1.ユートピア幻想
人間は古来、何らかの楽園を想い描いて生きてきた。来世における幸福な生活、あるいは地上に実現される至上の楽園として、絶えずその可能性は夢見られてきたのである。そこには「死」の不安がまとわりついている。人は死の不安から埋葬を始め、「死後の永遠の生」という観念を肥大化させてきたといえる。それは、死の観念における負のイメージを、幸福な楽園という正のイメージに転換させる操作でもあるのだ。しかし、やがて宗教的な時代は終わりを告げ、近代社会が幕を開けることになる。
2.理性の挑戦
近代に入っても依然として宗教は大きな力を有していたが、死後の楽園という観念は薄れ、それに代わって現世肯定的な考え方が受け入れられてくる。資本主義の発展とともに、生きている現在を楽しみたい、より理想的な社会で生きたい、そう望むようになるのである。もはや神には頼れない。自分たちで考え、自分たちの力で理想社会を実現すること、それが新たな夢となったのだ。理性の力で真理を発見し、そこから社会がいかにあるべきかを導きだすこと。新たな理想社会の実現へ向かって、理性の挑戦が始まったのである。
3.理想の挫折とニヒリズム
デカルトからカント、ヘーゲルに至る理性の挑戦は、まさに人間の手による理想社会実現への壮大な試みであったといえる。しかし、その最後にして最大の試みと言われるマルクス主義の失敗によって、人々は深い挫折感を味わうことになる。しかも、数多くの形而上学批判によって、真理に基づいた理想社会などあり得ないことが、理論的にも証明されるに至ったのである。現在ではポストモダン的な言説が巷に溢れかえっている。ここにきて、人が絶えず求め続けてきた理想社会への夢は、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
4.理想社会の可能性を問う
しかし、理想社会を考えることが全く無駄になったとは思えない。人間が長い歴史の中で模索し続けてきたことに対し、「そんなことを考えても意味がない」と言っているだけでいいのだろうか。私見を述べるなら、飽食の時代に支持を得たポストモダニズムには、人間の欲望に対する捉え方に重大な欠落がある。欲望が他者との関係性の中で成り立っている限り、理想社会の可能性を問うことには大きな意味があるはずだ。それについて、次のことを討論したいと思う。
a.自分にとって理想社会とは何か
b.多くの人が理想社会を求めてしまうのは何故か
c.理想社会の可能性
理想社会・総括(会合感想)―――――――――――――――――――――――――――
理想社会は成り立たない。これは今や常識とも言える、聞き飽きたセリフのようにも思える。しかし、人が他者と関わりながら生きていく限り、より望ましい社会を思い描くのはごく自然なことだし、そこには深い意味があると思う。それに対して、人間の欲望を抑制するルールには何の根拠もない、そんな考え方が80年代以降は強くなっている。ようするに、絶対に正しいルールに基づいた社会は有り得ない、という諦念である。この諦念は、経済的な豊かさに支えられて「開き直り」に変質していったような気がする。そして妙に明るいポストモダニズムが流行し、欲望解放論的な考え方を流布していったわけです。でも、これは煎じ詰めるとニヒリズムにしか行き着かないのです。確かに絶対に正しいルールはないのだが、多くの人が正しいと思えるようなルールは成り立つのではないだろうか。
すでに機会あるごとに述べてきたことですが、人間の欲望は他者の欲望の模倣であり、他者から認められることが基盤となっている。だとすれば、完全な理想社会が成り立たないとしても、他者とどのような関係を結んでいくか、そこにあるルールはどのような意味を有するのかを考えることは、やはり必要なことだという気がする。正しいルールを考えなきゃいけない、というようなことではない。何かを求めて生きている限り、正しいと思えるようなルールは模索されざるを得ない、ということです。
それにしても、完全な理想社会は想像の中にしか存在しない。生理的欲求と違い、人間の欲望は幻想を追い求めるという性格を有するからだ。そして理想社会への欲望は、人間のイメージしうる最高に大きな可能性であり続けてきたのだと思う。