『論理哲学論考』
『論考』は大別すれば「写像理論」と「真理函数論」の二つから成り立っている。
*写像理論
ウィトゲンシュタインがここで想定した「言語」とは、現実の日常言語ではなく、言語の底に横たわっているとされた論理的構造、論理的構文論であり、直接には記号論理学の言語(Logish)である。「命題」は「世界」における「事実」を表わす。(⇒4.5、5.471)ゆえに、「命題」は「事実」を写したもの、写像である。それら「命題」の総体が「言語」である。よって、「言語」と「世界」(全ての実在するもの)は写像関係にある。「実在」と「言語」は写像関係にあり、同一の論理形式を持つ。ゆえに「実在」と「言語」は一対一対応の関係にあるといえる。
*真理函数論⇒4.5、5.471、6、6.001
『哲学探究』
*言語ゲーム
後期の、生活にそくした日常言語を研究の対象としたウィトゲンシュタインは、その「言語」を「言語ゲーム」として捉える。その際考えられている「言語」も「言語ゲーム」も、『探究』の中でさえも統一されていないので、彼の真意ははっきりとは
しない。ただいえるのは、日常的な言語の中に、・(いかに説明する)家族的類似性を見ること、・それを学習、もしくは使用する過程において、非常にゲーム的な作業が行われていること、を指摘することによって、言語は日常生活においてのその語の用法を考察しない限り語りえない、とウィトゲンシュタインは主張したかったということだろう。
*家族的類似性
一つの家族の構成員を並ばせたとする。兄弟同士、姉妹同士、そして子供とその両親は、どことなく互いに似通って見える。しかしその全員の顔に共通する要素はない。ウィトゲンシュタインは、言語の中にはその言語全てを統治する論理体系がある(論理学のように一つの基本式が全ての例に当てはめられる)、とするそれまでの論理学中心の言語論に対し、家族的類似性のように、一つ以上の要素がいくつかの事例に見い出せるということが多数起こっている状態に言語がある、と論じた。
*私的言語の可能性の否定(「痛み」の文法)
自分の内的体験(感情、感覚)をあらわす言葉を自分で作り、自分だけで使用することは可能か?
デカルト以降の近代哲学においては、外的な事物には名前が与えられ(たとえば、つぼには「つぼ」という名前が与えられる)その言語の使用者が同じく言葉の意味を理解できる、言葉の意味をシェアするのに対し、内的な事柄に関しては、個人の感覚はその個人のみのものであり、同じようにシェア出来るとは云えない、とされてきた。極論を云えば、Aさんが「赤」と云う言葉で指されているものを見ているとき、それはBさんが「緑」と云う言葉で指されているものを見ているのと同じ状態にいるのかもしれない(ロック)、と云えるのである。
が、重要なのは、私的経験そのものではない。ウィトゲンシュタインが問題にしたのは、その私的経験を語れるか、と云うことだった。ここでウィトゲンシュタインは「痛み」に関する表現について考える。
・私は痛みを感じている
・彼は痛みを感じている
・χは痛みを感じている
通常、・と・の文は表層文法において同じ形式を持ち、それらは・の命題関数として表わされる。(χにおいて主語が入れ替え可能)が、ウィトゲンシュタインは、・と・にはその用法に決定的な違いがある、とする。・が、痛みに関する記述である(彼が頬を押さえながらしかめ面をしているのを見て、彼の虫歯が痛んでいるのだ、と判断する)のに対して、・は痛みの表出である。・は、記述であるから、「彼は痛みを感じているのか、いないのか」という問いに対して「いる」もしくは「いない」と答えることができる。そしてその答えが真か偽かは、現実と照らし合わせることによって判断できる。が、・は痛みの表出であるから、それに対して「私は痛みを感じているのか、いないのか」と尋ねることは無意義である。ゆえに・と・は違った文法を持っているのである。なぜこのようなことがおこるのか。それは「痛みを感じている」という述部が、内的体験、私的な感覚予件の述部だからである。痛みや感情のような経験はそれ自体に私的な要素が含まれる。他人の痛みを経験することはできない。ゆえにそれらの経験には外的な基準がない。よって外的基準を持ちえない・は記述文(真偽が判定可能な文)とはなりえないのである。このように内的感覚に関する文が記述文になりえない以上、私的言語はその用法において、意義を持ちえない。それは、私的言語の使用の際において、それがなんであるか、と説明するには既存の言語をを使わなければできないからであり、それをしない場合私的言語は「機械とつながらずにひとりで回っている歯車」になってしまうのである。
『論理哲学論考』(抜粋)
構成(章立て)
1 世界は成り立っている事柄の全てである。
2 成り立っていること、つまり事実とは諸事態の存立である。
3 事実の論理像が思想である。
4 思想とは有意味な命題のことである。
5 命題は要素命題の真理函数である。
6 真理函数の一般形式は、[Ρ、ζ、Ν(ζ)]である。
7 語り得ないことについては、沈黙しなければならない。
1 世界は、実際に生起することのすべてである。
1.1 世界は事実の総体であって、物の総体ではない。
1.11 世界は諸事実によって、さらにそれらが事実のすべてであることによって、決定されている。
1.13 論理空間のうちにある諸事実が世界である。
2 現実に生起すること、すなわち事実とは、諸事態の存立である。
2.01 事態とは諸対象(事物)の結合である。
2.011 或る事態の構成要素になりうるということが、物にとって本質的なことである。
2.012 論理においては何事も偶然的ではない。物が或る事態の中に現われうる
ならば、その事態の可能性は、物においてあらかじめ決定されていなければならない。
(像)
2.1 我々が事実の像を作る。
2.12 像は現実のモデルである。
2.14 像は、その要素が特定の様式で相互に関連することによって成立している。
2.141 像は一つの事実である。
2.15 像の要素が特定の様式で相互に関連していることが、事物がそれと同じ様式で相互に関連していることを表わす。像の諸要素の子の連関を像の構造と呼び、構造の可能性を像の写像形式と呼ぶ。
2.181 写像の形式が論理形式であるとき、像は論理像と呼ばれる。
2.19 論理像は世界を写すことができる。
2.21 像は現実と一致するかしないかである。像は正しいか正しくないかであり、真か偽かである。
3 事実の論理像が思想である。
3.001 「或る事態が思考可能である」とは、我々がその事態の像を作りうるということである。
4 思想とは有意義な命題のことである。
4.001 命題の総体が言語である。
4.002 個々の言葉がいかに、また何を意味するかを全く知らないでも、あらゆる意義を表現できるような言語を構成する能力が、人間には具わっている。これは、個々の音声がどうして発せられるかを知らずに我々が話しているのと同様である。日常言語は人間という有機体の一部であって、これに劣らず複雑である。日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能である。言語は思想に変装を施す。すなわち、衣装の表面的な形式から、装われた思想の形式へ推論することはできない。衣装の外形は肉体の形を認識させるのとは全く異なる目的に合わせて整えられているからである。日常言語の理解のための暗黙の約定は複雑をきわめている。
4.003 哲学的な事柄についてこれまで書かれてきた命題や問いは概ね、偽ではなく無意義なのである。それゆえ我々がこの手の問いに答えることは全く不可能であり、問いの無意義さを確認することしかできない。哲学者たちの立てる命題や問いの大部分は、我々の言語の論理が理解されていないことから生じている。(それらは、善は美とどの程度同一か、と言った類の問いである。)最深の問題が、実は全く問題ではないということも、驚くにはあたらない。
4.5 (……)命題の一般形式はコレコレはカクカクシカジカである。
5.471 命題の一般形式は命題の本質である。
5.6 私の言語の限界が、わたしの世界の限界を意味する。
5.61 論理はあまねく世界に行きわたっている。世界の限界は論理の限界でもある。したがってわれわれは、論理の内部で、世界にはこれこれが存在するがあれは存在しない、と語ることはできない。つまり、こう語ることはある種の可能性の排除を前提するように見える。ところが、この排除は、じつはありえないことである。なぜなら、そのためには論理は世界の限界を越えていなければならない。それは論理がこの限界を反対の側からも考察できる、という場合のことであろうから。我々は考えられないことを考えることはできない。我々はまた、考えられないことを語ることもできない。
5.62 右の考察は、独我論はどの程度まで真理であるか、という問題を決する鍵を与える。すなわち、独我論が言わんとすることは全く正しい。ただしそれらは語られることではなく、おのずから示されることなのである。世界が私の世界であることは、この言語(わたしが理解している唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することのうちに示されることなのである。
5.63 私は私の世界である(ミクロコスモス)。
5.632 主観は世界に属してはいない。それは世界の限界である。
5.633 世界のどこに形而上学的な主観を認めうるか。それは眼と視野の関係に全く等しい。と君は言うであろう。だが君は、本当は眼を見てはいない。また視野に属する何ものからも、それが眼によって見られていることは推論できない。
5.634 このことは、われわれの経験はどの部分をとってもアプリオリではない、ということと関連している。我々が見ることはすべて、別のようでもありうる。およそ我々に記述できることは、みな別のようでもありうる。ものにはアプリオリな秩序は存在しない。
5.64 以上によって、独我論が徹底されれば純然たる実在論に帰着することが分かる。独我論の自我は延長をもたない一点に収縮し、残るのはこれと相関する実在だけとなる。
5.641 したがって哲学が、心理学とは違った仕方で自我の問題を論及することにも、たしかに意義がある。「世界は私の世界である」という命題を通して自我は哲学の中に入ってくる。哲学的な自我は人間でも、人間の身体でも、心理学の扱う人間の霊魂でもなく、形而上学的な主観であり、世界の――一部ではなく――限界である。
6 真理函数の一般形式は、[Ρ、ζ、Ν(ζ)]である。
6.001 これは、いかなる命題も要素命題にΝ(ζ)という操作を順次加えた成果なのである、という事を言っていることに他ならない。
6.1 論理の命題は同語反復命題である。
6.11 したがって論理の命題は何も語らない(それらは分析的命題である)。
6.111 論理の命題が内容を持つかのように見せかける理論は、つねに誤っている。例えば、「真」「偽」という語は他の諸性質と並ぶ二つの性質を表示する、と信じる人があるかもしれない。すると、どの命題も二つの性質のいずれかを持つということが、いかにも注目すべき事実であると思われてくる。こうなると、「あらゆるバラは黄色か赤である」という命題が、たとい真であっても自明とは受け取れないのと同時に、どの命題も真偽いずれかであるということも、もはや自明とは見なされない。この命題は、いまや完全に自然科学的な命題の性格を帯びるのであり、それこそはこの論理命題の把握が誤っていたことの動かぬ証拠なのである。
6.113 論理の命題が真であることはシンボルだけから認識できる。この事が論理命題の際立った特徴である。そしてこの事実のうちに、論理に関する哲学のすべてが含まれている。一方、論理に属さない命題の真偽は命題だけからは認識できない。これまたきわめて重要な事実の一つである。
7 語りえないことについては、沈黙しなければならない。