会合日時:1998年 1月10日

 

レジメ担当者:さば (ペンネーム)

 

せつなさ・複雑系・ウィトゲンシュタイン

 

1 せつなさの感情と古典的熱力学の第二法則

 

・せつなさとは

 せつなさとは。それを感じているときには、これ以上はないというほど強く感じるのに、一度それが止むと、どう表現したらよいのか、一瞬戸惑う感情では、ある。

 「切なさ」「刹那さ」。漢字だとこんなところだろうか。「切なさ」と書けば、「やりきれない思い」という表現が出てくる。糸をひくような、何かが割り切れずにからみついているような感じだ。まるで「死都ブリュージュ」に描かれた街、たまたま私が彼の地を訪れたのは死神の裳裾が掃いたかのように白く街が染められた真冬のことだったが、死んだ女のため息のように霧が街をよぎる川面に漂い、その長い髪が手にからみついてくるかの錯覚を覚えた。(なんだか「泰西世紀末」モードが入った)そんな、なにものかがからみついてくる感覚。

 「刹那さ」。「刹那」とは、仏教用語で、時間を表わす、最も短い単位を指す。「せつない」の英訳が「momentaly」になる由縁だ。……瞬時に終わってしまうこと、だろうか。しかし「せつない思い」としたときの「せつない」は、ちょっと違う。瞬時に終わってしまうような思いではない。イメージ的な繋がりはあるのに、この二つは100%一致していない。

 以上の理由により、英語話者と対話する際、私は「せつない」をどう伝えようと苦心してきた。友人と映画を見て、そのあまりの刹那さに「そうこれよこれ、この感情をあなたはなんていう?」と聞いたら「sad」と一言いわれ、それが同じものをさしているのかどうかわからず非常に戸惑った。今だに自信はない。しかし、自信のある表現は見つけた。「あなたの両手の中に砂がある。あなたはその砂を失いたくない、いつまでも両手のうちに止めてゆきたいのに、両の手の指の間からこぼれてゆく砂を、あなたは止める事ができない。その、見つめること以外なにも出来ないのだ、という感覚。」如何だろうか。

 「見つめること以外なにも出来ない」のにはキーがある、とポリスの「every breath you take」に参ったことがある人なら思うだろう。

 被視体の随時の変化を止めたい、と願う無力な存在としての視者。願わくば、時を永遠に止めたい、そしてその変化を止めたい。ファウストの「時よ止まれ、かくに汝は美しい」もこの系に属する。

 

・ルイス・キャロルの悲劇

 

 そう、まさにそれは悲劇だったのだ。

 「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の作者、ルイス・キャロル、いや、本名チャールズ・ラトヴィッジ・ドジスン博士の悲劇は、彼の愛する者は少女だったことにあった。「少女」という、制約のついた、不安定な生き物しか愛せなかった。一人を愛しても、数年たつと彼女は自分の愛される定義を超えて、楽園を後にしていった。目の前で、愛する者が、愛せざるものに変化してゆく過程をつぶさに見つめながらも、とどめる手段を知らないことの悲劇。

 そのせつなさは、「鏡の国」によく現われている。「鏡の国」は名前通り、物事が逆さ映しになっている世界だ。そこでは一箇所に留まるために、猛烈なスピードで動き続けなければならない。アリスはその鏡の国のポーン。駒を進み切ることでクイーンに、大人になる。途中道案内をする白の騎士は、大人になるアリスに別れを告げるとき、こういう

 「角を曲がる時に君がハンカチーフをふってくれたなら、僕はきっと元気が出ると思うんだよ」

 大人になることを夢見、残されるキャロルに注意を払わない少女達を、白の騎士/キャロルは見送ることしかできなかった。彼はいく度か時が止まって、少女達の美しい姿を留めることを、強く強く望んだのに、少女達はそんなことを考え付きもしなかった。彼等が見つめていたのは、大人になったときに開けるであろう、新しい世界だった。

 時は流れ続ける。留まることも、逆流することもしない。

 熱力学の第二法則、エントロピー増大の法則は、キャロルの願いを無視して働き続ける。

 

2 カオス理論と複雑系の簡単な説明ならびにジュラシックパーク

 

・カオス理論と「アルカディア」

 

 「アルカディア」という作品がある。「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を書いた、イギリスの劇作家、トム・ストッパードの書いた脚本。カオス理論を利用した、という事で賛否両論が巻上がった作品だ。

 物語は同じ舞台上(とあるマナーハウス)で二つの時相をもって進行する。18世紀には、その家の娘トマーシャとその家庭教師セプティマス(ケンブリッジ卒業生)、20世紀には、そのマナーハウスの庭と、そのえに描かれる隠者を研究する女性作家ハナと、一家の末裔ヴァレンタイン。

 はじめに出て来るとき14歳のトマーシャは数学の天才で、マナーハウスの狩猟用生物の数の増減を年比較しているうちに、自分でも知らずにある法則性を発見している。(それがカオス理論にもとづくという設定)その事実を後に発見したヴァレンタインは、トマーシャが、コンピュータもなく、鉛筆のみで書きつけた数を利用することによって、自分のケンブリッジでの研究に活用できるのだが、彼女がそれを発表する前に死んでしまったことに気付く。

 トマーシャはセプティマスの教育のために、熱力学の第二法則により、世界は均衡のうちに終息するという。セプティマスに初恋をした彼女は、16歳になる誕生日の夜、彼女はセプティマスに、その夜寝室で彼を待っていると告げる。行けないから早くろうそくを消して眠りなさい、とういう彼になおも、一晩中彼を待つ、というトマーシャ。その夜彼女は火事で焼死してしまう。首をたてに振らないセプティマスに、トマーシャは最新流行のワルツを彼に教えてもらう「世界は終わってしまうのだから、その前にもう一曲踊って」。

 

・カオス理論と複雑系の考え方

 

 何だか難しそうなイメージのあるカオス理論と複雑系という考え方。しかし、考え方としては結構シンプルなものらしい。(私も自信がない)

 カオス理論ならびに複雑系とは、初期の入力値の小さな違いが、結果として大きな違いを生み出す、という考え方を基本とする。極端な例は「北京の蝶」。北京で蝶がはばたきをするぐらいのわずかな空気の動きが、ニューヨークではたつ巻になるほどの大きな違いを結果として生み出す例だ。

 この考え方にもとづいて、「ジュラシックパーク」のなかでは数学者のイアン・マルコムが、「ジュラシックパーク」づくりにはじめから反対していた。恐竜の生きたジュラ紀、白亜紀と、気温も湿度も生物も植物も、何もかもが違う20世紀に、恐竜が存在することは不可能なのだ、というのが彼の主張である。

 「ロストワールド」は、このマルコムの講演、「カオスの縁の生命」で始まる。生命という解き難い謎は、カオスの縁で起こっている、というマルコム。「重要なことは―複雑なシステムが、秩序の必要性と変化への要求との絶妙なバランスの上に成り立っているらしいという点である。複雑なシステムは、我々が“カオスの縁”と呼ぶところに身を置きたがる」

 この「カオスの縁」という概念は、生命、物質、社会、経済、あらゆる事象が成り立つのには、非常にデリケートなバランスの上に成り立っており、その入力値が少しでも狂えば、事象は成り立たなくなってしまう、まさに「縁」に事象は成り立っているのだ、という事である。

 この細いラインの片側では無秩序なカオス状態が全てを多いつくし、もう片側では、現われはじめた秩序が、わずかな安定状態を経て、やがて静かすぎる死の世界へと移行する。

 この彼の説通り、「ロストワールド」はそれ自体のなかで、人間のコントロールを超えて自分たちのバランスを作りだし、かつやはりそれはその外の世界との共存には耐ええない、というところで物語は終わる。

 このカオス理論/複雑系の考え方の面白い点は次の点である。

 これまで、演繹可能な事象は、よって予想可能だとされてきた。明日確実に雨が降り、なおかつ気温が氷点下なら、それは雪か氷になるだろう。しかし、複雑系の考え方では、ひとつひとつに演繹可能な事象であっても、それがかならずしも予想を可能とさせない、という事である。明日の天気は予想できるだろう。その情報を利用して、明後日の、その翌日の天気も予想できるようになった。しかし、1年後の天気は予想できない。なぜか?ノイズが多すぎるのだ。初期の入力値に誤差が多すぎるため、時間がたつほどにその差が激しく出てきてしまう。ゆえに予測の不可能性が高まる。

 

3 補助線としてのウィトゲンシュタイン

 

 以上からいえることは、カオス理論/複雑系の考え方では、世界をひとつのまとまった系として捕えることが不可能になる。それどころか、ひとつの事象をひとつの系にまとめ上げることさえも不可能になってくる。そこで出てくるのがウィトゲンシュタイン!!

 ウィトちゃんの考え方、言語を体系的な規則の固まり/体系としてではなく、多数の言語ゲームの集体と捕える考え方と、考え方の相似形がここに見られる。言語ゲームそのものも、危ういバランスと相互の擬理解の上に成り立っている。「トンカチ!!」と叫ぶことで意味しうるあらゆる可能性を超えて、ワトソン君はホームズ君にトンカチを渡すだろう。(彼等の間にはよく誤解が成り立つが)「愛」という言葉は誤解を生む事によって、その「言葉」としての重要さと、それに振り回されてうんざりする人々を増して行くだろう。

 

 

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