私たちは日々、意識的であれ無意識的であれ、思考を繰り返して生活していま
す。つまり僕らは常に「思考」の影響下にあります。といいますか、「思考」が
ぼくらそのものであるといえるでしょう。そして、その構造があまりにも自明で
あるために僕らは世界がそのようにできているものだと錯覚してしまうのです。
では、その思考の構造とは・・・
1)「思考」とは「分けること」である
思考するということはどのようなことなのか。まず思考の第一段階は「分ける」
ことから始まります。我々は世界を認識する時に「分ける」という作業を無意識
に行っているのです。
例えば自分の部屋を眺めてみたとき、部屋は机やら絵やら絨毯やらが広がる世界
となって僕の目に飛び込んでくるでしょう。そしてその中から机の上を眺める
と、机の上に転がっているペンを見つけました。ぼくらは即座に「机の上にペン
がある」と認識し、ペンをつまみ上げました。このようにして、意味づけられた
「ペン」は、部屋から机から「独立」を果たします。自分の目に飛び込んできた
ものから「ペン」を抽出しました。つまり目に飛び込んできた風景を「ペン」と
「その他」に分けたといえるでしょう。
2)思考とは「分けたもの」をつなげる直すことである
思考することというのは「分けること」では終わりません。次に分けたモノをつ
なげてゆく、という作業に入ります。
「目玉焼きを焼く」という行為を考えてみましょう。卵の殻を割って生卵をフ
ライパンの上に落とし、それを焼くと「目玉焼き」になる(細かいところは省略
します)。「生卵」と「目玉焼き」の間には大きな隔たりがありますが、その間
を取り持っているのが「焼く」という行為です。「生卵」と「目玉焼き」を関連
づけている因子は「焼く」なのです。
さて、では「焼く」ということはどういうことなのか?「焼く」とは「熱を加
える」と言い換えることも出来ます。フライパンの上にのせられた生卵はフライ
パンに熱が加わるとともに徐々に固まり、そして最終的には「目玉焼き」となり
ます。そう「焼く」というのは一足飛びではなく、熱が徐々に上がってゆくプロ
セスがその中に含まれているのです。プロセスの初期の段階では「たまご」は限
りなく「生卵」に近く、またプロセスの晩期では限りなく「目玉焼き」に近いと
言えます。「焼く」という因子は実はひとつの決定的な変換因子ではなく、連続
的に変化するプロセスを指していたのです。
3)「思考」による二項対立
机の上にはペンのほかに鉛筆や万年筆があったとします。その似たり寄ったりの
中から1本、「ペン」を取り出しました。取り出した筒状のそれを「ペン」と呼
びました。残された同様の形状のものをそれぞれ「鉛筆」「万年筆」と呼びまし
た。さて、どうでしょうか。筒状で先が尖っていて、その先を紙などに擦り付け
ると絵や文字が書けるこれらの「モノ」が、それぞれ「ペン」「鉛筆」「万年
筆」と命名されました。命名されたとたんに、これら似たり寄ったりの「モノ」
たちがそれぞれ独立したものに変化しました。それぞれのものの距離が大きくな
ったように見えます。本来、それぞれがご近所同士であったものが、全く別物に
なったように感じられる。これがいわゆる「言葉の一人歩き」、思考による「分
ける」を徹底して行ったときに生ずる弊害です。このような弊害が顕著に現れて
いるのは、「民族紛争」の問題です。今までお隣さん同士であった人々がある日
を境に、「やつはセルビア人だ」「やつはアルバニア人だ」という言葉によって
「分けられて」しまうのです。本当は大して変わりないのに・・・。また、例え
ば奄美大島の住人は鹿児島県人なのか沖縄県人なのか?都道府県区分ではもちろ
ん鹿児島県に属しますが、生活スタイルはむしろ沖縄県の住民に近いのではない
か。と思うのです。沖縄県人的な生活により近いという事実は、「鹿児島県人」
という言葉によって覆い隠されてしまうのです。
3)理想世界と現実世界
人間は「理想世界」を語るのが大好きです。それは簡単に割り切れる世界だから
です。現実世界から抽出した(分けた)パーツを集めて組み立てたのが「理想世
界」であるからです。つまり「思考」による産物が「理想世界」であり、思考に
よって組み立てられているからこそ、「理想世界」は思考によって消化しやすい
のでしょう。「理想世界」はしばしば「現実世界」のモデルとして、見いだされ
る場合があります。確かに厳密に計算されたモデルは現実世界を説明する上で非
常に便利です。しかし、本来モデルであるはずの「理想世界」をさも現実世界に
行きつくべき姿である、と錯覚すると事態はおかしな方向に進むのです。純粋な
理想主義者たちが歩んできた道を眺めればそれは容易に想像がつきます。歴史は
その確かな語り部です。
4)「現実世界と理想世界との融合」に対する努力
思考の産物として、言葉や数学や論理学といった様々なものが生まれました。ど
れも現実世界をうまく説明してやろうと、思考の中に現実世界を閉じこめてしま
おうとする努力の結果であると思います。しかし、話はそう簡単にはいかなかっ
た。どうやってもこれらの試みはうまくいかなかった。そこで考え出されたの
は、思考によって作られた「理想世界」と「現実世界」なんとかしてうまく繋げ
てやろうとする努力でした。
例えば数学の世界では、無限に大きいものを「無限大」と定義しています。し
かし、数列をひたすら大きい方にたどっていっても限りなく大きい具体的な数に
にはなりますが、決して無限大に結びつかない。
9999999999999999999999999999999999999999999999999
上記の数だって、1よりは無限大に近いけれども無限大ではない。つまり数列と
無限大との間には大きなごまかしがあるのです。一方、無限小や0について
も・・・。無限小については無限大と同じような構造になっています。また0に
ついてはもっと大きな問題を含んでいます。「有」と「無」の問題です。3,
2,1と列んでいる数列の1の次ははたして0なのか?3,2,1までの1ずつ
減ってゆくという法則以上に1から0への飛躍というのは大きいものなのです。
古代ローマや中世ヨーロッパ、中世イスラーム世界においても、これらの努力
がなされました。いわゆる「神秘主義」です。例えば中世ヨーロッパでは、キリ
スト教的世界観のなかで神と人間の関係性を説く際に、「神の世界」と「人間の
世界」の断絶性が問題とされたことがありました。アリストテレス的な考え方を
導入した主流派スコラ哲学者たちは「あの世」と「この世」を明確に分けるよう
な世界観をもっていました。どこかに神の世界と人間の世界を分ける境界線があ
る、と考えていました。この分けるという考え方は「思考」への100%の信頼
性を意味します。このような基本思想のもと、形而上学がはびこりました。しか
しこれら主流派に異を唱えたのは、神秘主義者たちです。彼らは「分ける」とい
う発想を、と申しますか「分ける」が本質である「思考」を捨てたのです。そし
て、世界は1つ、多は1であり1は多である、といった論理的には許されない方
向を目指しました。「神の世界」は「人間の世界」に偏在し、あらゆる事物に神
が宿る、と。
4)まとめ
まとめと題打ちましたが、まとめられるほど論理が一貫していませんので、で
は僕は結局何を言いたいかを一つ。それは、
「思考」には限界があることを認識せよ
ということです。
頭の中で考えられた思考は所詮人間の枠をでることが出来ない。つまり見えて
いるモノがすべてである、と思いこむのは早急である。因果関係が自然を支配し
ているのではなく、わたしたちが事物・現象を見たときにそのように見えてしま
っているのである。しかし気をつけねばならない点は、だからといって「因果関
係が自然界に決してない」、とは言っていない点です。それはあるかもしれない
し、ないかもしれない。ぼくらにはそう見える、それだけしか言えない、という
ことです。
ここまできて、では、ぼくは思考批判論者かいいますと、そうではありません。
思考に対して大きな信頼があるのも事実です。しかし、思考は「道具」であり
「信仰の対象」になってはいけない、ということです。運用しつつ時々立ち止ま
って内省する、この態度が重要ではないかと思うのです。
「思考するということは分けるということである」という視点から議論
を展開しました。しかし、「思考」という言葉の定義がおのおの違ってい
たような気がします。ぼくのイメージした「思考」とは、個人的な思考の
みならず、すでに先人達により意味づけられており日々僕らが無意識に行
っている「選別作業(分けるという作業)」も含んでいます。
机の上のペンを見たときに、ぼくらは思考せずに無意識にそれをペンと
認識しているのではないか、との意見がありました。確かに僕らは今、ペ
ンを意識的に考え、思考して選び出している訳ではありません。ですから
この反論はもっともだと思います。
しかし僕の意図したモノはこういった「思考」ではなく、もう少し間口
を広く捉えた、いうなれば人間活動全般にわたるモノを指しています。そ
ういう意味では「思考」という言葉は適切ではなかったかもしれません。
ぼくの言いたいことの主旨は、人間活動には「分ける」そしてそれを「組
立直す」という「クセ」がある、ということです。
さて、数列から無限大へのジャンプのことについて。たしかに僕のレジメ
の中で書いた「999999・・・は1より無限大に近い」、という言葉
の意図ですが、ご指摘通り無限大と比較すれば上記の2つは変わりない、
と言えるでしょう。それは、無限大の概念と数列の概念は全く異なるもの
であるからです。しかし、無限大の概念を導入した人は数列の最終地点を
目指したという動機的な理由からは、1よりは99999・・・のほうが
無限大により近いといえるのではないでしょうか?無限大に無限大を加え
ても無限大になってしまう、という事実があったとしても・・・。
「言葉の一人歩き」について。一部、この「分ける」という方法が差別を
生み、民族紛争に発展するというくだりがありましたが、この論理が必ず
しも必然ではなく、他に様々な経緯やその他いろいろな理由が複雑に絡み
合っていることも付け加えておきます。しかし、「言葉の一人歩き」も一
役かっていることも事実である、といえると思います。