1.主体的に生きるとは....
「主体性を持ちなさい」、「自立しなさい」、こんなセリフを耳にしたことがあると思います。それに対して、「うん、やっぱり主体性がなきゃいけないな」と考えてる人もいるでしょう。しかし、主体性が必要だということを誰が思ったのでしょうか? 親や友人が「主体性が必要だ」と言っていたからでしょうか。それとも、自分の経験から主体性を持つべきだと思っているのでしょうか。逆に「どうせオレは主体性なんかねーよ、別にいいじゃん」と、思っている人もいるかもしれません。それでも、自分の思うように自由に生きたいという気持ちは、誰でも持っているのではないでしょうか。
2.主体をめぐる戦後思想のゆくえ
戦後、民主主義は主体性と自由の復権を掲げ、ファシズムへの勝利に酔いしれていました。その後、今度は資本主義社会が個人を抑圧しているとして、世界的な規模でのマルクス主義運動が起こりました。この二つの動きを動機づけていたのは、個人の自由を抑圧する社会システムから解放され、自分で(主体的に)人生を選択し、自由に生きたい、という欲望だったと思います。70年代後半に入ると、マルクス主義の凋落とともに構造主義、ポスト構造主義が台頭し、あらゆる社会構造は主体性を規定してしまうこと、したがって、いかなる社会も理想化されてはならないという主張が目立ち始めます。それは「主体的に生きることは不可能である」という過酷な宣言でもあったのです。
3.社会構造が個人の主体性を決定するのか?
例えば、私たちは自分の信念や考え方を、自分自身で選んできたのだと思い込んでいます。しかし、実は学校も職場も、そして家さえもが、その社会にとって都合のいい考え方を植え付ける温床になってはいないでしょうか。もしそうなら、社会に対する考え方や信念などは、その社会に都合のいいものとなり、また同じ社会を作り出す(再生産する)ことになるわけです。このように機能する学校、職場等のことを、アルチュセールは国家のイデオロギー装置と呼んでいました。また、意識的な信念や考え方だけでなく、もっと無意識的な行為も同じことです。ブルデューによれば、むしろ身体化した習癖、ふるまい等、日常的な実践こそ同じ社会構造を再生産していることになるわけです。
4.近代における主体性の形成
ところで、パノプティコン(一望監視塔)という監獄をご存じでしょうか。パノプティコンは、絶対的な支配者が眼の前には現れないにもかかわらず、「どこかで監視されている」ような気にさせる監獄です。これは異様な状況と言わねばなりません。実際には監視者・支配者がいないかもしれないのに、絶えず何かに怯え、不安を抱き続けることになるからです。その結果、誰も見ていなくても、監視下にある時と同じように行動するようになります。自分自身を律する内的な規範が成立し、それに従って行為を選択するようになるからです。フーコーは、パノプティコン的な空間は監獄のみならず、学校、病院、職場等、近代社会の様々な領域に浸透し、私たちの身体を訓育してきたのだと述べています。何故なら、自主的に能率よく働く人間こそ、資本主義社会が求める理想的人間だからです。
5.内在的な主体性問題へ
パノプティコンが示唆しているのは、自分の内なる世界に他者を宿し、絶えず第三者的な視線を感じる、ということだと思います。そこには、内なる他者によって身体が動かされているような、何かによって操られているような違和感があるわけです。例えば、新興宗教を信じている人に「君は騙されてるんだ」とは言えても、本人は主体的に生きている、と感じているかもしれません。イデオロギーを信じ切っていたり、習慣的に生活していても、あまり違和感がないことも多いのです。しかし、何かによって動かされている、自分の意志とは違う行為を選んでしまう、という違和感があるなら、そこに主体的に生きている、自由に生きている、という実感は非常に乏しいことになるわけです。
6.主体的に生きるために
誰に命令されるわけでもなく、外的なルールや価値観を押し付けられることも少ない社会、それが現代社会です。だとすれば、私たちはかなり自由な社会に生きているはずなのです。
しかし、そこに本当に主体的に行為を選択し、自由に生きている、という実感があるでしょうか。自由に行動が許されている場合でも、「何となくそうしちゃいけないような」気がしたり、後ろめたさを感じたりすること。自分の意志で「動いている」というより、ただ漠然と、何かによって「動かされている」という気がすること。現代において主体性の問題を考えるなら、このような違和感についてこそ問うべきだと、私は考えます。今回の会合では、自分は「主体的に生きている」という実感があるのか、やはり動かされているような違和感が強いのか、そのことを中心に話し合う予定です。
君は主体的に生きることができるか・総括(会合感想)―――――――――――――――
主体的に生きることができるか? 私は最初にこう問いました。ある意味で答は最初から明白だったと思います。人間を社会構造の中に位置づけて考える限り、主体的に生きることは不可能です。ぼくたちが何かをやろうとする気持ちの中には、必ずといっていいほど他人の評価や欲望が含まれており、世間の価値観に左右されないことは有り得ないのです。もちろん、自分では左右されてないと思い込んでいる人はいるわけですが、それは気づいていないだけなんだ、というのが構造主義的な視点ですね。これはこれで正論です。
しかし、自分では他人に左右されてない、主体的に生きていると思う、という実感があるならそれでいい、という見方もあります。その場合、他人に「お前は周りに振り回されている」と言われる筋合いはないわけです。でも、どうでしょう。そんな実感がずっと持続できるほど人間は強くないと思うんです。何となく惰性で日々を過ごしてしまったり、長いものには巻かれてみたり、それが普通なんじゃないでしょうか。そのほうが楽な面もあるからですが、そこには充実した自由の実感はあまり望めないような気がします。自由を感じたいなら、何らかの主体的な選択が必要になる、ということです。
もう何度も述べてきたことですが、人間の欲望は他者に認められ、他者の欲望するものを欲しているのであり、社会から離れて生きたり、社会とは全く違う価値観を固持して生きることは、多くの人には耐え難い考え方です。一般に、あらゆるルールからの解放が自由だと考えられがちですが、それは日常の実感からかけ離れた発想でしょう。ポストモダンの思想などが典型的ですが、ちょっと短絡的な発想に思えます。自由には、自分で自分の行為を選び取っている、という実感が必要なのです。
まず、社会のルールが常に自由を奪うものだ、という先入観は捨てたほうがいいでしょう。それは、社会の構造やルールが主体性を規定してしまう、という外側から見た視点(構造主義的な視点)を取ったときにだけ言えることです。むしろ、他人と了解し合えるようなルールや価値を考えたほうが、精神衛生上にもいいはずです。何故なら、その場合に作られるルールは、自分を拘束するというよりも、自分の意志で選び取ったものだという充足感のほうが強くなるからです。そこには他人と認め合える喜びがあり、自ら選んだ生き方だという納得が生じるはずです。それが主体的で自由な生き方だと、私は思うわけです。