会合日時:1997年5月 日

 

レジメ担当者:山竹

 

 

夢について考えるためには、二つの方向性があると思います。一つは無意識を仮定して外部から考えること。そしてもう一つは意識の内部から考えることです。「夢は無意識のイメージによって構成されている」という考え方は深層心理学の見解ですが、現在ではほとんどの人がこの考えに賛意を表するでしょう。そこで、まず夢と無意識の関係について、ユングとフロイトの夢分析を通して考えてみましょう。その後で夢を意識の内面から再考し、夢とは何かを探ってみることにしましょう。

 

ユングの夢分析

 

ユングは個人の無意識のさらに奥に集合的無意識の存在を仮定します。集合的無意識は人類に共通の経験を継承するものであり、そこには共通のパターンが存在する。これが元型という、ユング理論の最重要概念です。元型が人類に普遍的なイメージを喚起するのだとすれば、全く交渉のなかったはずの世界各地の神話が何故類似しているのか、その説明が可能となります。さらには、夢が全く読んだこともない神話と同じ内容であるケースが多く報告されていますが、これは現代の日本の子供たちにも、例えば古代のエジプトの人々と共通の元型を持っているわけですから、同じようなイメージに形成されてゆくのは当然だということになるのです。(余談ですが、この種の夢は、よく転生輪廻の考え方に結びつけられます。古代エジプト人の生まれ変わりではないか、と。)

 

結局、元型が様々なイメージとなって夢に出現するのは、意識にメッセージを送り、意識の発展と安定化を図るためなのです。したがって、ユングは夢を見た人と共同で夢について話し合い、主観的な連想や解釈によって再構成し、神話・伝説・宗教的儀式の理論等をも援用していきました。この方法は拡充法と呼ばれ、夢の意味を普遍的レベルへ拡張するやり方です。夢は単なる欲望の表現ではなく、危険を知らせたり、予知することもあり、自我がより高次の自己を実現するために手助けしてくれるものなのです。

 

フロイトの夢分析

 

フロイトの精神分析理論では、夢は抑圧された願望を満たすものです。幼児期に満たされなかった欲望は無意識に抑圧され、その欲望を満たそうと意識の上に出てこようとするのです。しかし抑圧された欲望は、考えたくない、考えることが辛いからこそ、無意識に抑圧されたわけですから、その欲望がはっきりした形で意識されることは大きな危険を伴います。何故なら、それは思い出したくないことだからです。したがって欲望は、露骨な欲望の表現として顕れないように偽装されて夢になります。この偽装作業を「検閲」といいます。検閲は欲望されているものを加工し、歪曲して夢を作り出すのです。検閲には一次加工と二次加工の二つがあり、この作業を通して夢が作られるわけです。

 

まず夢の材料として使われるのは、夢を見る前日や当日の昼に経験した諸々の出来事です。例えばA君に会っていたなら、夢にA君が出てくるかもしれません。しかしA君は必ずしも夢の意味する欲望とは関係なかったりするわけです。本当の欲望の問題に関係のある人物はBさんやC先生であったとします。この場合、夢には登場しないBさんやC先生の二人が、A君という一人の人物に偽装されて登場している可能性があるわけです。このように複数のものが一つのもので表されたりすることを「圧縮」と言います。また、友達であるはずのA君が兄として登場していたら、これは「置き換え」が行われたのです。「置き換え」は中心テーマを移動させる作業でもあります。例えば派手な夢の内容を思い出すと、この派手な騒動の中に問題の焦点が潜んでいる、と思いがちですが、実はそのドタバタ騒動の中で、特に夢の意味とは関係なさそうなちょっとした出来事も含まれていた場合、その出来事にこそ問題の核心が潜んでいることがあるわけです。それは露骨に欲望を露にしないよう、目立たないように偽装されているのです。こうした「圧縮」と「置き換え」等の作業を「一次加工」と言います。こうして夢の材料が加工されたら、次はこれを筋の通ったストーリーに作り上げ、夢が完成するわけです。この作業が「二次加工」です。こうして作られた夢の内容(顕在夢)は、無意識にあった潜在思考が偽装されて現れたものであり、夢分析はこの潜在思考を明らかにすることなのです。分析の方法は、夢に現れた各要素ごとに、夢を見た人が自由連想を行い、その意味を辿ってゆくやり方です。

 

表象としての夢

 

夢や幻覚が心の中に生じるイメージのように捉えられ、覚醒した日常意識は客観的に実在する外部の世界を知覚している、というのが私たちの常識的考え方です。しかし、外部の客観的世界が実在するという保証は、実は何処にもありません。知覚された世界も、想像した世界も、そして夢の世界もまた、同じように表象としての世界だと考えられます。言い換えるなら、全ては意識というスクリーンに映じられた、多様な映像のようなものだと考えられるわけです。だとすれば、夢と現実の境界は何処にあるのでしょうか? 荘子の言葉に次のようなものがあります。

 

「むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。」(『荘子』)

 

「夢」総括(会合感想)―――――――――――――――――――――――――――――

 

誰もが夢をみるし、その都度、様々な感情に大きく揺さぶられる経験をします。その感情があまりにも揺るぎないものに思われるので、夢に関する理論も単に論理だけを聞いても釈然としない、ということになるのではないでしょうか。特にフロイトの理論は、夢は抑圧された欲望を満たすもの、というような夢も希望もないような理論です。これがユングなら、夢はもっと豊かな創造性に満ちたもの、ということになるので、何だかイメージするだけでワクワクしそうですよね。まさに、夢のような理論なのです。

 

しかし実際には、ユングの夢理論には多くの矛盾があります。そもそも個人の無意識を超えた集合的無意識を想定し、そこに元型があるとする考え方自体に無理があるのです。私はこれまでにも繰り返し形而上学批判を試みてきたつもりですが、元型もまた形而上学的な概念なのです。また、集合的無意識という概念も絶対に証明できないものです。もちろん、フロイトの無意識も証明できないわけですが、こちらのほうは全く別の意義を持っています。

 

例えば、夢を意識から内省して考えてみた場合はどうなるでしょうか?これは現象学的な考え方とも言えるでしょうから、ユングの集合的無意識もフロイトの無意識も、どちらも仮説以上のものではないことになります。しかし、意識から内省したときにも、自分の思惑を超えて現れる非知のものがある。それは、自分でも思ってもみなかった自分自身の欲望だったりするわけです。その代表的なものが夢だとフロイトは考えます。つまり、フロイトの無意識が仮説だとしても、それは意識の内省からもたらされる概念だと、私は考えています。

 

では、実際のフロイトの夢分析はどこまで理にかなったものなのでしょうか?おそらくラカンの理論がこの問題に多くの示唆を与えてくれるでしょう。彼はソシュールの言語理論を精神分析に応用し、フロイトの語った「圧縮」と「置き換え」が、メタファーとメトニミーであることを明らかにしました。イメージとしての夢を言語学によって読み解くこと、その可能性はまだ模索されている途上なのだといえるでしょう。

 

 

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