(問題提起) なぜ、この国の人々は、個人同士が正面から向き合う
<対話>を避けるのか?
第1章 対話とは何か?
◆ 対話と会話の違いー対話は、会話とは異なるもの。また討論とも違う。
会話…異質な諸個人が異質性を保持しながら結合する基本的な形式
自分の生きている現実から離れた客観的な言葉の使用法。
一方的に語るだけのもの。
対話…各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観に基づいて
何ごとかを語ること。
互いに精緻な論理を積み重ねて真理を求めようとすること
⇒ソクラテス=プラトン的対話
つまり自分の人生を背負って語ること。全裸の格闘技と言える。
第2章 今の日本社会における現状
◆ 沈黙する学生の群れ
今の大学の授業において、教室は学生達の「私語」と「死語」が支配。
私語…授業中にヒソヒソと全く関係のない話をしている。
死語…いかなる時も死んだ様に黙っている。
私語と死語に支配された学生達は、言葉を信じていない。
(理由)⇒それは自分が語る言葉が、全体の状況を変えるような
体験がないから。
日本における「和の精神」が、新しい視点や革命的な見解をつぶしていく。
だから、いつまでも保守的かつ定型的かつ無難な見解がはびこり、
積極的に発言をする機会が奪われていく。
◆ 管理標語・放送の氾濫
普段の生活の中で、標語やポスターなど、
「ああしましょう、こうしましょう」という
命令・指示的な言葉が氾濫している。
(例)防犯・環境・非行防止・選挙に関する標語など。
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要するに、儀式と名目の複雑な象徴体系があり、極端な形式主義があって、
集団の成員がそれを守っている限り、集団の秩序が保たれる仕組です。
形式または規則を、守る側から言えば、それを守っている限り、
何にも考えなくても、集団の中でうまく行く様に保証されているといってもよい。
そのうまく行くということの中には、個人の安全、個人の安全の集団による
保障ということが、含まれます。
すべての体制順応主義者にとって、日本の社会は、非常に安全な社会です。
( 「日本文化のかくれた形」 岩波書店 加藤周一著 )
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* ヨーロッパ社会…「西洋近代型の倫理観」
個人がみずから自己決定し、自己責任をもつ。
* 日本社会…「個の倫理」
与えられた場の平衡状態の意地に最も高い価値をおく。
第3章 対話を妨げるものー優しさ・思いやりー
対話を妨げるもの…優しさ、思いやり、配慮、察し(現代日本人が好む言葉)
◆ 思いやり … 相手の立場、感情を想像して攻撃抑制的な態度をとること
思いやる(思いー遣る)…遠く離れている人や場所を心に浮かべる、
思い馳せるという事が原義
↓
共感ということにおいて、自他の距離の存在はまずもっての前提。
思いやりはエゴイズム(利己主義)の変形
以下、竹内靖雄氏が、著書である「日本人の行動文法(ソシオグラマー)」
で言及していること
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思いやりは自分から出てきたソシオグラマー(=行動文法)である。
「自分が他人からいやなことをされたくないから、
他人にもそのいやがることをしない」のであって、
思いやりは自己利益の追求という原則に矛盾しないどころか、
利己主義の変形である。
すべては「自分の利益本位」という原則から説明できることであって、
日本人の思いやりは無条件に他人を尊重することとは違う。
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◆ 優しさ…最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、
他者との対立や摩擦を徹底的に避ける事であり、
この目的を達成する為に「言葉」を避ける。
以下、「やさしさの精神病理」(岩波新書) 大平 健 著 より引用した部分
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「奥さんの気持ちを…尋ねてみましたか?」
「いいえ、だって悲しんでいるに決まっているじゃありませんか」
やはり。相手の気持ちをあたかも決めつけてしまうかのようなこういう言い方は、
“やさしさ”の特徴です。
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●「やさし」の語源説…ヤス(痩す)の形容詞形―「やす」べき状態にあること
相手や世間に対して、どうも気兼ねして
身のちぢむ思いのするさまを意味。
●「優しい」の“優”の原義は、「わざおざ(俳優)」ということである。
“憂”は喪に服し愁いをもつ人。
その憂愁にうちしずむ姿を“優”といい、
またその姿をまねするものを“優”という。
↓
「優」には「見せること」、演技性の意味が含まれる。
偽善性や隠蔽性があるという意味とつながる。
第4章 対話を圧殺する日本的風土
対話を圧殺する風土とは?
↓
日本文化論の中からヒントとなるもの
*恥の文化 (R.ベネディクト著/「菊と刀」より)
*「甘えの構造」 (土井健郎著/弘文堂)
*空気支配 …「空気」とは、絶対的支配力をもつ判断基準のことであり、
それに抵抗する者を異端とし社会的に葬るほどの力をもつ。
*状況功利主義…空気支配に身を委ねる日本人の行動様式。
「状況受容」を基本原則とする。
選択の余地がなくなった状況で、初めて行動に移るので、
自分への責任の追求を逃れることができる。
*和の精神=“状況功利主義”が内実としてある。
和を尊しとし、協調性を重んじる精神が、
自分の信念を曲げても対立を避ける行為へと導く。
日本では、対立を避けるために尽力をすることが美徳とされる。
日本人の道徳感、美感にとって、原則的に自己主張は醜いこと。
だから、自己主張→対立の状態は醜いこと、と見なされしまう。
第5章 まとめ
「思いやり」や「優しさ」は、その名のもとに真実を語ることを封じ込めてしまう。
「思いやり」は、相手の立場を考えた行動や言動を取ることであるとされているが、
実際は、他人との距離を置くことによって、自分が傷つくことを回避しているだけ。
「優しさ」も同様、相手の気持ちに踏みこんでいかぬように気を付けながら、
暖かい関係を保っていくことが“優しさ”だというが、
他者との対立を避けているだけである。
また、先に挙げた“状況功利主義”や“和の精神”からなる日本的風土が、
私たちに「対立を避ける」という至上命令を下している。
対立を避けるという事は、いかなる社会においてもある程度要求される事である。
例えば、ヨーロッパ社会では産み出された対立を統合することに
大きな努力が向けられるが、
対して日本は、対立そのものを産み出さない、
対立があっても「なかったこと」にすることへ最大の努力が向けられる社会なのだ。
「対立」を避けることは<対話>を避けることへつながる。
他者は自分とは異質な存在者であり、他者を理解すること、
他者から理解されることは、本来絶望的に困難である事をしっかり認識し、
個々人の微妙な対立を大切にすることが重要である。
第6章 このテーマに関する私個人の意見
私がこのテーマを選んだのは、“言葉”や“コミュニケーション”
に関して、とても強い興味があったからである。
私自身、小さい頃から人と話す事がとても苦手で、
今の大学のサークルでも、人と話す時にいつも受身的な自分を感じていた。
特に最近は、そういう自分が嫌でたまらなくて、
いつも“人とのコミュニケーション”について考えていた。
そんな時に、なぜ対話を避けるのか?というテーマの本に出会い、
第2章で取り挙げた、「沈黙する学生の群れ」において、
死語に支配された学生と自分自身が、あまりにもピッタリと
当てはまる・・・と感じて、敢えてこの本をレジメの題材に選んだ。
普段、私たちが発している言葉は、人を勇気付けたり感動させたり
することがある一方で、人を深く傷つけしまうことがある。
使い方によっては、とても鋭い凶器になりうると思う。
もちろん、他人からの言葉に自分が傷つくこともある。
対話を避けるのは、“他者との対立や摩擦を避けるから”という
部分には同調できるけれど、
“言葉を信じていない”という部分は受け入れる事ができなかった。
私は、言葉を信じる=言葉の持つ力を信じる、と考えたのだが、
言葉を信じていなければ、それによって他人が傷つく事を恐れないし、
また自分が傷つく事も恐れないであろう。
言葉を信じているからこそ、自分が傷つく事を恐れ、対話を避けるのだと思う。
また、「対話を妨げるのは日本的な優しさや思いやり」だというが、
対話を避ける為に生じたのが、中嶋氏が本の中で述べた、
表面的な優しさや思いやりなのかもしれないと思った。
その理由として、まずはじめに、対話を避ける行為の過程を、
「自分が傷つく事を恐れる→他人と距離をおく→対話を避ける」
というように説明付けてみる。
その中で、真ん中の“他人と距離をおく”という行為を、
“他人への「優しさ」「思いやり」”という言葉で当てはめてみると、
自分が他人からの言葉で傷つく事を恐れるあまり、
個人同士の対話を避ける過程で生じたものだと考えられないだろうか?
私自身は、「優しさ」や「思いやり」において、
その大半が偽善性や隠蔽性で占められているとは思えない。
(↑そう思いたくないだけかもしれないけれど・・・)
対話を妨げている一番の要因として挙げるとすれば、それは、
“言葉による攻撃から自分を守ろうとする心”なのではないかと思う。
他に要因を挙げてみると、空気支配や状況功利主義などの
日本文化論の中に、その要因をいくつか見出すことができるという
中島氏の意見には同調できる。
しかし、日本的風土が生み出した「思いやり」や「優しさ」が
対話を妨げる・・・という事を全面に出しすぎると、
対話を避けている自分自身に目を向ける事を忘れてしまう気がする。
対話を避ける(=対立や摩擦さける)のは、
あくまでも、傷つく事を恐れる自分の弱さが一番の原因だと思う。
それにいろんな要因(日本的風土とか)が加わって、
より他人との対話を避けるようになると思うのである。
中島義道氏は著書の最後で、「言葉は無力である」と言っている。
“われわれが死や救済、愛や憎しみ、信頼や裏切りに直面するとき、
言葉は絶望的に無力である”、と。
そして、“だからこそ、私は無力の言葉をさらに無力にしたくはない。
私は言葉のもつ一抹の「威力」を信じたい”、と。
私も思う。言葉に一抹の「威力」があると信じているからこそ、
言葉を大切にしたいと。
だからこそ、「全裸の格闘技」と例えられた“対話”と
いうものに心惹かれしまうのである。