イスラームとは、「世界宗教のひとつである」というのが一般的な答えでしょう。しかしこの答えは正確ではありません。もっと大きな概念なのです。それは一つのイデオロギーであるとも言えるだろうし、また社会システムそのものであるとも言えるでしょう。しかし、宗教であることも紛れもない事実です。生きるための知恵である、というのも一つの答えでしょう。つまりイスラームはイスラームである、というのが一番的確な答えかもしれません。(と言ったら、答えになっていないかもしれませんね)なぜこのように言えるのか、それは、イスラームは世界が唯一絶対紳(アラビア語でアッラー)を頂点とした一つの絶対的体系ととらえているからです。そのため宗教と政治が不可分な関係になるのです。つまり神がいて我々がいるわけで、我々の守るべき法体系は紳から与えられるものであるし、また政治的指導者も神に委任されて世界を統治しているというわけです。ですから歴代のイスラーム世界の王たちはこのイスラーム法のために専制に走ることがなかなかできなかったんです。
イスラームは、歴史的にはセム系一紳教、すなわちユダヤ教、キリスト教と続く絶対唯一神への信仰の流れをくみます。イスラームそれ自身も両教をそれに先立つ兄弟分と見なしています。ですから、イスラームはユダヤ教の律法的側面とキリスト教の精神性を併せ持つ宗教である、と説明する論者もいます。
イスラームの歴史
キリストが亡くなってから7世紀のち、つまり紀元7世紀、アラビア半島のメッカに住んでいたムハンマドという40歳の商人がメッカの倫理的退廃に憂いて町外れの洞窟に閉じこもって瞑想をしておりました。そこへ天使ジフリール(ガブリエルのこと)がやってきて、最初の啓示(神の声を聞く)をしました。これがイスラームの始まりです。啓示はムハンマドが亡くなるまでの約20年間にわたって行われ、それがクルアーン(コーラン)となり、イスラーム第一の聖典となりました。
イスラームは成立当初から国家をもち、というか自分たちの思想を共有する共同体としての国家を作り上げ、またそれが拡大傾向にあったため、その領域は大きくなっていきました。ムハンマドが亡くなる頃にはアラビア半島はイスラーム領域となり、さらに20年でササン朝ベルシアを破り、またその後80年でスペインにまで拡大したのでした。驚くべきスピードです。
ムハンマド死後、4代30年ほどは正統カリフ時代と呼ばれていますが、この時代においてはイスラーム共同体(ウンマ)の指導者は共同体の合議のもとで決められました。しかしその後、ウマイヤ朝とそれに続くアツパース朝以降はイスラーム共同体(イスラーム世界)の長たるカリフは概して世襲となりました。
この後のくわしい歴史については概況書などを参考にしてください。いちいち書いていると、紙面が何枚あっても足りません。
いずれにしろ18世紀頃から西欧各国が世界分割を始めるまでは、イスラムは少なくとも同胞意識においては1枚岩でありました。
イスラームの思想(主にキリスト教と比較して)イスラームは縦と横の宗教です。「人」を中心において縦方向に「神」が存在します。これはキリスト教にでも同じですね。しかしキリスト教の体系と決定的に違うのは「人」の横の方向に「人」が存在することです。まさに共同体の発想です。イスラームでは神と人とのつながりだけでなく、人と人とのつながりをも規定しているのです。横方向への積極的な活動はイスラーム法学をうみだし、縦方向へのそれはイスラーム神秘主義(スーフイズム)を生みました。
キリスト教において共同体思想は明示されていません。あくまでも人間と神の関係が主題です。ですからキリスト教国では確かに宗教はキリスト教でも、法は法としておのおのの国にありました。そう聖と俗が分かれているのです。ですから聖である教皇庁と俗である国家の覇権争いが西欧史のメインテーマでした。また皇帝教皇主義をとったビザンツ(東ローマ帝国)でも基本的には聖と俗は別個でした。
しかしイスラームにおいては聖と俗は同一な次元なのです。ですからイスラームの国でいることはイスラーム神学とイスラーム法学の両方を受け入れることになります。すなわちその国では王が存在する以前に神による法が存在するのです。王といえどもその法は無視できません。
試行錯誤を重ねて、王と貴族の交渉(覇権争い)により法が出来上がっていった西欧キリスト教社会とは大きな違いがあります。この辺から西欧社会で「政教分離」という発想が生まれてきたのだと思います。もともと聖と俗は別個なのですから、この結論を導き出すのは容易なことだったでしょう。しかしイスラームではもともと聖と俗はひとつですから、このような発想は出てこないのです。
イスラームは神のもとで平等主義です。確かにムハンマドは預言者としては別格ですが、ムハンマドといえども人間としては他の人間と同格にあつかわれます。だから神学者も原則的には平等であり、特権階級ではありません。ただイスラーム社会においてイスラームをよく知る人ですから、人々の尊敬を集めているという意味では特権階級かもしれませんが・・・。また富める者は貧しい者への喜捨をしなければならないという義務があります。
この平等思想と前出の法学による拘束は現代における共産主義に似ていると思われます。たしかに理詰めではないけれども、平等な理想社会への試みは非常によく似ています。そして共産主義よりもむしろ優れている点も見受けられるのです。それはその社会の
管理者を人間ではなく神にした点です。人間がコントロールする社会の実験はソ連やその他の国々を見ての通り失敗しました。見えざる神による管理、というか絶対法は人々の欲望を抑える格好の道具です。個々の欲望の抑制は安定につながり、これがイスラームがしぷとい理由だと思います。
イスラームの危機
近代において西欧諸勢力の世界分割が始まると、イスラームは危機的状況に陥りました。それは西欧の合理主義の勝利でもありました。イスラームの国々は次々と植民地化されていきました。植民地化は上からの西欧化を意味し、それはイスラームの実践を困難にしました。イスラームは成立から1000年目にして最大の危機にであいました。
これに対して人々は考えます。何がわるいのか、もちろん攻めてきた西欧各国が悪いんだろうけど。ではどうして負けたのであろうか。彼らは考えました。きっとイスラームに対する理解が足りないのではないか、と。またイスラームを正しく実践していないのではないか、と。こうしてイスラームを根本から見つめ直そうとする運動、イスラム原理主義運動が起こるのです。
イスラームと西欧型民主主義
前にも述べたようにイスラームは神を頂点とした絶対的な価値体系であるから、価値の相対性を原理とする民主主義とは抵触する面があるのです。それはイスラーム法は多数決といえども覆せないという例からもわかると思います。現代のイスラーム世界の常々はこの問題にどう対処したのでしょうか。
トルコは、かつて共産主義がロシアでそうしたように、イスラームをばっさり切り捨てるという道を選びました。政教分離を行い、法や立法制度は西欧社会のものをそのまま移植しました。最初の半世紀はある程度の効果をもたらしましたが、ここにきてその文化の切り捨てに対する反動が見られています。サウジアラビアは、イスラームをそのまま残しました。そのためいわゆる憲法というものがこの国にはなく、すべてはイスラーム法(ハディース)にのっとって統治が行われています。現在はこれでうまく機能しているように見受けられます。イランはイスラームと民主主義をうまく調和させる制度、イスラーム共和国という体制をつくりました。それは議会制をとっておりますが、その決定事項はイスラム法学者からなる委員会でイスラーム法に抵触しないかどうか審議されて初めて施行されるのです。
もっと知りたい人のための参考文献
@イスラーム全般について
「イスラム教の本」、Books Esoterica14、学研
「イスラームとは何か」小杉泰者、講談社現代新書1210
「イスラーム生誕」井筒俊彦、中公文庫440
@イスラームの歴史を知りたい人は
講談社現代新書の「新書イスラーム世界史」の3冊
「都市の文明イスラーム」・「パクス・イスラミカの世紀」・「イスラーム復興はなるか」 をどうぞ。