会合日時:1999年3月6日・1999年5月  日 の2回にわたって

 

レジメ担当者:山竹

 

「自由と主体を求めて」(暁烏敏論文・概要)

 

[本論文執筆の着想]

 

「もっと自分の自由に生きられたら..」と思うことがある。勿論、すでに表面的にはそこそこ自由ではあるし、「自由に生きたいんだ」と主張すれば、多くの人が「好きにすればいい」と言うだろう。しかし、それは本当に簡単なことなのだろうか? 例えば状況的には自由が許されていたり、自分の意志で行動しようとする時でも、何となく「してはいけない」ような気がすることがある。頭では分かっていても、スッキリしない気持ちになったり、身体がついていかなかったりするのである。この場合に考えられるのは、身体化された社会のルールや価値観が、私を無意識のうちに縛っている、という可能性だ。つまり、表面的には自由な社会と言われながらも、実際には暗黙のルールや「常識」なるものが山ほど存在し、それを幼少の頃から身につけてしまったというわけだ。

 

しかし、自分よりもっと若い世代を見ていると、逆に特定のルールや価値観は身につけていないようにも思えてくる。それが自由な環境で育てられたからなのか、正直言って実状は分からない。いずれにしても、身についた(内面化された)ルールに縛られる必要がないわけだから、少なくともぼくよりは自由な実感があるはずなのだが、実際にはそうでもなさそうなのだ。むしろ行為や判断の基準が無いために、「どうしていいのか分からない」人たちのほうが多いように思えるのである。判断の基準を持たない彼らに対し、社会は容赦なく自己決定の自由を押しつけている。ぼくにはそう思えて仕方がないのである。

 

社会のルール、自分の内的なルールが崩れたとき、人は行為の基準を完全に見失ってしまう。そのとき、多くの人は他人の行動パターンから「みんなが従っているルール」にコミットしていくことになるだろう。身近な他人がやっているように「取り敢えずやっておく」ことが無難な選択となってゆく。受験のように「どこかおかしい」と思える価値観さえ、おかしいと思いながらも巻き込まれてしまうのだ。自分の内側から確かだと思えるような価値も規範もなければ、他者が認めているルールや価値だけが唯一の頼りとなる。そこにうまく乗れる人はともかく、他人の顔色を伺ったり、必要以上に気を遣ったりすることに耐えきれない人も出てくるため、結果的に不登校などが増加することにもなる。

 

さらに言えば、人間が内的な規範を失えば、衝動的な感情や欲望のコントロールができなくなる。むかつくことが生じても、「暴力はいけない」という価値観・ルールが身についていなければ、キレてしまう自分を抑えることはできないだろう。少年犯罪が多発している背景には、こうした深刻な問題が潜んでいるのではないのだろうか? それだけではない。感情のコントロールができなければ、絶えず自分を突き上げる衝動や抑鬱感に振り回され、生きること自体に疲弊してしまうことにもなるはずだ。感情や欲望のバランスを取るための内的な規範、それはなくてはならないものである。それは、人が他者の承認を求める限り、他の人たちと共に認め合えるものでなければ効果がない。では、そのような共通の社会的規範や価値観は、一体どのように考えていけばよいのだろうか?

 

【現代人の心の病】

 

誰もが自分自身の中に分裂感を抱えて生きている。それは、意識的に考えている自分(考える私)と、無意識のうちに感じている自分(感じる私)の分裂である。通常は考える私が感じる私を統合し、自己の同一性を維持しようとしている。しかし、この分裂が大きく、統合がうまくいかなければ、感じる私は抑圧されることになり、「言っていること」と「やっていること」が矛盾した人間を生み出すのである。ここで例に挙げたダブルバインド状況を作り出す母親はその典型である。ダブルバインド状況の繰り返しの中で育てられた子どもは、その後のコミュニケーションにおいて、メタレベルのメッセージを理解することができなくなり、規範を身体化することができなくなる。そうなれば、相手の言葉の意味は理解できても、何故そんなことを言っているのかは理解できなくなるのである。

 

本論の冒頭でダブルバインドの例を述べたのは、現代社会の心理的な諸問題が「内的規範の崩壊」と密接な繋がりを有していると思うからだ。内的規範がなければ感情を抑制することができなくなり、衝動的な暴力をふるったり、感情障害や境界性人格障害を引き起こすことにもなる。もしそうなら、現代社会に特有な心の病とは、「コントロール不可能な感情」ということに集約されるのであり、それは内的規範の崩壊が原因と考えられるはずだ。この仮説を検証するために、まず社会規範と内的規範の関係を分析し、その構造を明らかにしなければならない。以下、内的規範の歴史的変遷と個体発生的な構造を、無意識という概念を軸に構造主義的分析を試みたい。その後、本論の後半において、規範の建て直しこそが衝動的な欲望を抑制し、自由の実感に繋がっていることを示そうと思う。

 

【従属する主体の近代史】

 

「感じる私」は強力な内的規範の下では抑圧され、意識に現れにくくなる。近代以前なら、外的な社会規範に表面的には従っても、内面では「バカバカしい」と感じる私を、考える私が意識していることもできた。しかし、意識をも支配する内的規範が確立されると、感じる私の逃げ場所は無意識しかなくなるのだ。こうして、無意識に抑圧された感情(欲望)は身体的な症状に転換し、強迫神経症、ヒステリーを生み出すことになる。これが近代社会に確立された内的規範の、ネガティヴな一面である。こうした状況に至った時代背景には、学校、職場、家などが、その社会にとって都合のいい考え方を植え付ける温床となっていたことを忘れるわけにはいかない。そのため、私たちの意識的な信念や考え方は勿論、身体化した習癖やふるまいもまた、同じ社会構造を再生産することになったのである。

 

しかし、現在では、客観的な社会規範の正当性は失われつつあり、内面化された規範も大きく揺らいでいる。そのため、感情をコントロールできない精神疾患が増えつつあるのが現状だ。何故なら、内的規範が衝動的な欲望を十分に抑制できなければ、身体化されない欲望は、我慢できない感情、衝動的な行動として現れるからである。内的規範がなければ衝動的な感情をコントロールすることはできなくなり、自由の実感は得られなくなる。勿論、納得のできる社会規範がなければ、内面化された規範(内的規範)は、理不尽なルールを強制する権力と化す。つまり、意識と身体の極度の分裂を引き起こさない、意識的に納得できるような内的規範が求められているのである。

 

【内的規範の形成】

 

内的規範を精神分析学的に考えるなら、「~したい」という欲望と「~すべきだ」と命令する内的規範の二つが無意識のうちにせめぎ合い、意識的に考える私には予測できない行動や感情を生み出すことになる。法的には問題ないと分かっている時でさえ、ためらいや罪悪感が生じるのはそのためだ。逆に「やってはいけない」と思っていても、つい行動に走ったり、予想外の感情が湧いてきたりすることもある。つまり、内的規範には意識的な面と無意識的な面があり、私たちが自己規範と考えているものは意識的な面に過ぎないのだ。これは、考える私が自分なりに立て直しながら従っている規範である。一方、無意識的な内的規範(超自我)に準じて行動するのは、身体で感じる私なのである。

 

エディプス・コンプレックスの理論によれば、子どもは母との関係を引き裂く父の登場によって、三者以上の関係(ルールが有効となる関係)、つまり社会へと参加することになる。この時点で形成される内的規範は、父をモデルとして内面化された社会規範でもあり、まだ反省能力がないので無批判に身体に刷り込まれ、ほとんど無意識化される。意識的な自己規範を自ら作り上げるのはもっと後になってからであり、この無意識化された内的規範は後々まで影響力を持つことになる。しかし、内的規範は単にルールを強制するばかりではなく、他者との共通性を有する理想的な面をも有している。何故なら、内的規範は親子のエロス的関係に支えられて形成されたわけだから、そこには他者からの承認の欲望を満たす可能性が含まれているのである。したがって、内的規範は理想的な自己像の原型となるものであり、他者とのエロス的関係を築くための基盤でもある。

 

【無意識の現象学】

 

内的規範に無意識的な面があることは否めない。しかし、そもそも無意識とは一体何だろうか? 例えば習慣化した運動能力や癖、夢、神経症的な症状など、意識的にコントロールできない自分の身体、感情に直面するとき、自分の意図しないことを感じ、行動してしまう、もう一人の自分を発見することになる。それは、意識的に考える私には把握しきれない、無意識のうちに感じている私なのである。もっとも、習慣化した行動や運動など、ほとんど意識しなくても身体が勝手に動いてくれるときには、感じる私は存在しないかのようだ。しかし、身体や感情のコントロールがきかないときには、意識と身体の分裂感は強くなる。それは、考える私には思いもよらなかった、感じる私の声なのである。

 

ここまで構造主義的な分析を進めてきたのは、「無意識の構造」という仮説が有効だと考えたからだが、実際には「無意識がある」という保証はない。「無意識がある」という確信を成り立たせているのは、「何かによって動かされている」という直観なのである。この直観は「意識している私は、他のものによって規定されてしまう」という考え方を補強する。この「他のもの」とは、意識の中でコントロールできないもの、無意識、身体、他者のことである。こうして他者や身体の問題を軸に、意識中心主義とされる近代哲学、現象学への批判が強まり、主体性に批判的な現代思想が成立したのだと思う。しかし、こうした様々な仮説に頼ることを留保し、私たち自身の欲望を内在的な視点から捉え直さなければ、納得できる新たな規範を模索することはできないだろう。

 

【欲望と共通了解】

 

まず自らの欲望から問い直すなら、目の前に現れている物事の意味に注意を向ける必要がある。そうすれば、様々な意味は自分の欲望に相関して現れており、自分にとって何らかの可能性を示していることが分かる。私たちは自らの可能性にエロスを感じているのである。さらに重要なのは、私たちの欲望が他者との関係性のエロスを求めていることである。人は誰でも他者からの承認を求めており、他者と認め合えることで、自分の考えや行動に自信を持つことができるのだ。他者と認め合えるためには、共通に了解できるものが必要であり、そこに社会規範の大きな必要性がある。つまり、他者との共通了解を基盤とした社会規範だけが私たちの欲望に見合ったものとなり、極度の抑圧を引き起こすこともなく、自然に身体化されていく可能性があるのだ。このように、バランスの取れた内的規範が形成されるなら、そこに可能性のエロス、関係性のエロスが得られることになる。

 

共通に了解し合える社会規範の可能性は、現象学の本質直観によって道が開かれている。各人の本質直観から共通本質を取り出し、それを基盤に話し合うことで共通了解を求めてゆくこと、それこそが、納得のいく社会規範へ歩を進めるための最も有効な方法なのである。もちろん、現実のルール作りには複雑な要因が絡むことは当然であり、共通了解がなかなかできない人も少なくないだろう。しかし、そうした人たちでも、自分の考えや感じ方を理解してもらいたい、他人と共有したいと感じているものだ。お互いの内的なモチーフを伝え合えば、相手と自分の考えが正反対だったとしても、最低限の共通了解が生じることになる。共通了解できないと見切る前に、相手が何故そのような考え方をするのか、もう一度考えてみればいい。そうすれば、未だ実現されざる共通了解へと向けられた、大きな可能性のエロスが生じることにもなるだろう。

 

【身体的表出と暗黙の了解】

 

最後に、共通了解という問題の現実的な難しさを考えておかねばならない。実際の日常生活を振り返ってみれば分かるように、私たちは会話(言語的コミュニケーション)だけで他者と了解し合っているわけではない。相手の表情や身振りなどを通じて、その共感を高めたり、逆に不信感を抱いたりしているものだ。すでにダブルバインドの例で説明したように、会話の内容だけを理解するのではなく、そこで会話をすること自体の意味(メタレベルのメッセージ)、その会話中の身体的表出によるメッセージを、私たちは同時に受け取っているのである。言外の意味を理解すること、それができなければ、そのコミュニケーションは不信感を残すことになるだろう。

 

日本は特に「暗黙の了解」が重視される社会だ。お互いに言葉にしなくても理解しなければならないことが多すぎる。一方ではこの構造こそが、他者との関係性のエロスを強く引き出してきたとも言える。「言わなくても分かる」という安心感、これが大きな意味を持つことは間違いない。しかし、言わなくても分かり合えるためには、すでに共通了解されている「何か」が必要である。現代のように、その「何か」が失われた時代においては、「言わなくても分かる」こと自体が難しい状況にあるのだ。だからこそ、この「何か」という共通に了解できるもの、すなわち社会規範を考え直す必要があるのである。

 

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