会合日時:1999年9月15日

 

レジメ担当者:山竹

 

「なぜ人を殺してはいけないのか?--レヴィナスの可能性」

 

神戸の忌まわしい事件の少し後のことだが、日本の知識人達は「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問に対して、明確な答えを提示する必要に迫られていた。筑紫哲也が司会をしている某番組では、複数の子どもたちと知識人と呼ばれている人たちが対峙して、この収拾のつかない討論をしていたが、番組をたまたま見ていた私は、正直言って何かの冗談ではないかと思ったものだ。しかし、こうした疑問に答えようとする学者や思想家はその後も続々と現れ、殺人禁止の根拠を理論的に説明しようとしたのである。

 

言うまでもなく、これらの理論に説得力などあるわけがない。これは理論の些末さ、評論家や知識人のお粗末さのせいばかりとは言えない。そもそも「人を殺してはいけない」という倫理が成り立つためには、「...だから、人を殺してはいけない」という理屈を頭で理解する前に、「殺せない」と感じていなければならないからだ。仮に、殺しても構わないと感じている人に、その理由を論理的に説明してみても、理屈は分かっても感覚的には納得しないだろう。感受性にこそ「人を殺してはいけない」倫理の根拠がある、レヴィナスならそう述べるはずである。

 

レヴィナスは現在、最も影響力のある哲学者の一人だ。フッサールとハイデガーの絶大な影響を受けた彼は、サルトルやメルロ=ポンティに現象学を紹介した人物でもある。しかし、ユダヤ人であった彼は収容所の体験を経て、独自の他者の思想を築き上げることになる。90年代以、レヴィナスに強い関心を寄せられているのは、湾岸戦争をきっかけにポストモダニズムが急速に影響力を失い、現実的な思想が求められ始めたためでもあるだろう。しかし、レヴィナスの哲学は魅力的ではあっても大きな欠陥を抱えている。彼は現象学的に他者を考えるという優れた仕事を残しているが、超越論的主観の外部に他者を想定している点で、現象学の最も大事な点を見落としているのである。

 

レヴィナスによれば、現象学は「私」の理解できない「他なるもの」を回収し続ける「同」の論理であり、超越論的主観の内部において、

世界を「私」の論理で意味づけ、構成し続けるエゴイズムである。これは現象学批判の典型的な考え方であり、同時に近代哲学の完成者、ヘーゲルへの批判でもある。世界が全て「私」の意味づけによって成り立つのだとすれば、そこには「私」のエゴイスティックな欲望を抑えるものは何もない。他者さえも「私」の勝手な意味づけに服する「物」に過ぎなくなってしまうのだ。この論理が浸透すれば、「他者を殺してはいけない」という考えは、その根拠を失ってしまうのではないか。レヴィナスの最大の懸念はここにあったはずである。

 

そこでレヴィナスは、超越論的主観から出発しながらも、他者を「私」の意味づけ、解釈から逃れてしまうもの、「同」の論理に収まらない「他なるもの」として理論づけようとする。つまり、他者の顔が「私」のエゴイズムを禁ずる「殺してはならない」という意味を現わしている、というわけだ。この考えは「現前の形而上学」としてデリダに痛烈な批判を浴びるのだが、レヴィナスの基本的な姿勢は変わっていない。そして、彼の現象学批判、外部の他者という考え方は、柄谷行人など、日本の多くの思想家にも影響を与えているため、「なぜ人を殺してはいけないのか」を説明しようとした知識人の中には、レヴィナスの理論を根拠にしようとした人も少なくなかったのである。

 

しかし、上述したような現象学批判は単純な誤解に基づくものに過ぎない。レヴィナスやデリダ自身が現象学を誤解しているため、それを鵜呑みにしている日本の思想家達も、現象学への批判を当然と思い込んでいるのだ。しかし、確かにレヴィナス自身には学ぶべきところが多い。特に感受性に倫理の根拠を求めている点については個人的にも賛同できる。そのことをレヴィナスから少し離れ、私なりの考えを述べてみよう。

 

<殺せない>という気分が倫理の出発点であるなら、まず頭で「殺してはいけない」と考える前に、<殺せない>と感じていなければならない。<他人なんて殺しても構わない>と感じている人に、なぜ人を殺してはならないのかを理屈で説明してみせても意味がないのである。しかし、誰もが他人の顔を見て<殺せない>と感じるわけではない。<殺せない>と感じることができるためには、殺人を禁止するルール、命を尊重する価値観が身体に刷り込まれ、身体化されている必要があるはずなのだ。<殺せない>という感じは、頭で考える前に、いわば無意識のうちに感じられなければ、精神的な安定感は得られないのである。

 

しかし、無意識のうちに<殺せない>と感じられればそれでいいかというと、そうも言えない。例えば、殺人を禁止するルールが教育や訓練によって、強制的に身体に刷り込まれただけなら、それ<殺せない>という強迫的でネガティブな責任感となるに過ぎないだろう。それは責任感というより罪悪感である。自分の殺人衝動を<殺せない>という無意識的なブレーキが制御している状態、それはやはり何処かおかしい社会だ。仕方なく<殺せない>のではなく、自分の意志で「殺したくはない」と思えなければ、決して精神的な安定感は得られないだろう。ごく親しい他者とのエロス的関係が基礎になり、他者を大事に思う価値観、ルールが自然に身体化されてこそ、それが見知らぬ第三者への責任感に繋がるはずである。欲望を単に抑制する責任を問うのではなく、自由と主体性への欲望に沿った倫理こそ必要なのではないだろうか。(山竹)

 

 

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