ポストモダン的な思考とは、絶対的なもの(真理)はない、だから物事には正しい基準などというものはない、という発想を中心とした相対主義的思考である。マルクス主義という「大きな物語」が崩れたことによって、この思考は70年代後半から80年代にかけて急速に広まり、哲学、文学、芸術など、広く文化に関わる人々の間において一種の知的流行となった。そして80年代後半に入り、徐々に一般の人たちの間にも相対主義的思考が蔓延し、それを引き受けて生きる若い世代も出現してきたのだ。生を意味づける「大きな物語」がなければ、未来の目標や可能性、生の意味を感じることは難しい。したがって、趣味(小さな物語)の共同体に属したり(いわゆる「おたく」)、未来の可能性よりも現在を「まったり」生きるという、新しい適応を示し始めている。
しかし、誰もが相対主義的な世界に適応できるわけではないし、一生適応し続けられるとも限らない。最初は「他人が何を考えていようと関係ないし、自分の考えを分かってもらおうとも思わない」と考えている人でさえ、時が経つにつれて不安を生じることが少なくないのだ。共通する基準がないため、誰が何を感じ、考えているのか、自分の考えや感じを他人がどう思っているのか、いや、そもそも伝わっているのかどうかさえ分からない。そのため、何をやれば人に愛され、認められるのかもはっきりせず、周囲に対して場当たり的な同調を続けるしかなくなってしまう。社会の不透明さゆえに、お互いの主張が分からないという不安が生じてくるのだ。これが東浩紀の主張する郵便的不安である。
この不安は、よほど他者との関わりを避けたがる人間でない限り必然的なものだ。そして、この不安に耐えきれなくなれば、一気に相対主義を飛び越え、絶対的なものへと向かうのである。その受け皿になるのが宗教、自己啓発セミナーなどである。そこでは絶対的なものとして、「神」、「本当の自分」等々が用意されている。一方、相対主義に限界を感じていても、「神」や諸々の絶対性を安易に信じることができない人たちは、不安をある種の論理で乗り越えようとするしかない。彼らは「絶対的なものはない、それは思考不可能なのだ」と頭では分かっている。しかし、「思考不可能な何か」「語りえないもの」を再び絶対的なものとして語り続けている側面があるのだ。これを否定神学的思考という。
否定神学とは、「絶対的なものはない」という形而上学批判の論理を維持したまま、その論理が反転してある種の絶対性を求めてしまう逆説的な思考である。この「絶対性を求めてしまう」ということが問題なのだ。実際、90年代に入り、かつてポストモダニストだった知識人の中に否定神学的な発言が目立ち始めている。これはレヴィナスやジジェクといった否定神学的思考を含んだ思想家の影響も大きいのだろう。また、一般の人たちの間にも相対主義を絶対視する人たちがかなり増えてきている。絶対的なものを求めることへの批判とシニカルな態度。これは、絶対性を否定し続けることで自らの相対主義的思考を正当化(絶対化)したものであり、広い意味での否定神学的思考と言えるのだ。
このように、絶対的なものを求めて否定神学的になってしまうことは、否定的にでも絶対性を確保できなければ、人は郵便的な不安にさらされ、他人との交流に実感を持てなくなってしまうことを示している。社会に共通の規範、価値基準が存在しなければ、共通の言語を使っていてもコンスタティブな意味(辞書的な意味)以上に、その言語が使われる文脈、背景を読み取ることは難しくなる。何をすれば周囲に認められ、愛されるのかもわかりにくくなる。つまり、パフォーマティブな意味(メタレヴェルの意味)が読みとれないため、ダブルバインド的な不安が生じやすくなるのだ。しかし、どれほど専門的な哲学用語や難解な論理で構成されていようと、否定神学は結局「絶対的なもの」を措定する形而上学や宗教とあまり変わらないし、かえって不透明な規範や価値を生み出してしまい、混乱の原因になりやすい。
デリダ-東浩紀の否定神学批判は、この問題を浮き彫りにしたものとして高く評価できると思う。だとすれば、問題はこの郵便的不安を解消するにはどうすればいいのか、ということになる。東は否定神学に陥らないためには郵便的脱構築が必要だという。つまり、彼はポストモダンを批判したいのではなく、ポストモダンの否定神学化を批判し、ポストモダン的思考をむしろ徹底することで、共通の規範や絶対的なものを使わないコミュニケーションを考えているようだ。郵便的脱構築とは、フロイトの転移-逆転移という考えを利用した考え方であり、簡単に言えば「無意識的な直接的コミュニケーション」の可能性を開こうとするものだと言えるだろう。
精神分析やカウンセリングの治療場面において、患者が過去の重要な人物(ふつうは親)への感情を治療者に向け、その重要人物との関係を治療者との関係に投影し、無意識のうちに再現することを転移という。転移は無意識的な感情や欲望を意識させる絶好の治療チャンスでもある。分析家やカウンセラーは、患者の無意識的な感情表出を相手の表情や身振り、微妙な雰囲気の変化などから読みとり、必要に応じてその解釈を患者に伝えている。あらゆる心理的な治療の基本は、患者が自分自身の無意識的な欲望、感情を自覚していくことにあるのだ。言うまでもなく、治療者はいつでも相手の無意識を意識できるとは限らない。しかし、治療者の無意識が、相手の無意識的な感情表出を無意識のうちに受け取り、治療者自身も気づかないまま、感情的な動揺、反応を引き起こすことがある。これを逆転移というのである。
つまり、転移-逆転移の関係とは、意識上の規範や言語を媒介しない、無意識と無意識の直接的なコミュニケーションと考えることができるのだ。別にこれは怪しい考え方ではなく、もともと人間が受け取る情報の多くは無意識的に処理されている。私たちが知らず知らずのうちに誰かを好きになったり嫌いになってしまうのはこのためである。意識された言語的コミュニケーションには、共通の言語、規範をお互いに参照することが不可欠だが、規範の絶対性が崩れれば、コミュニケーションの可能性は「無意識の直接的交流」に見出すしかない。おそらく郵便的脱構築とは、意識という閉じた世界の外に、無意識を通じた交流が成り立つことを示唆しようとするものなのだが、この考え方は明確に整理されているとは思えない。それは多分、ポストモダン的思考そのものの限界なのだ。
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郵便的脱構築への実存論的批判(会合感想)
確かにデリダ-東の否定神学批判は全く正当なものであり、郵便的脱構築という考え方も発想としては面白いと思う。しかし、「絶対的なものはない」という論理が、それでも否定的に絶対的なものを求めてしまうことには、もっと人間の実存に根ざした根拠があるはずだ。人間の欲望の根源に目を向けないまま、絶対化したイデオロギーを作り上げる危険性だけを主張していても仕方がないだろう。
それに、転移-逆転移という無意識的な感情の交流が親密性をもたらす可能性には限界がある。陰性の転移が起きれば、むしろ無意識のうちに憎悪を膨らませ、はっきりした理由がわからないまま衝動的に相手を傷つけてしまい、「理由無き殺人」が巷に氾濫することになるだろう。結局、意識的に感情を抑制できるもの(内的規範)がなければ、陰性転移を制御し、陽性転移を有効な方向に向けてゆくことはできないのである。
そもそも人間の欲望が「現在」の快感を超えて「未来」の可能性を求めるのは、幼少時、その場その場の欲望を抑制することで親に愛され、周りの人たちに認められるという見返り(可能性のエロス)があったからだ。このことが、人に認められるための行為の基準を内面化し、内的規範を形成する大きな誘因となる。また、内的規範は必ずしも意識されているわけではなく、多くは身体化されて無意識的に機能するため、フロイトに倣って超自我と呼ぶこともできるだろう。
この欲望は身近な人たちだけでなく、不特定多数の人々、つまり社会全体からの承認を求めることで、自らの存在に対する絶対的肯定を得ようとすることにもなる。そして、不特定多数の他者は抽象的な存在であるため、欲望の対象は承認ではなく、「絶対的なもの」そのものと取り違えられることになる。つまり、「絶対的なもの」(超越)へのエロスとは、他者との関係性のエロスを未来の可能性の中に見出そうとするものなのである。
現在のように「絶対的なもの」が否定された状況の中では、周りの人たちに同調することでしか、その人たちに認められる術はない。口では社会的な規範や価値を否定しながらも、仲間内に存在する暗黙の規範、価値観には固執せざるを得ないだろう。安易には他者に同調しない相対主義者もまた、相対主義を絶対化することで否定神学的共同体の規範に準じた言動になっており、事実そのことが当人の安心感に繋がっていることが多い。これらは全てイデオロギー信仰と同じような危うさがある。
絶対的な規範も価値もない、と口では言いながらも、誰もが暗黙のうちに方向づけられた行為を選ぶ。そこには、非常に見えにくい規範、価値観が支配しており、そこから逸脱すれば仲間から相手にされなくなるという不安がある。関係性のエロスが遮断されることへの不安、それが郵便的不安なのだ。
暗黙のうちに信じられている仲間内の規範は、「そんな規範などない」という表向きの身振りが蔓延しているために、全く見通しの悪いものとなっている。しかも、そうした身振りそのものが暗黙の了解となっているため、きわめて否定神学的である。
一方、事実そんな規範はないに等しい。もともと暗黙の了解を読み取るためには、それを照合するための共通の規範を内面化している必要があるのだが、それは現在、ボロボロに弱体化している。社会に共通する規範を内面化していなければ、仲間内の規範は場当たり的で流動的にしか形成されないし、そこに安定した規範を読み取ろうとすること自体、無謀な試みと言えるのだ。
結局、仲間の承認を得るためには、他者の身振り、言動に同調し続けるしかない。しかし、いずれにしろ過重なストレスがかかることは避けられず、心を病んでしまうことにもなるだろう。共通に了解できる社会規範と内的規範、それがなければ転移-逆転移による無意識的交流は、抑制のきかない危険な関係へと繋がることを、私たちは決して忘れてはならないのである。