親に反発したのは初めてだったかもしれない。その時期が、ちょうど私が18~20歳の頃だったので、兄に「少し遅い反抗期だな」と言われたのを覚えている。今は母親への嫌悪感は解消されているのだが、それまでがとても大変だった。「なぜ、こんなに話しているのに理解してもらえないのか?」と、親子でなければどんなに楽だったかと思った。しかし、そんな状態が解消されるきっかけが来る。今まで親としての立場でしか物事を言ってくれなかった母が、一人の人間としていろんな気持ちを話してくれた…私と真正面から向かい合ってくれた。
だからと言って、私の意見すべてを認めてくれたわけではなく、尊重してくれる姿勢を見せてくれたのだった。
そこで初めて、自分も子供としてとかではなく、一人の人間として母親と向き合う事ができた。親の立場としてではなくて、母親自身の本音を直接ぶつけてもらえたことで、私も本音をさらけ出して、母親に対して素直な気持ちで接する事ができるようになったのである。
よく考えてみれば、これが私にとっての親離れの儀式だったのかもしれないと思う。「なぜ分かってくれないのか?」とこだわったのは、それだけ母親に対して強い思い入れがあったから。だけど、その母親と長期間に渡って対立したのは、その強い思い入れを断ち切って、親から自立したいと強く思っていた自分がいたからであると思う。こんな風に客観的に考えられるようになったのは、私自身の親離れの儀式が終わって、数年後だった。そして、家族という存在からこれほどまでに影響を受けていたのだなと実感したのは、つい最近の事。私自身、結婚して、家族を持つということが怖い時期があった。特に、子供を育てる事に強い不安があった。子供が受ける親からの影響の大きさを考えると、自分が親になった時に、どのようにして育てたらいいか見当がつかなかったからである。しかし、見当がつかなくて当たり前なのか…と思うようになった。人間は機械のように行動がパターン化されている訳ではないのだから、不透明な部分があって当たり前。だからこそ、本音でぶつかって、お互いに歩み寄ろうとすることが大事なのかもしれない。
これは、家族以外の人間関係においても言える事だと思う。
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<参考文献の紹介>
「話し合えない親子たち」 (PHP新書) 伊藤 友宣 著
「家族関係を考える」 (講談社現代新書) 河合 隼雄 著
「“家族”という名の幻想」(ふたばらいふ新書) 秋山さと子 著
「子供の発達と家族関係」 (大日本図書) 中原 弘之 著
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