会合日時:2000年10月22日

 

レジメ担当者:山竹

 

欲望と不安の自己了解について

 

「したい」と「ねばならない」の葛藤

 

普段、私たちは様々なことに悩んでいる。例えば「会社に行かねばならない」とわかってはいても、身体がだるく感じ、ぐずぐずしてしまうことがある。そこには「休みたい」という欲望があるのだ。しかし、会社へ行かなければ生活できなくなることは明らかだ。だが、生活のために仕事するのならもっと楽な仕事、あるいは楽しめる仕事もあるのではないか、などと布団の中で悩み始める場合、そこには「休みたい」という欲望と「働かねばならない」という義務感の葛藤がある。あるいは何か仲間内の集まりがあるとする。仲間にも会いたい。だが、どうも胸がムカムカしてきたり、胃が痛くなり、少し考えてみると「なんか嫌だな」と感じるのだが、あまり悩みの原因ははっきりしないとする。よく考えると、その集まりには気の合わない人間が一人いて、いつも居心地が悪くなる。だから「行きたくない」と感じているのだが、一方では他の仲間との付き合いも大事なので「行かねばならない」と感じ、悩むこともあるだろう。

 

「悩み」とは何かを考えてみると、それは行為の選択に迷っている状態であることがわかる。選択肢がないように見える場合でも、悩むからには自由な自己決定(選択)の可能性があるはずだ。複数の「……したい」という選択肢に悩む場合もあるが、これは苦しみの大きい状態ではないので問題にしない。ここで取り上げるのは、「……ねばならない」という実感と、それに反するような「……したい」という実感の葛藤である。単純に考えれば、「……ねばならない」は義務感のようなもので、「……したい」と感じる欲望の実現を、つまり自由を抑えつけるものに思えるだろう。だが実際には、「……ねばならない」は他の「……したい」という欲望に結びついていることも多いのだ。

 

ハイデガー時間論からみた欲望と不安

 

ハイデガーによれば、私たちはこれまでの自分が「何であったか」を了解し、それによって今後「何でありうるか」をめがけて生きており、そこに「いま」という時が生成されるという。彼は「死の不安」から時間性の違いを導き出しているが、そこに「エロスへの欲望」という視点を導入してみよう。もし、「いま、ここ」でエロス(悦び、快感、楽しさ)が得られているなら、私たちは未来の可能性にすがる必要性は感じないかもしれない。逆に、「いま、ここ」でエロスを感じることができないなら、欲望を満たす可能性を未来に求めることになる。いまは苦しいが将来はきっと幸せになれる、あるいは自分の思い描く夢を実現できる、と考えている場合、いずれも未来に可能性のエロスを見ているのであり、現在よりも未来を思い描くために、時間性に違いが生じることになる。

 

しかし、私たちはエロスに導かれるよりも、不安に突き動かされることのほうが多いかもしれない。例えば、現在ある程度のエロスが得られていても、「いつまで続くのだろう」とか「このままでいいのだろうか」といった不安があれば、やはり自分のやっていることを振り返り、将来の可能性に思いを巡らすことになるだろう。私たちは、自我の不安、愛情喪失の不安など、様々な不安を抱えている。なかでも死の不安は、自分の生そのものに意味があるのかどうかが問題となる。そこで、不安を抑圧して刹那的な快楽を求めるか、不安を取り除くための行為を選択して可能性を求めるか、いずれかになりやすい。これも時間性の違いを生じる原因である。

可能性の中に意味とエロスを求めることは、「……したい」という現在の欲望を超えて、将来において「……したい」、だからいまは「……ねばならない」という実感があることを示している。この「……ねばならない」は、はっきりした可能性のエロスから生じる場合もあれば、不安から生じる場合もある。ハイデガーは死の自覚による「良心の呼び声」を主張しているが、これは死の不安から生じる「……ねばならない」という実感の比喩なのだ。

 

欲望と不安、ルールの関係

 

「……したい」という実感が端的に欲望を示しているのに対し、「……ねばならない」という実感には、「欲望の実現」と「義務の遂行」という二面性がある。何かをしなければならないのは、「……のため」というような、何らかの目的があるはずだが、この目的が可能性のエロスに繋がっていれば、「……ねばならない」も「……したい」と同じように、欲望を指し示し、その実現へ向かっていると言える。しかし、エロスにも繋がっていなくとも「……ねばならない」という実感が生じることは少なくないだろう。そのことを詳しく考えると、「……ねばならない」は以下のように分類できることがわかる。

 

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1.理想追求型

例えば、「一生懸命働かねばならない」というような場合、「金持ちになりたい」から、「家族を幸せにしたい」から、「もっと成功した人間になりたい」から、等々のエロスに繋がっている。もっとはっきりした夢や理想がある場合には、その可能性のエロスを手に入れるために、より現在の欲望を我慢し、苦しいことを引き受ける動機は強くなるだろう。また、これは理想の自己像に近づくというエロスでもある。強い人間、優れた人間、優しい人間という理想の自己像があれば、頑張って身体を鍛えたり、勉強したり、他人に優しくすることになるのだ。この場合、「……ねばならない」の必要性を自覚しやすいため、自分の意志で選び取ったという納得感がある。これは、可能性のエロスをはっきり自覚しやすい型である。

 

2.自我安定追求型

夢や理想像ではなく、単に特定の他者に認められたい、愛されたいという欲望に繋がっている場合である。これは、夢や理想のようにはっきり思い描けるエロスではなく、誰もが抱えている承認や愛情への欲望である。他人に親切にする場合でも、「親切な人間」という理想像があるというより、その特定の他者に嫌われたくない、認められたいという動機のほうが強いわけだ。ただし、これは自覚的(戦略的)に親切にする場合もあるが、習慣化し、自覚しにくいことも多い。このため、理想追求型よりもエロスへの繋がりを自覚しにくく、納得感もあまり強くはない。むしろ後述する「不安回避型」に近い面もある。

 

3.義務遂行型

エロスに繋がっていないように見える場合でも、「……ねばならない」理由がはっきりしていれば、納得はできる。例えば「暴力をふるってはいけない」というような、一見、エロスとは無関係に見えるルールに従う場合でさえ、「自分も暴力を振るわないで欲しい」という欲望に繋がっている。ただし、これは意識的に自覚することは少なく、エロスに導かれるような欲望でもない。普段はただルールに従っているような

拘束感があるだけなのである。それでも、「自分が社会で安全に生きていくため」という目的を自覚できれば、エロスはなくとも納得できるわけだ。また、これは社会のルールを守ることで、他者から認められたい、認められるような人間でありたい、という欲望に繋がってもいるため、「自我安定追求型」にも近い面がある。

 

4.不安回避型

不安から生じる「……ねばならない」という実感も、未来の状況が悪くならないように、少しでも望ましい状況に「したい」という欲望に繋がっている。エロスに導かれているわけではないが、「……のため」という生の意味を感じさせ、強いエロスに転化していく可能性はある。しかし、実際に不安がエロスに転化することは少なく、ただ状況が悪くならないようにという、ネガティブな欲望がほとんどである。死の不安、批判されることへの不安、不幸になることへの不安など、予期される最悪の状況を避けるためだけに、「……ねばならない」と感じ、その行為は遂行されるのである。

 

5.不合理信仰型

不安による「……ねばならない」は誰もが少なからず経験することだが、必要以上の過剰な不安という場合もある。他者からみれば不合理とも思えるような過剰な不安、強迫的な「……ねばならない」という実感がある場合だ。事実、それは不合理な思い込みによるものがほとんどである。他者に迷惑をかけないためでも、他者との関係に信頼やエロスをもたらすためでもない。また、自分が安心して生きていくためでも、夢や理想に繋がっているわけでもない。「……ねばならない」の根拠がない場合、それは不合理なルール、思考を身につけてしまっているのであり、不毛なゲームにはまっている可能性が高い。

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以上5つの型は単純に分けられるものではなく、相互に規定し合っていることは言うまでもない。こうした「……ねばならない」という実感は、社会的なルールや価値観が内面化されたもの(内的規範)から生じることが多く、そのルールの多くは身体化されている。この内的なルールが社会と共通性を持ち、その価値観が可能性のエロスや理想を含んでいるものなら、そこから生じる「……ねばならない」の根拠は自覚しやすいものとなるだろう。しかし、私たちは歪んだ内的規範を多かれ少なかれ身につけており、自分の感情、欲望を抑えてでも「……ねばならない」と感じてしまうことがあるものだ。それが極度に強くなった状態が「不合理信仰型」である。

 

欲望と不安の自己了解

 

内的規範が極度に歪んでいなければ、自分の感情から「……したい」という欲望、「……ねばならない」との葛藤による不安を知ることができる。つまり、ある程度までは自己分析によって自分が最も望んでいること、不安を感じていることを知ることができるのだ。それが少し難しい人は他の人の存在が必要となる。他の人が話を聞いてくれたり、反応してくれるだけでも、自己理解はかなり進展する。これは、内的規範の歪みが少なく、信頼できる他者(友人・恋人・親など)に恵まれていれば、すでに日常的にやっていることかもしれない。だが、内的規範の歪みが大きい場合は簡単ではない。以下、簡単にまとめておこう。

 

1.感情からの自己了解

「悩み」の多くは、モヤモヤした気分が最初にあり、問題自体がわからない状態がある。「……したい」と「……ねばならない」の葛藤は、即座に言語化、分類できるほどはっきりしたものではないことが多い。したがって、まずそこにある感情をよく内省し、その意味するものを考えれば、「……したい」と「……ねばならない」がはっきりしてくるだろう。実際にはそれ以外の欲望や感情も複雑に絡んでいるのだが、行為の判断をする上では重要な欲望、不安だけを問題とすればいいはずだ。つまり、まずどのような「……したい」と「……ねばならない」が葛藤の中心にあるかを抽出し、それを了解することが必要なのである。

 

2.自己分析から自己決定へ

「……したい」と「……ねばならない」がはっきりしても、すぐにはどちらを選べばいいのか分からないことが多い。そこで、次にその「……ねばならない」の根拠を考える必要がある。「……ねばならない」が何らかのエロスに繋がっており、それが現在の「……したい」を超えるような価値があれば、多少は我慢してもこの「……ねばならない」に従う理由があることになる。また、不安を回避することや、安全確保のためであっても、モヤモヤしたままにしておくよりは納得ができるはずだ(既述の分類を参考)。この内省によって自己の欲望や不安を了解し、納得のいく行為の判断、自己決定をする可能性が開ける。

 

3.他者による自己了解

「……ねばならない」の根拠が見つからない場合、それは不合理なルールが刷り込まれている可能性が高い(不合理信仰型)。この場合は、まずその不合理性を指摘し、新たな理解のための助けとなるような、信頼できる他者の存在が重要である。もっと言えば、他者との関係に信頼感、エロスがあればあるほど、この不合理な「……ねばならない」を修正する可能性があるのだ。そこには他者によって指摘されたり、他者の振る舞いによって発見される、「知らなかった自分」への気づきがある。それは、自己分析で薄々気づいていたにせよ、他者によって認めてもらい、受け入れてもらうことで確信が持てるのである。

 

4.他者による自己了解 2

この「知らなかった自分」を「無意識」という仮説を通して、意図的に実践する作業が心理療法、カウンセリングと呼ばれているものである。それは無意識=「知らなかった自分」を知ること(自己了解)であり、「……したい」と「……ねばならない」を知ること、欲望と不安、内的規範を知ることである。そして欲望や不安との関係から内的規範に歪みが認められれば、それを周囲と共有できるものへと直していくこと、それが心理的な治療のエッセンスなのだ。

 

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補足) 無意識とは何か?(本質直観)

 

無意識とは、意識の主体性を超えて私の身体を動かすもの、意識を超えた私自身の総称だと言える。したがって、この意識を超えた私を知ること(自己了解)が、無意識の存在を確信させているのである。また、無意識的な身体の表出は自己了解だけでなく、他者との関係そのものの了解に繋がっている。他者の私に関する指摘は他者の私への感じ方そのものであり、その関係性にエロスがあれば、私はそれを「知らなかった自分」だと認め、どうでもいい他者であれば認めないのである。こうしてこの経験は自己了解だけでなく、その他者との関係をも捉え直すことになるのだ。この他者との関係の了解は身体的な表出が大きく左右しており、そこに強いエロスがあれば、その関係はよりよいものだと了解され、他者の身体的表出から「知らなかった自分」を知る(自己了解)可能性も高くなる。逆に不快感がある場合、その関係はよくないものだと了解され、他者の身体的表出から読み取れるのは「知らなかった自分」ではなく、相手の自分に対する歪んだ偏見だと思えてしまうのだ。その他者との関係が大事であれば、他者の指摘や身体的表出が指し示す「知らなかった自分」を了解し、新たな関係の可能性を求めることになるのである。

 

 

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