1)「時間」を実感すること
時間をわたしたちが感じるのは、常に「現在」と「過去」との対比からです。このレジメを書き始めたのは10時でしたが、今は10時30分、ああ30分たったのだ、と。自己の記憶から「過去」を引っぱり出してきて「現在」と対比する、その時はじめて時間の幅を認識する。でも、この幅というのも非常にあやしい。今、時計を見て、そしてレジメを書き始めた時間を連想する。ああそれは10時だった、ここまでは「現在」という点と「かつて10時であった」という点との対比、それから、その間に書かれたであろう今や目の前にある数行の文章を見て、仕事量を見て、レジメを書き出してから時計を見た「今」までのいきさつを思い返して時間の幅を感じるのです。ぼくらは時間を直接とらえることができないのです。仕事量や歩いた距離、また思い出される記憶の量から時間に幅があることをイメージします。これはわたしたちが時間を空間化してその距離のイメージで時間を語っているのだ、ということです。
2)「現在」、「過去」、そして「未来」
時間には「現在」「過去」「未来」があると言われます。「過去」にはよく「振り返る」とか「遡る」という動詞が使われます。これは「現在」を起点として思い出していく作業を端的にあらわしています。つまり「ありありとした現在」がここで、そこから「かつてあったであろう現在」へと自己の記憶の中を遡行してゆくのです。母校を訪問しても、母校の姿は現在の母校の姿であって決して目の前に過去の母校は現れない、ま、現れてしまったら「過去」は「現在」に転化してしまうのでしょうけど・・・。同じように未来も未来の姿のままぼくらは実感することはできない。未来を実感するのは、未来が現在に転じた瞬間なのです。
さて前に「時間の空間化」について述べましたが、過去と現在の対比からできた空間化は現在からのベクトルを転じれば未来へと広げることが可能です。つまり、ぼくらは現在から過去への時間の空間化を応用して、未来へ発展させているのです。
「かつてヤカンに入れた水をガスコンロにかけたら、水が沸騰した。今、ガスコンロの上に水を張ったヤカンをおいて火をつけた。きっと水は沸騰するに違いない。」
この予測は往々にして当たります。今までにほとんど裏切られたことがないこの経験から、わたしたちはこれから先のことを予想して、これを「未来」と呼んでいるのです。
3)「現在を失う」ということ
今までは私たちが「時間」をどのようにとらえているのか、についての観測をしてみました。つまり「現在」から「過去」を通り、さらに「未来」をイメージする、という筋道についてです。ここからは時間の本質について考えたいと思います。
「現在」の特徴はとどまるところを知らないことです。つまり「現在(今)は失われる」という本質を持っています。「失われてしまった現在」を我々は「過去」と呼んでいます。とらえようとすると指のあいだからスルスルっと抜けていってしまうのが、「現在」なのです。「今、何時?」という問いを発した瞬間の「今」はもう存在しないのです。しかし私たちは「失われた現在」を保存する術をもっています。それが「記憶」なのであろうと思います。過去は私たちの記憶の中でのみ存在しているのです。といいますか、それ以上のことは言えない、ということです。「ありありとした現在」と「失うことを本質とする現在」は少なくとも私たちは経験することができる、ということだけが確信をもって言えることなのです。
ここまでの話の筋道から、存在するのは現在(今)のみである(唯今論とでもいいましょうか)というように聞こえるかもしれませんが、そういう訳ではありません。過去・未来が存在するのかどうかはわかりません。ただ私たちが自信を持って言えることは「私たちは今を生きている」ということであり、今は「失われつつ、かつ新しく供給されるもの」である、と私たちが実感しているということだけなのです。
4)客観時間について
いままでの話の中では、主観が時間を作り上げていくように見受けられたと思います。しかし一方で、わたしたちが日常生活を営む中で時間はある絶対的な基本軸のひとつとして作用しているように感じられる、のも確かなのです。
ぼくの日常生活の場合、6時20分にラジカセの大音響とともに目が覚め、7時きっかりのバスに乗り、9時の始業のチャイムで仕事がはじまります。この時間に狂いが生じたことは今までにありません。時計の針が7時になればバスはちゃんと動き出しますし、9時になればみんな仕事を始めます。「7時だと思ってバス・ステーションに行ったら、8時だった」なんてことは、時計が狂っていたか、ぼくが狂っていない限りはないのです。
このような時間を仮に「客観時間」と呼びます。では客観時間はどのように知るのか、といえば1)の項で書いたように仕事量からである、と思います。仕事量とは同じ速さで落ちていく砂時計の砂でもいいし、同じ速さで動く車の進む距離でもよい。ここで重要な点は「同じ速さ」というところで、この仕事量の比例関係からわたしたちは「時間は一定のスピードですすむもの」と考えたのです。ここに「時間の空間化」の原点があります。この「空間化された時間」は私たちの世界の「約束事」として機能しているのです。
5)客観時間と主観時間
私たちは10分間が1時間に感じられたり、逆に1時間が10分間に感じられたりする経験をすることがあります。この自己の感覚からくる時間を主観時間としましょう。1時間たったと思い時計に目を向けると、10分しかたっていない。「ああ、こんなに長く感じたのにまだ10分しかたっていないのか」彼は時計を見ることにより自己の感覚を否定し、主観時間から客観時間に「時間」を修正します。
これは客観時間がすべての人々が疑いなく信じている時計の刻む時間であり、絶対的なものである、と彼が信じているためにこのような矯正を行うのです。しかし、1時間に感じられた「厚みのある10分」という時間を経験したことは、彼にとってまぎれもない事実であるともいえます。こんな時に客観時間と主観時間の不思議な隔たりをわたしたちは感じるわけです。
おまけ
時間=エントロピー vs 人間=生命
時間はエントロピーそのものなのではないか、と思うことがあります。つまり先ほどの時間(現在)とは「失われつつ、かつ新しく供給されるもの」であるとすれば、変化の根源ともとれるわけです。この世界の変化の根源とは、形あるものが壊れてゆく状態、でたらめさが増加する状態、つまりエントロピーが増大する状態である、といえるのです。
一方、人間(生命)はでたらめな状態から秩序を作っていく存在です。人間(生命)はエントロピーを減少させようとするのです。つまり時間(現在)に抗する存在でもある、ということです。生命は時間に対抗する力である、といえるのです。
さて、人間を含む生命すべてが時間に抗する力であるとしましたが、人間の作り出すあらゆるものにもその時間に対する対抗心を見いだすことができます。
まず科学。科学は普遍的な定常状態というものを常に作り出そうとしてきました。しかし、それが不可能だと知るやいなや一転、時間と妥協する形で時間を取り込んでしまいました。それが物理量「t」です。そういった意味では、科学は時間との戦いに負けたのかもしれません。
共産主義。共産主義思想の中には時間の概念が含まれていません。理想社会としての共産主義にはそれ以上の変化、発展がありえないのです。「変化、発展の否定」すなわち「時間の否定」です。だから実体にそぐわなかった。中国あたりじゃ改革解放と称して、市場経済の導入などを行いましたが、これはまさに「科学が時間をとりこんだ」現象と同じものを意味しています。
キリスト教の千年王国、もしくは天国(イスラームも含む)。これも同じこと、変化(時間)のない世界を究極的に求める人間の夢をあらわしてます。
芸術、写真。これらも時間を止めたい、という人間の欲求のあらわれです。
とまあ、数えだしたらキリがありませんが、おそらく人間の意志のはいる活動すべてにこのような傾向があるのではないか、と思うのです。すなわち「思考そのもの」に時間に対抗しようとする力がある、ということです。ではなぜ人は時間に対抗しようとするのか?それはおそらく「死への恐怖」からではないでしょうか。