アイデンティティとは何か?
1.鏡の中の私
生後半年が過ぎ去った頃、赤ちゃんは鏡に映る自分の姿に興味を示し始めることになる。自分の意志の通りに動き出す奇妙な対象、それが自分自身であることに気づくとき、赤ちゃんは自分の外側に「私」を見出し、そして根本的な問いが生まれてくる。「これが私。でも、私って何だろう?」
2.「私は○○である。」
「○○」は言葉である。つまり、私が何であるのかは、言葉によって作られた摸造に過ぎないとも言える。だが、それは切実な問いである。「私は○○なんだろうか?」「いや、こんなの本当の私じゃない」「私は××のはずじゃないのか?」――そんな問いがいつまでも続く。絶えず「私」を定義し続けること、その作業に終わりはあるのだろうか?
3.「お前は○○である」――他者の囁き
自己を定義し続けることは、自分の意志で為されるとは限らない。周りの人々が「お前って、○○だよね」と言うたびにこう確信するのである。「そっか、私って○○なんだ...」。他者が「私」を規定すること、それは私にとって抜き差しならないことである。他者の評価が切実であるのは何故だろう?
アイデンティティのゆらぎ(現代社会を分析する)
4.価値観は多様化しているか?
表面的には個性尊重が叫ばれてはいるが、実状はそう単純ではない。高学歴から安定した企業へという親の欲望は子ども達にも伝染し、誰もが老後の安泰を想像しながら働き続けることになる。こうしたエスカレーター式人生の中では、「私」がどうあるべきかは確定されている。発見されるべき私は用意されているのだ。誰もがこの用意されたモデルを模倣しながら、みんな同じような私になってゆく。価値観が相対的だからこそ、私は誰もが認めてくれる私を選ぶことで安心できるのだ。
5.排除の構造――いじめ・不登校
中心的な秩序は異質なものを外部に排除することによって強固になる。かつて山口昌男はそう語った。言うまでもなく、社会秩序は共同幻想で成り立っているのだが、今日のように絶対性をもたない社会においては、この共同幻想は身近な他者によって容易に左右されることになる。「私はみんなと同じだろうか?」その不安な思いを確認し合うかのように、スケープゴートは選出されることになるのである。
6.逸脱した共同幻想――オウム真理教
ある社会秩序が強固であればあるほど、そこに所属する人間のアイデンティティは確実なものとして実感される。そのためには外部に異質なものを排除する必要性がある。オウムの人々が私たちを排除したように、私たちもオウムを排除しつつ、こっちのほうが正しいのだと確信する。ここにはアイデンティティをめぐる熾烈な争いがあるのだ。
7.アイデンティティの解体――精神分裂病
私は私らしきものへと同一化しているのだが、この同化作用が働かなくなり、逆に異化作用が生じるとき、私はこれまでの私ではなくなってしまう。薄れてゆく現実感の中で、私は自分の身体さえも私のものとは思えない。私を意味づけていたバラバラの言葉を寄せ集めながら、私は誰にも分かってもらう必要のない私になる。妄想という別世界の中で。
アイデンティティのゆくえ
8.失われた自己を求めて――自己実現への道
「自己実現」という言葉が、心理療法や自己啓発セミナー等で耳にされるようになって久しいが、この言葉には様々な意味が含まれている。ようするにアイデンティティを確立し、その同一化した自己に満足できる自分になることだと言えるのだが、しばしば「本当の自己の発見」という意味にも用いられ、それ自体が目的化されている。
9.無我の境地
自己実現が目的化されるとき、私たちの欲望は理想化された私へと突き進む。だが、本当の自分などあるのだろうか? つかまえた瞬間に失われてゆくもの、それが理想の正体なのかもしれない。ならば自我の欲望を捨て去り、いっそ悟りの道にでも進むべきだろうか?しかし、そこにもまた「悟った私」という理想像が座を占めており、それを欲望している自分に気づかされる。
10.アイデンティティをめぐる欲望
絶対的な価値のない現代社会においては、それこそ多様なアイデンティティ・ゲームが営まれる。「本当の私」という幻影が人生の行く手に揺らめく限り、私たちのゲームに終わりはない。それでも求めてしまうのは何故だろう? そこに人間の欲望の謎が見え隠れしているように思える。
アイデンティティの欲望・総括(会合感想)――――――――――――――――――――
アイデンティティとは同一性のことですが、何に同一化するのかといえば、「私らしきもののイメージ」に同一化するわけです。ようするにアイデンティティを求めることは、自分についての物語を作ることでもあるわけですから、「私は○○であり、××である」というような言葉を塗り重ねてゆくことになるのです。ところが、アイデンティティの確立があたかも「本当の私」を発見することであるかのような謬見も多く、真の自己の発見や自己実現を声高に掲げるセミナー、カウンセリング、心理療法が罷り通っているという現状があります。もちろん「本当の私」というものは存在せず、幻想に過ぎません。では、どうして「本当の私」が求められているのでしょうか。少し順を追って私見を述べます。
自我は自己イメージを言葉で規定したものだと述べましたが、誰もがこの自己イメージに同一化しつつ生きています。この自己イメージは、現に自分のあるがままの姿として意識されているわけですが、このイメージは二つのズレをともなっています。一つは周りの人間が評価している客観的な私とのズレ、もう一つは、こうありたいという理想的な自己イメージとのズレです。
前者のズレが大きくなると精神障害になる危険性があります。たとえば自己イメージが過度に肥大化すれば、自己愛障害というナルチシズムの病に向かうでしょう。逆に自己イメージが崩れると精神分裂病へと向かいます。(これは、自己イメージを取り去れば本当の私が発見できるという謬説と正反対な理論です)。この両極端な方向から逃れるためには、自己イメージが周りの人たちの評価に近い姿で認識される必要があるわけです。
では客観的にみられた私とは何か? それは、その社会に共有されている言葉の秩序によって作り上げられた、いわば共同幻想なのです。私たちが現実を生きるためには、この共同幻想に加わっている必要があるわけです。この場合、今度は理想的な私とのズレが問題になります。つまり、その社会の共同幻想において認められる人間像に、どこまで近づけるかということが重要になるわけです。例えば、宗教的な価値観が社会を律している場合、神によって方向づけられた規範が絶対的なわけですから、その規範に照らしたときに評価されるような役割を引き受けることが、その社会におけるアイデンティティの確立ということになるのです。
ところが今日の社会においては、絶対的な価値観が消失してしまっています。つまり、自分がどうあるべきかは「自分で決めろ」というわけです。まあ、あたり前といえばあたり前なんですが、実際にはなかなか簡単なことではありません。何故なら、人間は自分が存在していることに絶対的な意味づけを求めますから、自分の思い描く理想的自己のイメージが、単に自分だけの理想であることに不安を感じます。誰もが理想とするような、誰もが認めてくれるような、そんな理想像が求められるわけです。そこで、神に代わる絶対的なものが必要とされることになり、「本当の私」なる神話が生まれてきたのではないか、というわけです。
しかし「本当の私」とは、もともと西欧の近代社会が生み出した理想的自我のなれの果てなのです。絶対的な中心(例えば神)を欠いた日本の社会では、自我のモデルとなるのは絶対的な理想像ではなく、身近な他者であったともいわれます。特に高度消費社会に移ってからは、この傾向は加速化されたような気がしますが...。おそらくマスメディアの流す過剰なイメージが、他者を模倣する欲望に拍車をかけているのでしょう。もしそうなら、本当の私という仮説に基づいた心の治療方法が、はたして日本人に有効性があるのかどうかさえ疑問に思うべきなのです。
他者の自我をモデルとして自己イメージが作られるなら、他者が求めるものを求めることになる。欲望は他者の欲望の模倣である、とジラールも述べていたと思います。絶対性を欠く他者という存在に翻弄されている日本人、そこに私たちのアイデンティティのゆくえが見え隠れしているような気がします。