「万人の万人に対する戦い」に終止符を打つべく登場した啓蒙思想。すでに近代の黎明期にはルソーの社会契約論も世に問われ、社会の最低限のルールは模索されている。神という絶対的後ろ盾を喪失した社会のルールは、私たち自身の理性によって、確かな真理ともいうべき社会秩序のあり方を求め続けてきたのである。しかし今世紀に入って、「真理はない」という論理的結論とマルクス主義運動の失敗により、社会のルールは絶対的な支えを失ってしまったと言える。今日、絶対に正しいルールに基づいた社会は有り得ないという諦念は、経済的な豊かさの中で「開き直り」に変質し、ルールからの解放だけが礼賛されることになったのである。しかし、あらゆる人が全く自由に欲望を求め始めるなら、社会は犯罪の氾濫する無秩序な状態に至るだろう。そこで、こうした思想は最低限のルールを提起せざるを得ないことになる。現在、こうした理由から社会のルールを考えることが一般的になっているのだが、それは社会を考える論理としてはネガティブな見方であり、現実的にも限界があるように思える。以下、欲望の本質を根本から捉え直すことによって、ルールをポジティブに作っていく可能性があるのかどうかを考えてみよう。
欲望の本質と個人的欲望の限界
私たちは何らかの理想を求め、欲望を抱いて生きている。そこには死の観念が深く関わっているのだと考えられる。何故なら、死の観念が意識を襲ってくるとき、人は自分が徹底的に孤独であることを思い知らされる。それはとてつもなく不安なので、人はその状況から逃れるために、別のイメージによって死を打ち消そうとすることになる。そこに様々な理想のイメージが生じてくるのである。人間の欲望はこうしたイメージへの欲望であり、欲望を満たす対象は現実には存在しない。したがって欲望の完全な充足はあり得ないのだが、重要なのは、満たされる以前の可能性自体にエロスがある、ということである。
理想的な社会のイメージは、他者との繋がりをも感じさせる大きなイメージという点で、他のイメージより優位なものとして存続してきたと言える。しかし現在の社会においては、社会そのものへのネガティブな感触が拭い難く、したがって、理想はどうしても個人的なものだけを欲望せざるを得ない。だが、その多くは挫折する可能性が高いのだ。何故なら、最低限のルールは不可欠なので、このルールが自分の欲望を妨げるものと感じられてしまうからである。しかも、誰もが個人的な理想を発見でき、満足していけるとは限らない。自分の夢や目標を見つけることに強迫的になったり、一方では挫折感やニヒリズムから抜け出せず、その怨恨を社会にぶつけて嫌悪する場合も少なくないのだ。しかし、こうした社会的なルールと個人的欲望の対立という構図は、そもそもルール、欲望の本質を捉え損なった見方なのである。では、どう考えていけばいいのだろうか。
他者への欲望と社会のルール
社会のルールに参加することは、他者と関係を結ぶことでもある。そこに自我の欲望を超えた、大きなエロスがある。何故、個人的な欲望よりも、他者との関係性のほうが大きな喜びをもたらすことになるのだろうか。その大きな理由として、人間の欲望が幻想的なものでありながら、それでも現実的な確かさを求めていることが挙げられる。現実を支えているのは、他者と共通に了解された意味、ごく日常の自明化した意味にある。意味とは言語の差異によって生じたものであり、根元的な客観的意味などというものはない。
私たちが意味の確実性を信じ、現実感を得ているのは、日常的な意味が他者と共有されている限りで成り立つのである。もし、この共通了解が全くなければ、日常の自明性は崩壊し、精神分裂病に近い状態となるだろう。もちろん、日常的な物事(「コップ」や「赤」の意味など)よりも意味の幅が広い領域もある。例えば、「自由」とか「正義」などの意味は多義的であり、人によって様々な異論が生じることになる。こうした言葉が「正義に基づいて自由に行動してよい」というような文になると、意味はさらに多様に受け取れる。社会的なルールに関わるのは、こうした多義的な意味の領域なのである。
この意味の幅が広い領域もまた、共通に了解されるほど、世界の現実性、真実性は確かなものとなり、相互承認による他者との結びつきは強く感じられる。だからこそ、共通に了解された意味を中心にルールを考えれば、ルールそのものにエロスが生じることになるのだ。そこに、ルールをポジティブに捉え直す基本的原理がある。常識的な意味の解体、ルール違反、他者との差異にもエロスはある、というような反論もあるかもしれないが、それは最初に共通の意味、ルールが成り立っていなければ有り得ない。議論という言語ゲームもまた、ルールがあってこそ楽しめるのである。
繰り返すが、社会のルールは単に欲望を抑圧するだけのものではない。確かにルールが形成されれば、個人的な欲望や自由を拘束する一面もあるのだが、個人的な理想を超えるような満足が得られる可能性は、他の人たちとの関係の中にこそある。人間の欲望は他者から認められることが基盤となっている。だからこそ、多少は自分の欲望を抑えてでも、他の人と関わりたいと望むことになる。しかも、よりよい社会への可能性は多くの人にとって共通の理想となり得ることで、個人的な理想を持てない人々にさえ、大きな可能性を感じさせることになるのである。そのことが理解できれば、ルールを作ること自体にポジティブな意味を見いだすことが可能となるだろう。客観的に正しいルール、社会はない。だが、他者と共通に了解し合えるルールを作り、私たちが確かだと感じられるような社会を作ることは、十分に可能だと思うのである。
社会的ルールの可能性とエロス・総括(会合感想)―――――――――――――――――
別にこのサークルについて論じたわけではありませんが、この場を借りて少し考えをまとめておきます。ルールの設定は、その組織の成員が共通に了解している目的を第一に考えられるものです。例えば企業であれば金を稼ぐことですね。その目的があればこそ、多少は窮屈なルールでも守ろうとします。学校も勉強したり学歴を残すためには、そこに所属せざるを得ない面がある。ですが、私たちのサークルには目的がありません。嫌になればいつでもやめられます。だからといってルールが無ければ組織運営は不可能です。こういう場合、ルールを作る根拠がはっきりしないので、ただルール設定だけを議論しても無意味なのです。では、PMCの会員がこのサークルに求めている共通のものとは何か。
これは会員相互の関係から生ずるエロスです。理解し合うこと、認め合うことの愉悦、それがなければ早々に潰れていたことは間違いありません。もちろん、自分が求めているのはちょっと違う、と思う人もいるでしょう。しかし、ぼくが言っているのは大きな共通項です。理解できない意見が面白いとか、白熱した議論が勉強になるといっても、結局は人間関係のエロスを基盤にして成り立つのです。そうでなければ、他人の意見を聞くことには何の意味もないことになるのですから。このことを各自が自覚できるなら、どんなに議論が割れたりもめ事が起こっても、いつでも軌道修正ができるはずなのです。