会合日時:1997年11月 日

 

レジメ担当者:山竹

 

無意識

 

20世紀の思想に大きな影響を与えた人物は誰かと問われるなら、マルクス、ニーチェ、フッサール、そしてフロイトの名前を挙げないわけにはいかない。無意識の発見者としてのジグムント・フロイト。勿論、人間の意識の奥深くに無意識的な領域があることは、古くから世界各地で信じられてきたことでもある。では、フロイトの主張した無意識という概念の革新性は何処にあったのだろうか。今回の会合では、私たちの日常において現れる様々な無意識的なものを考えながら、無意識の謎に迫ってみる。

 

1. 日常における無意識 - 失策行為 -

無意識の存在を否定する人はほとんどいない。誰もが自分でも思ってもみなかった感情に驚いたり、無意識のうちに行動してしまっている自分を知っているからだ。フロイトは無意識が日常生活に現れる例として「言い間違い」や「忘れ物」などの失策行為を挙げている。抑圧されていた本音が言い間違えられたり、好きな人物の家には頻繁に忘れ物をして戻りたがることは、よくあることなのである。

 

2. 無意識への王道 - 夢 -

無意識が最も大がかりに現れる舞台が夢だ。夢は無意識の作った物語なのである。ユングによれば、個人的な無意識のさらに深層に集合的無意識があり、人類共通のパターンである元型が様々なイメージとなって夢に現れるのだという(元型論)。一方、フロイトにとっての夢は、無意識に抑圧されたものが再び浮かび上がり、欲望を訴える物語となって現れることである。この二つの理論の根本的な違いから何が分かるだろうか。

 

3.無意識と社会 - 構造主義 -

私たちが社会批判をしようとする場合、政治や教育制度の腐敗ぶりを指摘しながら、社会システムがいかに間違っているかを糾弾しようとするものだ。それが「間違っている」という感覚を多くの人々と共有できる時代であればあるほど、その社会に革命の起こる確率は高くなる。しかし、見える社会システムよりもやっかいなのが、見えない社会構造である。私たちは社会に漠然とした違和感を抱きながらも、「でも、これでいいはずだ」と無意識のうちに思わされるような社会に生きているのかもしれない。

 

【討論】無意識とは何か?

 

さて、無意識とは何か、もう一度自分自身の経験を振り返りながら討論に入ります。日常の生活の中で、「そういえば、こんな言い間違いがあった」とか、「あのとき無意識のうちに忘れ物をしていたのかもしれない」とか、「こんな夢をみたことがある」等、これって<無意識かなあ>と思う経験をお互いに出し合いながら、無意識とは何か、より身近なところから考え直してみましょう。

 

【予備考察】

 

1.無意識の構造

ソシュール言語学を応用して、無意識を精緻に体系化したのがラカンである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている」のだと主張する。つまり、無意識は抑圧された言語の連鎖によって構成されているのである。

 

   S2....(s3\)S3....(s4\)S6....(s9\)S9.......意識

   \        ↓         ↑

 -φ\Φ.........................S4....S7..........S10....無意識

 (原抑圧)         (抑圧)    (夢・失策行為)

 

2.意識の外部

無意識とは、あくまでも意識の外側にあると信じられている世界についての仮説である。何故なら、それは意識されないのだから、誰もその存在を証明することはできない。しかし、自然科学が世界の実在を仮定して研究することで、私たちの生活を豊かにしているのと同じように、精神分析学が無意識を仮定することには、治療という大きな目的があることを忘れてはならない。

 

無意識・総括(会合感想)――――――――――――――――――――――――――――

 

世の中には無意識についての膨大な理論やモデルが氾濫しています。が、その多くをいかがわしいものだと思っているのは、きっと私だけではないはずです。これほどバラバラな無意識理論が出回るのは、何と言っても無意識が確認しようのないものだからであり、いくらでも憶測が成り立つからだといえます。そしてそのことは、無意識という問題を考えるときには欠かせない視点なのです。

 

そもそも、誰もが確認できないはずの無意識の存在を信じているのは、「これって無意識かな」と思うようなことが、日常生活の中でに経験されているからではないでしょうか。フロイトの強調した失策行為や夢なども無意識の出現に思えるし、習慣化した運動能力や癖、神経症的な症状等、身体に関わることも無意識を感じさせます。意識的にコントロールできない身体に気づくとき、自分の意図しないことをしてしまう自分が、チラッと意識に顔を覗かせているような気がするわけです。

 

このように、私を動かしているのは、いま意識している私とは別の何かであるかのように感じるときこそ、私たちは無意識が存在し、それ(エス)が私をコントロールしているように思えてしまうわけです。というより、私を動かしているように感じさせるものを仮に「無意識」と呼んでいる、と言ったほうがいいでしょう。

 

例えば、スポーツの訓練や車の運転も身体でおぼえている面がありますよね。この場合、自分ではそんなに注意深く意識していなくても、身体が勝手に動いてくれるわけです。習慣化してしまった行動も同じことで、ほとんど意識しないままに身体を動かしているものです。逆に「身体がいうことをきかない」ということもあります。また、「感情のコントロールがきかない」ということもありますね。いつのまにか愛してしまう、楽しいはずなのに悲しくなる、こんなとき人間は、自分の意識の奥底(外部)に無意識があると思い込むわけです。

 

意識と身体が、あるいは意識と感情が分裂しているように感じるとき、私たちはそれを無意識という概念で説明しようとします。言わばそれは、自分とは別の自分であり、意識をコントロールしている私にとっては、私でありながら私ではないものなのです。したがってそれは、私にとっての「他者性」と呼ぶこともできるでしょう。

 

人間がどのように存在しているかについて、まず気分があるのだとハイデガーは述べていますが、現象学的方法から出発した彼の実存論は、仮説を立てないで無意識的なものを考えさせてくれる一面があります。私たちは意識的に自分をコントロールできないものによって、こんな気分にさせられたり、あんな行動をとってしまったりするんだ、ほとんどの人にはそういう感じがあると思います。自発的に生きているというより、自分以外のものによって存在が規定されている、そんな直観です。これによって、「確かに無意識はある」という確信が生じているような気がします。そうした直観を理論化しようとして生じてくるのが、無意識の構造や他者の存在を強調することによって、意識中心主義的で独我論的な現象学を批判する、という考え方だと思います。しかし、この考えはフッサールの意図を理解していないような気がするのですが....。

 

さて、「無意識」という言葉が何を意味するのかを、現象学の視点から記述しようと試みましたが、まだまだ不完全な内容であることも十分自覚しています。最後は少し勝手なことを書いてしまいましたので、解りにくい記述に思えたらお許し下さい。

 

 

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