《テーマソング by BLUR》
BLUE JEANS
Air cushioned soles
I bought them in Portobello on Saturday
I'll stop and stay for a while
A common pasttime when conversations goes ashtray
I don't think I'm walking out of this
She don't mind
Whatever I say, whatever I say
I don't really want to change things
I'll stay this way forever
Blue blue jeans
I wears them everyday
There's not particular reason to change
My thoughts are getting banal
I can't help it
No one can prove that there is another day
If you don't mind
Whatever I say, whatever I say
I don't really want to change things
I'll stay this way forever
《状況説明》
今回「『お話はもうないの?』もしくはblurのロンドン」というタイトルにした理
由を述べよう。
この二ヶ月程、諸事情により宮台真司の本と、浅田彰の対談集「『歴史の終わり』
を超えて」を読む事になったのだが、読んでいるうちに自分の中で90年代という時
代と、その90年代に学生時代を送った世代の感覚を自分でまとめたいし、他の人々
の話を聞きたいと思った。
90年代に学生時代を送った、といっても、10年もの間をひとくくりにする事は
できず、最近の大学生なら「コギャル世代」と呼ばれているだろうし、それより一世
代前に感じる70年代前半生まれは「谷間の世代」と呼ばれやすいのではないだろう
か。その両年代に共通する事と言えば、80年代サブカルが浅田彰をアイドル化でき
たような、元気なポストモダニズム文化を享受していたのに対し、脱構築が進み過ぎ
てポストモダン、と言っても、もうなにを脱構築したらよいのかわからない、かといっ
て脱構築以前にも戻れず、進むべき方向は見えない、さりとて身軽に遊ぶなんてこと
も結構飽きてしまった、という時代の閉塞感と、それを裏切るかのような「グローバ
ル化」を同時に体験しているという矛盾だと思う。
閉塞/停滞感とグローバル化。
これは私がイギリスで感じていた、グローバル化とナショナリズムに関連してゆく。
私がイギリスに着いたのが92年4月だが、92年から93年にかけてのヨーロッ
パはEU加盟を巡って各国が国民投票をくり返し、各国間でも調整がメディアまで動
員して行われ、連日人々の口に登る話題だった。
過去に様々なしがらみがある国同士がひとつになる、かつ結果的にヨーロッパが世
界の中心(のひとつ)として返り咲ける、というプライド復活の希望と、それに対す
る疑念が交錯していた。
EU、爆発的に広がるインターネット、M&Aをくり返す無国籍企業といった、市場
経済と民主主義を基礎に人々の集団が既存の地域や場所を超えて広がってゆくイメー
ジと同時に、危機感を持って広がっていたのが右翼的思考の成長だった。
日本で起こっていた再軍備論や戦争論が起こっていたが、ヨーロッパでも不況の結
果、右翼思想の白人集団による、有色人種/移民への暴力、ひいては放火や殺人が連
続的に起こり、女性誌は中東の原理主義者によるレイプや女性迫害の記事を取り上げ
ていた。民族、宗教に理由付けを求める動きは、グローバル化が進む時代に逆行して
いるのだろうか?そうとは思えなかった。
89年に出たフランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」は、ベルリンの壁が崩れ
落ち、20世紀を代表する二つの大国を支えていたイデオロギーの片方の終焉が取り
ざたされていたというタイミングもあって、センセーションを引き起こした。時代の
流れ的に、歴史の終わりを宣言することは、西側の先進諸国として生き残った側の、
かつその中でも有利な勝利者として生き残った人間にとっては都合の良いまとめ方だっ
たろう。しかし反論は各方面から噴出した。
浅田の対談集は、彼の多元的というキャラクターを活かし、「歴史の終わり?」批
判を多角的かつコンパクトにまとめ得た点、評価されるべきだと思う。今回はこの中
で、かつての「東側」出身のヘーゲル主義者、スラヴォイ・ジジェクと、エルサレム
生まれアメリカ在住、キリスト教徒のパレスチナ人エドワード・サイードの二人との
対談と、ポストモダニズム批判のテリー・イーグルトンを基に、イデオロギーとは何
なのか、イデオロギーと私達の関係、そしてそれに「今後」はあるのかを考えてみた
い。
《「歴史の終わりと最後の人間」》
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」のテーマは二つある。ひとつはヘーゲ
ルがナポレオンによるイエナの戦いに、コジェーヴが第二次世界大戦の終わりに見た
のと同様、フクヤマは冷戦の終わりに「歴史の終わり」を見た。ヘーゲル、コジェー
ヴという先駆者の主張を追認する形で、政治的イデオロギーは「リベラルな民主主義」
を最終的な形として、そこから移行する次の政治形態=歴史はないのではないか、と
いう仮説だ。
もうひとつのテーマは、「気概」(thymos テューモス)である。
「『欲望』と『理性』だけでつくられていて『気概』に欠けた人間、長期的な私利
私欲の打算を通してくだらない要求を次々に満たす事にかけては目端の聞く人間」、
ニーチェのいう「最後の人間」こそが、その「リベラルな民主主義」の典型的市民な
のか?人々がそのような「最後の人間」である事を恐れ、新たにより良い物を生み出
し、より良い存在になろうとする欲望を持つ事で、再び「最初の人間」に立ち返り戦
いはじめるのではないだろうか?と、歴史の回帰性を問う。
もしもフクヤマの仮説が正しいならば、政治形態としては「リベラルな民主主義」
が安定した状態を保ち、その中で人々は「最後の人間」(もしくは三島由紀夫のミナ
ミゾウアザラシ)にならないように、現在より未来に差異を設定し、その差異を埋め
続けるという作業をくり返すだけとなる。
《ジジェクのヘーゲル主義》
それに対するジジェクの批判は、フクヤマのヘーゲル理解が足りないという痛烈な
物だ。
「ヘーゲルが繰り返し強調しているのは、ある政治システムが完成されて勝利をお
さめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間でもあるということ」。
自由民主主義内の「先進国」「後進国」のような外部/内部の対立構造を取り上げ、
自由民主主義は構造的に普遍化され得ない。復古主義や原理主義のプレモダン的な動
きは、逆にモダンな資本主義の産物である、と、ジジェクはそれらを全体の動きの対
立物=「否定判断」に組み込んでしまう。さらに資本主義と伝統の対立に対する二重
否定=資本主義の否定と伝統の解体の同時進行を「無限否定」と、ヘーゲルの弁証法
をそのまま当てはめてみせる。
《サイードの多元論》
「オリエンタリズム」で単線的なヨーロッパ(西欧)中心主義に異を唱えたサイー
ドは、フクヤマ/ヘーゲルの語る、あくまでも西洋の時間としての歴史は、空間的な
広がり/ずれを考慮していない、と批判する。
サイードの主張する空間的なずれは、ヨーロッパ/中東、北/南という大きな地理
的なずれのみではなく、アメリカ国内での地域的なずれも含む。後者ではいまだに歴
史を戦っているし、彼の出自のパレスチナのように、歴史の袋小路にはまり込んでし
まった存在もある、と視点を多元化する必要性を説く。
《イーグルトンの「イデオロギー終焉」論に対する批判》
マルクス主義文芸批評家のテリー・イーグルトンによる「イデオロギーとは何か」
(IDEOLOGY:an Introduction)が出版されたのは91年。
80年代に流布していたイデオロギー終焉論者(ダニエル・ベル、レーモン・アロ
ン)対し、イーグルトンは冒頭から、イスラム原理主義に基づく政治勢力の台頭、北
アイルランド紛争、東欧における新スターリン主義とその反体勢力の対立、アメリカ
におけるWASPのPC(Policically Correct)主義、サッチャリズムを槍玉にあげ、これ
ほどイデオロギー運動が噴出しているのにイデオロギーが終焉した、といわれてしま
う矛盾を挙げる。
「もともとイデオロギーは、ある種の深さをもった主体を必要とする。そのような
主体でないと、イデオロギーは、はたらきかけたり、命令に心から服従させたりする
事ができない。しかし先進資本主義は人間主体を平板化して、ひたすら凝視する目と
貪り食う胃袋にかえてしまう。そのためイデオロギーが呪縛するにふさわしい主体そ
のものが消滅してしまう。こうした社会秩序における衰弱し表情を失い枯渇した主体
は、イデオロギー的意味を理解する事はできないし、そもそもイデオロギーを必要と
しなくなる。」
この「最後の人間」を思わせるイデオロギー終演後の人間像を描きながら、イーグ
ルトンは、先進資本主義の典型的享受者は、別のレベルにおいて、社会的事項におい
て自己決定可能な主体になり得ると反論する。
ペーター・スローターダイクが「啓蒙された偽りの意識」と命名した「たえず自己
を諧謔的にながめ、社会全体が掲げる信念を、覚めた眼で、その偽りの合理化を見抜
く意識がある」状態に対しては、先進諸国の特権的階層のヤッピーには当てはまって
も、それがすべての人間に当てはまるわけではないと指摘する。
同じ論点に対するもうひとつの反論は、ジジェクの引用になる。「現代の社会では、
民主主義社会であれ全体主義社会であれ……シニカルな距離、笑い、アイロニーは、
いうなればゲームの一部である。支配的イデオロギーは、真摯に、あるいは字義どお
りにそれを受け止められる事を意図していないのである」
最後の論点はいたってシンプル、もしも皆が「啓蒙された偽りの意識」を持ってい
る状態ならば、なぜ人は政治談義をし、子供の学校教育について悩むのか。とイーグ
ルトンは問うのだ。
「イデオロギーとは何か」の問に対して、多くの者が「……だ」という単一的な答
えを期待しているであろうところに、イーグルトンはウィトゲンシュタインの「家族
的類似」概念を持ち出す。すべてのイデオロギーに共通する概念の存在に対しては否
定的であり、ポストモダニストに対しても、その多元化の推進は評価しつつも、結果
としての文化相対主義や、「すべてのことを普遍化する事はできない」という概念を
普遍化しているという矛盾は指摘する。
その後でイーグルトンが用意した答えは、イデオロギーは何か、という問に対する
答えではなく、イデオロギーが立ちあらわれてくる場所を指し示すという、これまた
ウィトゲンシュタイン的処置が施されている。
「イデオロギーは『言語』の問題ではなく『ディスクール』の問題である――いい
かえれば、イデオロギーとは、ある種の具体的なディスクール効果の問題であって、
意味生成そのものの問題ではない。イデオロギーが表象するのは、ある種の発言に権
力がインパクトを与えたり、その中に自らをこっそりと刷り込むような、そんな箇所
である。(中略)発言とその発言を成り立たせた物質的条件との関係にまつわる何か
であって、この時、発言を成り立たせた物質的条件は、権力闘争という観点から眺め
られるのであり、この権力闘争はあらゆる形の社会生活の再生産(あるいはまた、あ
る種の理論家にとっては、競争)に骨がらみになっているのである。」
《まとめ》
このレジュメの前半部分と後半部分は、分けてしまえば非常にわかりやすいのでは
ないかと思う。
「歴史の終わり?」に対して、個々の社会に山積する諸問題、特にモダニズムが生
み出した外部/内部対立構造や、資本主義の急成長の産物と言える環境問題、サイー
ドのような別の解釈軸を考え始めると、終わり、とはとても言えない。しかしそれに
しても付きまとう閉塞感はいったいどこからくるのか。
東浩紀が「郵便的不安たち」の中で、今の若い世代の関心の持ち方は、自分にとっ
て身近な存在(友達や家族)と、世界の終末で、その間にかつてあったはずの社会や
国家が抜け落ちている、と語っていたところに、リアルな共感を覚えた。
頭では社会や国家というものの必要性、重要性は理解していても、それらが直接自
分とかかわりがある、と、なかなか実感できなくなっている。
もしも自分が、例えば今、北朝鮮の強制収容所の中にいたら、国家、はもっとリア
ルに感じられるだろう。しかし、今、私はそういった場所にはいないのだ。
ジジェクやサイードの反論は至極もっとで、そこからみればフクヤマの論はかなり
視野の狭い、自分の周辺しか見ていない西洋中心主義者の勝手な脱力だ。しかしフク
ヤマの主張にリアルな実感が見え隠れするのは、オヤジが好きそうなビジネス書ネタ
である事は抜きにしても、「リベラルな民主主義」と「資本主義」そのものの強さが
生きているためではないだろうか。
イーグルトンがポスト構造主義者やイデオロギー終焉論者を批判する下りで、彼等
がイデオロギーという言葉を使用する際に、「硬直したイデオロギー・対・融通無碍
なシニフィアン」という二項対立状態ができあがってしまい、イデオロギーといえば
特定のイデオロギー(スターリン主義かファシズム)をしか想定していない、支配的
なイデオロギーの中にも「『テクスト性』や多義性や決定不可能性」が当然ある事を
考慮していない、という箇所がある。そこでイーグルトンが冗談まじりに次の文を書
く。「イデオロギーというとあくまでもヒトラーやスターリンを意味するものであっ
て、トランプ・タワーやデイヴィッド・フロストのことではないのである。」
イーグルトンの文人の面目躍如な下りだが、ここでイーグルトンは初期に予定して
いた事以上のことを指示したのではないかと思う。「トランプ」(アメリカの大金持
ち、成り金、派手好き)というイデオロギーは、テクスト性、多義性、決定不可能性
ばかりではなく、自己修正機能までも含むのではないだろうか。
フクヤマの論のポイントは「リベラル」な「民主主義」の「資本主義」であること
だ。「民主主義」という、「最大多数の最大幸福」を自発的に選択可能な構造であり、
かつ「リベラル」なため、選択結果による拘束は薄く、かつ問題の変容に対応する自
身の変容可能性を含む。そのような社会における「資本主義」は、結果的平等ではな
く可能性の平等と金銭による交換可能性を指針に、非常に多くのものを、それ自身の
システム内に組み込んでゆける。あたかもそれ自体が一つの生物のように。
「リベラルな民主主義の資本主義国」のひとつに住んでいるとされている私達にま
つわる閉塞感は、この変容可能な化け物に飲み込まれてしまった、という幸福な諦め
に因るのではないだろうか。