会合日時:1998年7月11日

 

レジメ担当者:山竹・竹内 共作

 

加藤典洋著『敗戦後論』について

 

「敗戦後論」について討論するわけだが、こうした話題に関しては、若い世代は避けたがるものだと分かってはいる。それは、あまり自分には関係ない、とどこかで感じているからだろう。したがって、戦後の意味を議論しようとしても、世代的な見解の差が著しく出ることは避けられず、平行線を辿ることは目に見えている。つまらない議論になりそうだ、と思う人も少なくないだろう。しかし、加藤典洋の敗戦後論は、定型化した議論とは違う内在的な視点を有している。それは戦後という問題だけでなく、社会に関する多くの問題について、実に有効な視点を提供してくれる考え方なのである。

 

例えば戦時中、日本は数多くの残虐な行為を犯している。戦後、その戦争責任について考えることは、日本人の義務でさえあったように思う。しかし、戦後半世紀以上を経た現在、若い世代にとって戦争責任という問題は、あまりにも実感に乏しいものになっている。加藤典洋が出発点としたのは、その「俺には関係ない」という内的な実感なのである。これを無責任な態度と批判するのは簡単だが、そう感じてしまうものは仕方がないとは言えないだろうか。当然ここで、「いや、それは無責任だ」という意見が出てくる。そして若い世代は「多分そうなんだろうけど、どこか遠い問題だな」という感じを拭えない。こうした状況に対して、この内的な実感を無視せず、そこから考えるほうがよい、というのが加藤典洋の視点なのである。

 

現代のように相対主義的な価値観の強い世の中にあっては、「戦争責任を負うべきである」という主張をただ漠然と繰り返されても、その必然性を感じることは不可能な状況にある。この相対主義的態度を少なからず正当化しているのがポストモダニズムなのである。ポストモダン的に考えるなら「絶対に正しい主張などない」ので、「戦争責任を負うべきである」という根拠も弱く感じられることになる。もちろん、こうした論理的思考を経て「俺には関係ない」と結論しているわけではなく、先に「どうも戦争責任なんて言われても関心がわかないなあ」という内的な実感が先にあり、それが人によってはポストモダン思想で正当化されることにもなるわけだ。

 

これほど相対主義的な考え方が優勢でなければ、「俺には関係ない」と感じたとしても、「いや、それではいけない」という考えが浮かんでくることだろう。かつてはそれが、内面化された社会規範の要求だったのである。ところが現在では、内面化される社会規範そのものが相対的であるため、罪責感は生じにくくなっている。つまり、ポストモダン的思考は戦争責任を担う必然性を失わせる契機となっているように思うのだ。だからといって、「戦争責任を担うべきだ」という考えを絶対化して主張したのでは、反動的な形而上学的発想に戻ってしまうだけだ。戦争責任について考えるなら、そこには人間の道徳性等とは全く別の論理が必要になるはずなのである。

 

そうした状況の中で、現在「戦争責任」の重要性を掲げている思想家達は、デリダ、レヴィナスらの理論をベースとして、この根拠を示そうとしている。彼らの多くは加藤典洋を「無責任」として批判しているわけだが、この批判は的外れなものだと思う。何故なら、加藤典洋が主張しているのは、「俺には関係ない」ということの客観的な正当性ではなく、そう感じてしまうことから見つめ直す、という内在的な視線変更の重要性に他ならないからだ。勿論、『敗戦後論』を支持する読者が全て、このような視線変更の意味を理解したとは思わない。その場合、「俺には関係ない」という内的な実感だけが正当化され、「戦争責任を考える必要はない」という命題だけが、あたかも客観的に正しいものであるかのように主張され始めることになる。加藤典洋への批判の多くは、こうした発想への懸念の表明なのである。そういう気持ちも分からないではないのだが、内在的な視線変更という意味を理解しない限り、どうしても論点がずれることになるだろう。

 

【問題の総括】 

 

「戦後」「敗戦後」といったような社会のマクロな問題は、とかく生活実感の伴わない抽象的議論になりがちです。一体こうした問題は、個人には把握しきれないものなのでしょうか? 把握できないとすれば、そのような社会問題を考える意味はあるのでしょうか? まず「把握できないものを考えても仕方がないじゃないか」という意見があります。しかし大抵の人はすぐにこう考え直します。「しかし、誰かが考えなければ戦争になっても文句は言えないなあ...」と。そして「だから自分に関わる範囲で考えればいいんだよ。必要以上に考えをこねまわすのは意味がないじゃないか」という意見も出てきます。

 

みなさんはこれについてどう考えますか? 把握できようができまいが、考える必要性があることははっきりしていると思います。そうでなければ「兵役もOK」と言っているのと同じことになるからです。しかし、無理に論じようとすれば、「戦争」「敗戦後」を巨大な物語にしてしまう危険性が多分にある。そこが多くの戦後論、敗戦後論の「マズイ」ところです。まずどういう視点から考えたほうがいいのか、それをはっきりさせなければ、袋小路に陥ることは目に見えているのです。それについては、私は「内在的視点」を加藤典洋が打ち出している、と述べました。これは竹内さんの書評にも説明があり、基本的に2人の見解は一致しています。

 

「敗戦後論」・総括(会合感想)――――――――――――――――――――――――――

 

内在的に考えるとはどういうことか。私としては、この考え方をみんながどう捉えるのか、それがとても興味深かったのですが、それについての反応がなかったのがとても残念です。加藤典洋の『敗戦後論』は大きな反響を呼びましたが、日本の知識人の多くが批判的だったことはすでに述べましたね。しかし、その批判の仕方はとてもマズイものが多かったように思います。もちろん、加藤典洋の言い方にも釈然としない点はありますが、彼の主張の中心が「内在的な考え方で敗戦後を考える」ということであることだけは、やはり優れた視点だと思います。にもかかわらず、そのことに触れた加藤批判はほとんどなく、枝葉末節的な揚げ足取りが横行しているのはどういうわけでしょう。これは戦争問題だけではなく、あらゆる社会問題に繋がる視点であるだけに、まだまだ今後、どう受け取られていくのかが気になるところです。

 

「敗戦後論」・総括(補遺)

 

主観性から出発すると、自己中心的になってしまうので、他者の視点を含めるべきだという意見が出ました。これについて少し補足しておきたいと思います。

 

最初に誤解を解いておく必要があるんですが、内在的視点から出発するべきだ、とは言いましたが、内在的視点に終始するべきだ、とは一言も述べていません。そもそも内在的に考えるということは、「絶対に疑えないことから考える」ということであって、単に主観的に考えるということとは違うのです。例えば「戦争なんて関係ないなあ..」と感じたとしますね。この場合、「そんな考えではいけない!」と誰かが言ったとしても、何故いけないのかという理由は、どこまでも疑える可能性が残ります。同じように「俺には戦争は関係ない」という理由もまた、どこまでも疑えるわけです。この疑えるものから出発すると、必ず肥大した戦争物語を作り上げてしまう可能性が残る。では何が疑えないほど確かなことなのか、というと、「戦争は関係ないなあ..」と感じたことだけは絶対に疑えません。それは「戦争は関係ない」ことが疑えない、ということとは全く別の話なのです。

 

この違いをもう少し専門的に補足してみましょう。今回の反論は「主観と客観のどちらが重要か」というような問題として捉えた人が多かったように思いますが、それは最初から主観/客観という対立図式を大前提にして考えているわけです。そうなると、内在的視点とは主観にすぎないのではないか? というような疑念が生じてしまうことになる。しかし、正確には「内在的視点=主観的な見方」ではないのです。私の説明不足のせいなのですが、内在/超越という区別が主観/客観という区別と混同されているから誤解が生じたのだと思います。加藤典洋の『敗戦後論』にしても、主観的な実感を大事にするという主張が新しかったのではなく、その主張の根拠が内在/超越という現象学的な考え方を踏まえていることが斬新だったのです。

 

それから、これは他者を無視した考え方にもなっていないのです。まず内在的視点から出発し、次に共通に了解された本質を話し合うべきだと言いたかったのですが...、少し言葉が足りなかったようですね。個人の感じていることや、その人なりに考えた戦争の本質(意味)を無視せず、それを他の人たちと話し合っていけば、共通の本質が取り出せることになります。もちろん、微妙に意見はズレるに違いありませんが、だいたいの合意ができれば、次にそれに基づいてルールや方法を決めていく道ができてくるでしょう。このように考えを進めれば、ちゃんと他者のことを含めて考えられるようになっているわけです。

 

いきなり他者性ということを対置し、他人の身になって考える、という主張をしても、でもそれでは「どうして他人の身になって考えなければいけないんだ」という人がたくさんいた場合には通用しにくいものですね。それは、論理的にはいくらでも疑える考え方(超越的視点)だからです。他者論を持ち出して加藤典洋を批判している人たちの論理も、他者と向き合うことは必然的に「汝、殺すなかれ」という倫理的実感に繋がる、というものですが、それだけでは他者との関係性がネガティブな捉え方になってしまう。これでは「俺には関係ない」と強く感じている人には説教めいた話にしか聞こえないでしょう。

 

「関係ない」と感じている人に対して、「他人のことを考えろ」「人を殺すのは悪いことだ」「自分が殺される状況になってもいいのか」という論理や倫理観だけでは弱いのです。しかし、内在的な視点から「どうして関係ないと感じるんだろう、自分はどうしたいんだろう」と自分の欲望を突き詰めていけば、他者や社会と関わりながら、それを考える根拠が見つかるはずです。このことについての個人的見解は、5月の会合レジメ「社会的ルールの可能性とエロス」でも述べたので繰り返しませんが、ポジティブな他者との関係性から社会を考えること、それが重要なことだと思いますね。

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