普遍(または一般)と個別は、ぼくらが日常生活の中で常に外的世界のなかに
感じている性質の一つです。ぼくらは、世界にちらばるあらゆるモノ(こと)を
認識して、それをまとめたりばらしたりして生活しています。無意識のうちにぼ
くらは、あらゆるものの普遍化と個別化を臨機応変に行って、うまく日常生活を
送っているのだと思います。では、この普遍と個別とはいったい何なのか?これ
が、今回のテーマです。
1)歴史的な経緯
普遍と個別の論争は、太古の昔から行われてきた人間活動のひとつであるとい
えます。それはおそらく人間が主観を確立した時期にまで遡れるのかもしれませ
ん。大昔のことはよくわかりませんが、ギリシア哲学以降の西欧の形而上学的な
哲学の系譜はこの二項対立を鮮明に見ることができます。とりわけプラトンあた
りは、普遍的な要素をそのまま「イデア」という実体に昇華してしまいました。
これ以来、この議論の中では常に普遍に方が上位のモノとされてきました。特に
西欧の哲学シーンにおいては、つい最近までこの傾向を打破できなかったので
す。いや、もっと言ってしまえば現在においても、あまり状況は変わっていませ
ん。普遍(または客観)を求めて歩くことは、人のサガなのかもしれません。
2)認識 -> 個別化 -> 普遍化のプロセス
人は生きるために個別化し普遍化していると書いたけれども、ではどのような
プロセスをたどっているのか分析したいと思う。
まず世界を認識するところから・・・。認識される前の世界(この仮定もかな
り無茶だが)は、私たちにとっておそらく「のっぺりとした世界」であると思う
のです。「のっぺりとした世界」とは、絵画のようなものです。そしてそこから
おのおのの「もの(こと)」に意味づけて、世界から「もの(こと)」を抽出し
ています。いわゆる道具論的な(もしくは目的論的な)意味づけの作業です。ち
ょうど果物の描かれている絵から、「果物」を示す領域(ただの絵の具の面に過
ぎないのに)を特別に意味付けて囲い込んで名前をつけるのに似ています。こう
して「のっぺりとした世界」から「果物」を切り離すことに成功しました。この
プロセスが認識であり、個別化のプロセスにあたります。
さて個別化したものを普遍化する作業にうつります。個別化されたおのおのの
ものからその性質を取り出します。そして、ある特定の性質をそれと類似する別
のものと比較し、合致するもしくは類似するようなら、それらは同じものであ
る、と僕らは認識するわけです。
4)個別化が先か、普遍化が先か
さあ、ここまで人間の認識活動から個別化を経て普遍化にいたるプロセスを見
てきました。しかし、賢明なみなさまならもうお気づきでしょうが、何か変では
ないでしょうか??そうです、「のっぺりとした世界」から、個別のものを取り
出す作業のところで、すこしおかしなところがあるのです。
果物の例でいえば、目の前の果物を「果物という食べ物」として認識するとこ
ろです。そう、果物が食欲という欲求をみたすものであるという分類、つまり普
遍的な「食べ物としての果物」という概念(もしくはイメージ)がこの時点で与
えられていなければならないのです。だから、ホントに個別化が先で普遍化が後
なのかよくわからないのです。というか、同時に「個別」の識別と「普遍化」が
起こっていると考える方がより自然なのかもしれません。それは多分に経験的で
ありその経験を通したり、また他者からの強い「認定」があって初めて、確固た
る普遍を獲得するのだと思います。
5)それでも同じものに見えてしまう・・・
ここまで、ぼくらがどのように個別化・普遍化をするのかを述べてきました。
その中で、僕たちの関心がそれらをひとつの意味のかたまりとし、そして同様の
目的を持つものにまとめあげて行くプロセスを見てきました。
順序立てて考えて行くと、確かにこの道筋は正しいように思える、しかし、や
っぱり「似ているモノ」と「全く異質なモノ」のギャップは大きなものに見えて
しまう。これは、長年にわたる経験という名の(他者からの認定も後押しされ
て)「すり込み」の結果なのだろうか。そうは言っても僕らが見る見ないにかか
わらず、このような傾向はあるとしか思えない・・・。外的な客観的な世界を想
定しその中に「ある」とか「ない」とかを議論するのは現象学的には無意味なの
だろううけど、この気持ちはどうすればいいのだろうか?
ここからは、普遍性と個別性が自分にとってどのように見えているのかを述べ
てゆく。
6)遠くから見ると同質、近くで見ると異質
こんなことってありますよね。
地平線の彼方に2つの動くものが見えていて、こちらに近づいてきます。どうも
動物のようです。この時点では2つとも動物という大雑把な意味で同質です。さ
らに近づいてくる2つを見ていると、2つとも4本足、どうも2つとも馬のよう
だ。さらに近づいてきた。そして、馬は馬でも1頭はシマウマ、もう1頭は道産
子だった。これは情報量が少なければ少ないほど同質に見え、情報量が多くなる
にしたがって異質なモノが見えてくる例の一つである。より大雑把な普遍は情報
量の過多によって個別化されてしまうのです。
7)普遍とは富士山のような集合?
さらに、富士山の例。東京から見れば、富士山は一つの山として認識されま
す。しかし、例えば富士山の山麓に立てば、どこからが富士山なのかわからなく
なる。結局、富士山は山頂を中心にして、放射状に離れるにしたがって富士山の
「富士山」的な要素が薄れてゆくある種の集合体なのかなぁ、と思ったりする。
山頂が最も「富士山」的な濃度が濃くて、5合目を経て富士市あたりまで来る
と、富士山的な濃度は薄まってゆく。
この感覚が、「普遍」の性質にも当てはまるのではないか、と思う。例えば、
「植物」、「植物」的濃度が濃い代表はケヤキや杉といった樹木、チューリップ
やサルビアなどの草花などだろう。しかし、植物に分類されているモノに食虫植
物のように動物的な植物がいたり、コケやシダのように細菌類に近い植物がいた
りする。結局、「植物」という概念も中心をもち濃度勾配を持つ、広がりなのか
なぁと感じるのです。
またこの広がりは時間の方にも広げられます。ケヤキでも種子の時代があり、
また枯れて腐って有機物になったものもある。この境界も非常にあやふやで、こ
れらの時期はケヤキにとって「植物的」な濃度が非常に薄い部分なのかなぁと思
ってしまうのです。
8)普遍を均質なものと考えてしまう私たち
本来少しずつ異なるが、ある視点から見た際にある程度共通点のあるものを囲
い込むことが「普遍」である、と述べてきました。つまり程度の差こそあれ、あ
る一定の共通項を満たすという理由で、その共通項によって束ねられたものが普
遍の正体でした。そしてそれは非常に漠然としたものでした。
しかし、このように成り立ったはずの普遍ですが、その成り立ちのストーリー
が問われなくなると、共通項の度合いが全く同じのものであると勘違いされやす
くなります。ある「普遍的な概念」が発せられたとき、それは確固とした絶対的
な一つのもの、すなわち「真理」として捉えられてしまう。そしてその真理が本
質であり、現実にあるものはその不完全体である、とする視点。ここから「例
外」の排除、「異質」の排除が生まれる、本来は多様なモノをその一側面だけ取
り出し、均質なモノであるとして認識し決めつけてしまう。この勘違いが、様々
な悲劇を生みだしてきたのかな、と感じるのです。
また一方で、この理想化された普遍像をひとつのモデルとして、それに向かっ
て突き進むことで人間の成長が促されていることも事実であるのです。
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テーマですが、「普遍と個別」、池田くんに「以前やった「思考すること」にレ
ジメが似てますね」、と鋭い突っ込みを入れられてしまいましたが、その通りで
す。認めます。というか、やはり考え方の癖というのはでてしまうんですよね
ぇ。ま、以前のテーマと対象領域が重なってしまうというのも否定できませんけ
どねぇ。ということで、許してね、いけだくん!
レジメの前半は、認識について、そして認識のプロセスの中で「普遍と個別」と
はどのような位置を占めるのかを述べてきました。後半は、「普遍と個別」の性
質について述べました。しかし、わりと無難な分析?だったようで、みなさんに
あまり異論がでませんでした。こんどからもっと挑発レジメを書こうかなぁ~、
なんて感じています。
さて、西村さんに指摘されたのが、普遍と理想の区別について。普遍というとど
うも、何か変わらないというか究極的な本質といった意味がありますが、それか
ら派生して目指すべき理想的なもの、というニュアンスも含まれてしまう場合も
あります。これは、明らかに飛躍であり「普遍」の誤解なのでしょうが、ぼくも
その誤解の術中にはまってしまったようです。多分に「普遍=理想」的な感覚で
書かれている文脈があります。これはボクの勉強不足です。しかし、世の中にこ
のような誤解が横行していることも事実でしょう。
あと、富士山の例え、判りにくくてごめんなさい。自分自身、2つの意味合いを
混同して書いていました。というか判っていたんですが、1つの例えで2つのこ
とを書いてしまおうという横着がこの事態を招いたのでした。会合に出席された
方々には説明しましたが、この例えで言いたかったのは以下のとおりです。
1つは、「種」の領域についての例え、これは「富士山」の後に「植物」の例え
で言い換えていますから、判ると思います。
もう1つは、富士山というものが見方によって様々に見えて、しかもその様々な
富士山は全て真であるということ、つまり絶対普遍的な(真理な)富士山という
ものは存在しない、観測者によって、もしくは観測の仕方によって、また観測者
の気分によって、異なってくるということです。この別の例では「牛」を見た
ら・・・。食通が牛を見たら「食べ物としての牛」を見ます。酪農家が牛を見た
ら「ミルク生産機としての牛」が見え、食肉牛を扱う牧場主が見たら「お金に換
金できる食肉」として見えるでしょう。ヴェジタリアンから見れば「かわいい哺
乳動物」かもしれない。牛が牛を見れば「お父さん」かもしれないし、「ライバ
ル」かもしれない。しかし、すべて「真」なのです。
さて、これをMLに長そうと思ったら、山竹さんの感想があったのでそれに対す
るコメントを・・・。山竹さんの意見はもっともですね、確かに。割と普遍化さ
れていて共通了解として完璧な像が出来てしまっている(ほんとは違うんだけど
ね)「モノ」などよりも、他者と見え方が微妙にずれている「価値」や「観念」
のほうを分析した方が面白かったかもしれません。この方がいろいろと異論を挟
みやすかったかもしれませんね。それはこれからの課題にしていきたいと思いま
す。
さらに、山竹さんは論を進めて、例えば「自由」といった普遍的な概念を本質直
観してゆけばきっと誰にとっても成り立つような普遍的な本質、「共通了解」に
たどりつく、としています。しかし、ぼくはそこまで楽観視はできないのではな
いのか、と思います。
例えば「自由」という概念は、その人々の立場によっても異なってくると思いま
す。管理する側の「自由」と管理される側の「自由」は当然異なるだろうし、大
人のそれと子供のそれもことなります。また、個々の人たちによって異なってい
るのみならず、彼の成長に伴って異なってくるだろうし、1日の中でも気分によ
っても異なってくるだろうと思うのです。さらに自分自身、自由という言葉がも
たらす「希望の光」的な気分は想像できますが、具体的に言葉にすることはでき
ません。否定神学的に「自由は・・・ではない」とは言えますが、「自由と
は・・・である」とは言えないような気がする。結局、自由という名の幻想の、
ぼやけた雲の周りを右往左往しているような気分です。
ということで、共通了解でカチッと意味が決まってしまうとは、思えないので
す。ただ、みんなで本質直観する事によって少しは誤解が解けるかもしれませ
ん。