まずは、これまでの様々な人たちの研究から・・・
【a】神の定義
捉え方が人それぞれでまた様々な説があってまとめるのも大変なのですが、1961年に岸本英夫という人が提示した神の作業仮説的な3条件というのが比較的まとを得てまとまっていると思われます。それは・・・
1)超自然的な、独立の、個体的な存在。
2)一般的な人間とははっきり異なるが、人間の心を理解する能力を持っているという意味で人格的。
3)強力な力と自由な意志とを所有する。
というものです。世界には様々な神がありおのおの概念・意味・枠組みが異なっていて一概には言えないが、少なくとも上記3条件を満たすような対象をぼくらは「神」と呼んでいるようです。
【b】神の分類(形態的な分類)
神の姿も世界各地で様々、そんな中でも類型化して神を捉えようとする試みがなされてきました。代表的なものをいくつか紹介します。
1)神の数による分類
一神教の神・・・ユダヤ・キリスト・イスラーム(ヘブライズム)などの唯一絶対神
多神教の神・・・古代ギリシア・ローマ・日本などに見られる
単一神教の神・・・多神だがその中でも特に1つの神を重視する(古代インドなど)
汎神教の神・・・全ての存在物の中に神的な内在を想定するもの(仏教など)
以上の分類は比較的常識となっている捉え方ですが・・・。一神教のはずのキリスト教や
イスラームに出てくるガブリエルなどの天使って何者なんでしょうね?
2)神の性質で分類
自然神・・・自然界のものに精霊を認め神格化したもの(日・月・山・川・大木など)
人間神・・・人間を神格化したもの(女神・善神・創造神・農神・祖先神など)
超越神・・・いわゆる唯一絶対神(前述、ヘブライズムの神)
これも常識的ですねぇ~。
このほかにもいろいろありますが、分類についてはとりあえずこんなところで・・・。
【c】神の本質を探るこころみ(歴史的アプローチ)
神とはいったい何なのか、それを問う研究は昔から盛んに行われてきましたが、その中でも以前主流だった歴史的アプローチ(起源を求める)から、その答えを見いだそうとした研究者達の説を紹介しましょう。
1)アミニズム説(タイラー)
アミニズム(霊魂信仰)から神の観念が派生発展したという説。
2)プレアミニズム説(マレット)
神を産み出す力は「力あるもの」に喚起された感情の激動にあるとする説。
3)原始一神説(シュミット)
もともと至上神(一神)を信奉していたのが、退化してきた、という説。
このような研究手法は、歴史の暗黒の中に行く手を阻まれてしまう、つまり人間が宗教を作った頃の手がかりが少なすぎて(あたりまえだよねぇ)行き詰まってしまいました。ですから、どの説も仮説の域をでないのです。
【D】神の本質を探るこころみ(歴史的アプローチ以外のもの)
歴史的アプローチに代わって神の本質を知ろうとする試みから、生まれた説をいくつか紹介します。
1)「 聖なるもの => 神 」説(オットー、レーウ、エリアーデなど)
「聖なるもの」すなわち「神秘的で非合理的な力(つまりアニマ=霊=タマなど)」が明
確に輪郭化され論理づけられ合理化されて、人格的な「神」を創り出したとする説。つま
り神はこの聖なるものの現象形態の一つであるとする。
-->じゃあ、「聖なるもの」って何だろう??
2)「 神 => 聖なるもの 」説(ペッタツォーニ、ヴィデングレンなど)
上記の説と逆の説。最初に神があってそこから「聖なるもの」が派生して来た、としてい
る。まあ、神の説明にはなっていないけど・・・
3)生物学的・遺伝学的アプローチ(ブルケルト著「人はなぜ神を創り出すのか」)
「捕食者への恐怖」が「崇高なものへの畏怖」に転じたとする説。生け贄は少ない犠牲で
多くを助けようとするものであるが、それはトカゲが尻尾を自ら切って自己の命を守る行
動の延長線上にあるのではないか、とする。
まあ、他に「神霊」「タブー」「ドグマ」「神官」「シャーマン」「日本の神々」「仏教」「ヘブライズム」などなどについて述べたいのですが、紙面の関係上ここまで。細かい議論は次の回にでも特定のテーマを設けて議論したいと思っています。
ここからは、私見、つまりボクにとっての神とは何なのかを述べていきたいと思う。
1)「神」の起源は巨大な力に対する「畏れ」 か?
神は大きな力を持っています。おそらく人間より弱い神を想定する共同体は存在しない思われます。つまり怖くて逆らうことが出来ない、従うしかない存在が神だということです。共同体のボスの上にさらに君臨するのが神なのです。ボスの横暴を阻止するために知恵者が作ったのだろうか・・・?
2)因果律または論理の終着点としての「神」
人は「なぜ」という問いを発するのが好きです。そして「なぜ」に対する答えを探し出そうとします。しかし、なぜの問いは尽きることがありません。そのなぜの問いに終止符を打つために登場させるのが「神」です。
Q:「なぜ世界は存在するの?」 A:「それは神が作ったからさ」
てな感じです。神さまの登場でそれ以上の「なぜ」の問いは禁止になります。
つまり「思考停止点」が神である、というわけです。
この説明は、近代以前の哲学的の中での「神」、もしくはそれに類する「究極」に顕著に現れています(つまり形而上学)。しかし、現在においても事態はさほど変わったとは思えません。因果律・理由律などを駆使して思考していく以上、切り札にだすのはこういった「神的なモノ」に頼らざるおえないのです。
2)「不条理な出来事の理由付け(納得)」「希望(可能性)の裏付け」としての神
根本的には2)と同じ論理です。
何か不幸に見まわれた場合、例えば台風がやって来て自宅が全壊したケースを考えましょう。幸い人的な被害が出なかったとき、人によっては「ああ自宅は壊れたけれど、神さまのお陰で家族から犠牲者はでなかった」と考えるかもしれません。少なくとも神のせいで自宅が壊れたとはあまり考えないでしょう。自宅が壊れたのには様々な理由があるかもしれませんし、家族が助かったのも同様です。ですがそういった細かい議論を終わらせるためにこの場合は神さまは登場しています。
逆に先行きの見通しが不透明な時にも神は登場します。たとえば大学受験を控えた受験生はよく「人事を尽くして天命を待つ」と言います。つまりやれることをやったから受かるか受からないかは神次第、というわけです。また何か大きな一歩を踏み出すとき、神がいるから大丈夫だ、と自分を激励する人もいるかもしれません。いずれにしろ、未確定な可能性に保険をかける意味で神が登場しています。
この2つの例は、特定できないモノの帰結点として神を登場させているという意味で、2)に似ているように感じられます。
3)神の常不在性
神さまは基本的には見えてはいけないのかもしれません。何かに対して拝む場合にも見えているのは、あくまでも「仮の姿」です。イスラームでは仮の姿さえ表象させるを禁止しています(実際には抜け道があるが)。
逆に言えば、「神」はつかみどころがなく見えなければ見えないほど、その存在にリアリティを帯びていくようです。この一見矛盾している部分がますます「神」というものの神秘性(あはは、おかしな用法ですね)を感じずにはいられません。
あまりマスコミの取材を受けない歌手などがカリスマとなりファンに信奉(?)されていくプロセスが非常によく似てますね。情報が少なければ少ないほど、人間は対象を理想化し美化してしまうのかもしれません。
4)神域における安堵感
これまでは理屈を語ってきましたが、少しメンタルな部分も触れてみましょう。MLでも書きましたが、僕自身は特定な宗教の熱心な信者ではありません。つまりフツーに初詣に行き、葬式は仏教式(うちは真言宗らしい)で、お盆にはお墓に行く(といっても両親に「いきなさい」と言われて)ぐらいの人です。うちに神棚と仏壇がありますがとりたてて手を合わせるわけでもなし、中近東にしょっちゅう行ってますが別にイスラーム教徒でもキリスト教徒でもありません。
ですが、お寺でも神社でもモスクでも教会でもいわゆる「神域」と呼ばれる場所においては、なにか安堵感にも似た敬虔な気持ちになることが多々あります。特定の宗教の熱心な信者には当てはまらない例もあるかもしれませんが、多くの日本人がこのような感覚になるのではないかと思うのです。この安堵感はいったい何なのか、この清々しさはいったい何なのか。前述した「聖なるもの」に対峙するとはまさにこのことをいうのかもしれません。