1. 近代哲学の壮大な夢
かつて私たちには大きな夢があった。いつか理性の力が真理を発掘し、世界の真の姿が認識される夢、そして真実の世界が現われ、理想的な社会が実現する夢である。しかし、デカルトやヘーゲルが夢見た世界認識の完成は、マルクスを最後に完全に潰えたかに見える。言葉によって語られる現実は、すでに言葉によって作られた現実である。そんな論理を待つまでもなく、マルクス主義の没落とともに夢は霧散していったのかもしれない。
2.ポストモダンと形而上学批判
70年代後半以降、ポストモダニズムの難解な哲学用語が怒濤のようにフランスから流入し、複雑怪奇な日本語と化して巷に氾濫し始めた。デリダの脱構築、ゲーデルの不完全性定理等々、認識の不可能性を暴き出す理論が街中で語られ、長きに渡る形而上学の歴史に完全な終止符が打たれたかに見えた。もちろん、形而上学批判(近代哲学の夢が実現不可能であるという批判)は、すでにニーチェやソシュール、フッサールによって示唆されていたのだが...。
3.明るいニヒリズム?
夢の実現が不可能であることを悟っても、私たちは生きることに失望したわけではなかった。マルクス主義的な理想社会が実現不可能であるとしても、豊かな資本主義社会に生きる私たちにとって、特に問題もないと感じるのも無理はない。むしろ便利な生活と豊富な物に満ち溢れた今の生活のほうが大切に決まっている。欲望を満たしてくれる資本主義社会、それが欲望を増幅させる高度消費社会でもあることを、私たちはどうしても忘れがちになる。豊かである、という生活の実感が、陰鬱なニヒリズムを明るいムードに変えてしまったのかもしれない。では90年代以降、時代はそのまま変わらずに継続しているだろうか?
【予備考察】ポスト構造主義者としての浅田彰と中沢新一
ドゥルーズを援用しながら軽やかに「逃走」を主張した浅田彰だったが、煎じ詰めれば分裂病という狂気に至るしかない。かといってチベットへ行って悟りの道を歩むつもりもない。そもそも浅田や中沢の主張したこととは何だったのだろうか? それを私なりに単純化して言うなら「既成の秩序の解体」ということだったと思う。そのことは形而上学的な秩序の解体という意味を含んでいるわけだが、秩序の解体された状態を理想化している面もあり、屈折した形而上学と言えなくもない。結局、これらの思想は形而上学的な問題設定の中で思考されたものではないだろうか。