会合日時:2000年5月20日

 

レジメ担当者: アダ

 

テーマ:「存在」の哲学史と西田幾多郎の結論

 

1.「存在そのもの」(「実体」)の定義

存在は一般に「~がある」というふうに表されるが、ここではアリストテレスの存在

論をもとに「存在そのもの」(実体)の定義について考える。

1.「あるべくしてあったもの」

2.判断の主語となって、述語とならないもの

アリストテレスが規定した実体の定義はこの2つである。1は存在の必然性を表し、

時間を超え他と区別される独自の存在を意味する。2は、例えば「この花は赤い」と

いうとき、主語である「この花」は実体であるが、述語である「赤い(赤)」は実体

ではない(性質にすぎない)。1と2は突き詰めて考えれば結びついてくる。すなわ

ち「ずっと唯一であって、どこまでも自分で自分を説明し、限定していくもの」が実

体であるとする。

 

2.「存在の量」から実体を考えて、「一にして多、多にして一」に至る

存在の量という見地から、形而上学(「実体」についての学問)を考えれば、多元

論、一元論、二原論の3つに分かれる。

<多元論と一元論>

まずギリシャ哲学における多元論の例として、デモクリトスの原子論がある。原子

(アトム)とは「これ以上分割できないもの」を表し、存在の構成要素を無限に多く

のアトムであるとする。しかしアトムが空間に位置を占める以上、「分割できない」

といえるのかという疑問は残る。またアトムが運動する場として空間(アトムが存在

しない空虚)が必要であるが、空間そのものはアトムの関係の場として一なる存在と

なってしまう。

これに対し17世紀ドイツの哲学者ライプニッツは、真に分割できないものは、空間

的なものではなく、精神的なものであるとし、これを「モナド」と呼んだ。モナドは

外部からの作用を受けず、自ら能動性を持つ、「形而上学的な点」である。モナド同

士の関係は「予定調和」で各々のモナドは内在的法則に従って変化するが、それぞれ

厳密に生起しており、あたかもモナド間に相互作用があるのと同じ結果になる。しか

しこの説明では独断の域をでず、なにより精神的な「点」からどのように空間的なも

のが構成されるかという問題が残る。

このように多元論は実体を無限に微小なものとする傾向にある。しかし、多なる現象

がどのように関係するかという問題を統一する原理が必要になってしまう(自分で自

分を説明しきれない)。

一方、ギリシャ哲学における一元論としてはエレア学派のパルメニデスが代表され

る。彼は「あるものはある、あらぬものはあらぬ」という命題から、すべての存在を

含んだ普遍的な実体は、不生不滅、不変不動、単一不可分な「有(あるもの)」とし

た。

プラトンのイデア論も一元論的傾向があるが徹底されていない。これに対して新プラ

トン派のプロティノスは徹底した一元論を展開し、万物を「一なるもの」のなかに内

在させた。彼によれば、実体(存在者)は「~である」と限定されない。逆にすべて

の事物は「一なるもの」という限定性を失っては存在できない。

近世における一元論者の代表としてはスピノザがあげられる。プロティノスの「一な

るもの」が個人的な神秘体験にもとづいているのに対し、スピノザの汎神論は信仰と

当時陥っていた哲学的困難(デカルトの二元論)から生まれた。彼によれば神はすべ

ての事物の内在的原因(超越的原因ではない)で、すべての事物(思惟でさえも)は

唯一の実体である神の様々な様態にすぎないとされる。

多元論は実体を無限に極大なもの(神)とする傾向にある。一元論は究極的な実体を

求めようとする形而上学的要求(または欲求か)にかなうものではあるが、それが徹

底されればされるほど、存在の多様性を説明できなくなってしまう。

これは、多元論とまったく逆である。一方は、多からそれを統一する何か一つの法則

を、もう一方は、一から何か多を説明できる理由を見いださなければならない。そし

てここに奇妙でそれでいて安易に否定しきれない結論が導かれる。

「実体は一にして多、多にして一である」

(「実体は極大にして極小、極小にして極大である」)

この神秘主義や宗教で言うところの「悟り」に酷似してしまう結論が、存在の量を考

えたときの形而上学の1つの結論なのか。

 

<二元論>

二元論の区別として、ギリシャ哲学にみられる「形相と質料の二元論」とデカルトに

始まる「物心二元論」著があるが、1.のアリストテレスの実体の定義に従えば、

「形相と質料の二元論」は問題にならない。

つぎに「物心二元論」だが、これは存在の質のほうに関わってくるため、次章で考え

る。

 

3.「存在の質」から考えて、「静にして動、動にして静」に至る 

今度は存在の質という見地から形而上学を考えれば、唯物論、唯心論、モニスムスの

3つに分かれる。

 

<唯物論と唯心論>

唯物論とは、物質的なものを実体と考える存在論であり、これとは逆に唯心論とは、

精神的なものこそ実体と考える存在論である。

唯物論と唯心論を唱えた哲学者を列挙してみる。まず、唯物論では前述したデモクリ

トス、17世紀イギリスのホッブス、18世紀「人間機械論」を著著したラ・メト

リ、19世紀に入ってからは、マルクス的唯物論として、フォイエルバッハ、マルク

ス等が挙げられる。また唯心論では「イデア論」のプラトン、上述したライプニッ

ツ、18世紀のバークリ、フィヒテ、主意主義の立場をとったショーペンハウアー

が、その代表であろう。

次にそれぞれの存在論をその論拠から否定する。唯物論では精神は物質なくしてはあ

り得ないが、物質は精神なくしてもあり得るという。しかし、はたして精神がなく物

体があるという状態をどのようにして知ることができるだろうか。また唯心論では、

物質世界が超越的であるとして否定される。しかし、なぜ物が超越的だといえて「自

我」はそうでないといえるのか。それに物が存在しているということは知覚されてい

ることだというなら、逆に物の存在が否定されれば知覚も否定され、「自我」も否定

されてしまう。

 

<モニスムス>

モニスムスは言葉の意味からすれば一元論だが、前述した一元論とは別で、存在の質

からみた一元論であり、特に精神と物体を存在の質から考えて、2つを対立以上のも

のと考える立場である。しかしモニスムスは、実体を静的なものととるか、動的なも

のととるかで静的モニスムスと動的モニスムスに分かれる。

静的モニスムスの代表的なものはデカルトで、彼は精神と物体の2つの二次的実体を

考え、両者の根底に一時的実体として神を置いた。この考えを徹底したのがスピノザ

で、真の実体たる神は、単に精神でも物体でもなく、それらは、真の実体の2つの現

れ方(属性)にすぎないとした。また、シェリングはカント、フィヒテの哲学から出

発して静的モニスムスに至った。フィヒテは、自然は自我の現れであるとしたが、

シェリングは逆に、自然がその本質を実現すればそれが自我であり自我は自然の現れ

であるとした。結局彼においては、自我と自然は同じ一つのものであり、主観と客観

は一致する。このように静的モニスムスは、実体は唯一で、永遠不変のものと考え

る。しかし、一にして不変のものから、どのように多や変化が生まれてくるのかに問

題を残す。

静的モニスムスが唯一実体を永遠不変なものととらえたのに対して、動的モニスムス

は唯一実体を無限に発展する動的なものととらえた。代表的なものはヘーゲル哲学で

ある。ヘーゲルの論理は純粋な有から出発する。しかし彼のいう有は、物がある、性

質があるというような「~がある」「~である」と表せる有ではない。もっとも純粋

な有は、単に有としかいいようのない物である。しかし、これは矛盾である。単に有

としかいいようのない、物がある、性質があるといえないものなら、全く無内容で具

体的に規定しようがない。つまりそれは「ない(無)」と同じである。このような有

と無の一致は論理の破綻であり、有も無も否定されてしまう。しかしヘーゲルの弁証

法は、矛盾によってものが発展すると考える。つまり有と無は互いに否定し合うこと

によって、「なる(成)」に止揚されるのである。これは「なる」という言葉を考え

るとわかりやすい。夜が昼になる、とか、小さなものが大きなものになる、とか。要

するに、無いものがあるものになったり、あるものが無いものになったりすること、

矛盾を越えた変化である。「なる(成)」とは有にして無、無にして有であることの

具体的な姿なのである。このようにヘーゲル哲学は弁証法的に矛盾を通じて次々に発

展していく。ヘーゲルにとっては、自然と精神の合一である理性という絶対者が実体

であり、すべては理性の弁証法的運動なのである。

では動的モニスムスに問題はないのか。西田幾多郎はそう考えていない。「私は究極

の実在は単に動的なものとも、単に静的なものとも考えない。哲学の最後の立場は動

的モニズムと静的モニズムが結びつくところにあると考える。真の実在はどこまでも

動的に発展すると共に、またどこまでも静的に不変不動のものである。」その考え方

として西田はアリストテレスの実体の定義に立ち返り、アリストテレスのように実体

を主語の側に超越するだけでなく、述語の側にも超越する必要があると考えた。すな

わち、「述語となって主語とならぬもの」であり、西田にとってそれは絶対無に他な

らない。(「述語となって主語とならぬもの」であるから、それを他の述語で規定し

得ない)

 

4.形而上学の結論の妥当性と哲学の意味を考える

2と3から実体は「一にして多、多にして一。静にして動、動にして静」である、と

いう結論に達する。このような結論をはたして我々が認知できるのだろうか。筋道を

追って論理的にこの結論にたどり着けたとしても、我々は長い間にその過程を忘れて

しまう。同時に捉えられる量において人間のキャパシティを越えている気がしてなら

ない。しかし、もし神秘体験や宗教でいうような悟りが、まったく同じ結論を直観に

よって「同時に捉えられた」としても、我々はその過程をたどることができない。こ

の意味で神秘体験や宗教に基づく存在観には発展性がない。哲学の価値はまさに結論

ではなく、その反復可能性にあるといってよいだろう。

 

 

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