会合日時:1997年 3月 日

 

レジメ担当者:山竹

 

妄想と悟り- ベイトソンと考える -

 

1.ダブル・バインド理論

 

子供を愛していない母親は、そのことに気づいていない場合がある。自分は子供を愛しているはずだと信じているので、子供への敵意は無意識に抑圧されているのである。この母親が子供に対し、腕を広げて抱きしめようとしたらどうなるだろう。子供は、母親の愛情に喜びながら、無心に母親に抱きつこうと駆け寄るだろう。しかし母親は子供の無邪気な愛情表現に不安と戸惑いを感じて、ほんの一瞬、身を引くのである。それを敏感に感じとった子供は、駆け寄ろうとした足を止めて母親の顔色を窺う。自分の無意識の敵意を知らない母親はその様子を見て、「どうしてママにキスをしてくれないの?」と子供に問いかける。それは、「ママはこんなにもおまえを愛しているのに、おまえはママを愛してくれないの?ママがおまえのことを嫌っているとでも思ったの?」という意味が裏にあり、子供を責め立てるようなメッセージが含まれているのである。

 

こうした状況の中で、子供はどう反応していいのか分からなくなるのだ。母親に抱きついてキスをすれば、愛してもいない子供に抱きつかれた母親は不安を感じる。それを敏感に感じ取った子供は、抱きつけば母親に嫌われるのだと判断する。しかし、抱きつかなければ、「ママのことが嫌いなの?」と責められ、やはり嫌われる。このように、子供はどちらを選んでも嫌われる状況に立たされるのである。こうした状況を、ベイトソンはダブル・バインド(二重拘束)状況と呼んでいる。否定的な命令と矛盾する第2の命令が最初とは異なる水準で出され、そしてこれらの命令から逃げてはならない、という第3の命令が出される状況である。

 

2.妄想

 

ダブル・バインド状況が積み重なれば、その子は正確にコミュニケーションのメッセージを把握することが難しくなる。世界は矛盾に満ちたものとして感じられ、周囲の人々の言動が不可解なものとなるのだ。例えば、母親がにこにこしながらコーヒーを入れてくれたとする。しかし、彼には母親の真意が分からない。自分を愛していない人物が、自分に愛情を込めてコーヒーを入れるなんて、そんなことがあり得るだろうか? そこで様々な理由を考え始める。ふと、「毒」という言葉が頭に浮かんでくる。――もし自分が存在しないことを母が望んでいるなら、母の微笑みが意味するものは...。

 

その日から、周囲の全ての人々が自分を殺そうとしているのだと思えてくる。しかしまだ謎は残っている。何故自分が殺されねばならないのか、ということである。そのことを考えたとき、自分が重大な意味を持つ存在だからだと思い始める。類いまれな重要人物、あらゆる人々のために死ななければならない存在...。そう感じ始めたとき、彼は一つの重大な結論に達する。「自分はイエス・キリストであり、あらゆる人々のために罪をあがなわねばならないのだ」と...。

 

分裂病者にとっては、本来は一つの意味で確定されているはずのものが、複数の意味によって取り巻かれている。それは謎の事物、真の意味が隠されたものとして現われるのだ。そこで多数の意味から適当な答を見つけ出し、納得できるような自己流の意味づけをするのである。これが分裂病者の妄想である。

 

3.悟りの世界?

 

禅師は様々のやり方で弟子たちに悟りを開かせようとする。彼の行なうことのひとつにこういうのがある ――弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調で「もしこの棒が実在のものだと言うなら、これでお前を打つ。実在のものでないと言うなら、お前を打つ。何も言わないなら、お前を打つ」と言うのである。精神分裂病患者は絶えずこの弟子と同じ状況に身を置いているように考えられるが、しかし彼が到達するのは悟りというより、失見当識といったものである。(G・ベイトソン『精神の生態学』より抜粋)

 

私たちの日常生活は、常識という他者と共有する知識が不可欠であり、安心感はそこに初めて成り立つものだ。それはコミュニケーションによって構造化される心の秩序であり、他者と共同で作り上げた幻想なのである。禅の悟りは、こうした秩序の虚偽をあばき、その奥に隠された真の世界、何の意味づけもされていない世界を見ようとする。では、共同幻想の成り立っていない分裂病者と、悟りの状態はどう違うのだろうか?

 

妄想と悟り・総括(会合後の感想)――――――――――――――――――――――――

 

「妄想と悟り」という実際は複雑な議論が錯綜している領域を、かなり強引に単純化してみようと思いました。ここで問題の核心を簡潔に記述してみようと思います。

 

1.私たちの見ている世界は、世界のありのままではない。

 

もともと人間の感覚器官は限定されたものであり、他の動物とは全然違った世界を見ています。しかし、それだけではないのです。例えば目の前のコップを見るとき、それが「コップ」という言葉で呼ばれ、「水を飲むための物」という意味を感じ取ることができるでしょう。状況によっては、「投げつけるための凶器」という意味を持った物として現れることもある。このように、私たちの見ている世界、感じている世界は、必ず何らかの意味として現れているはずです。そして、その意味を生み出しているものこそ言葉なのです。いわば私たちは、言葉の秩序という色眼鏡を通して世界を見ているわけです。

 

2.この言葉の秩序(色眼鏡)は、周りの人たちとほぼ同じものである。

 

何故なら、私たちは生まれたときから「コップ」という言葉を知っていたわけではありません。他の人が<それ>を「コップ」と呼んでいたからこそ、私たちの心の中に「コップ」という言葉が意味を持つようになったのです。他の人たちとコミュニケーションを重ねてゆく中で、他の人たちの言葉の使い方を模倣し、私たちは言葉の複雑な秩序を作り上げてきたわけです。したがって当然、私たちの心の中には他の人たちとほぼ同じような言葉の秩序が成り立っているわけです。だからこそ、同じように「ありのままではない世界」を見ながら、コミュニケーションができるわけです。世界中の人たちが黒いサングラスを掛けて世界を見ているとすれば、「世界って薄暗いね」「ほんと、ほんと」というような会話は、実に自然に成り立つのですから。

 

3.ダブル・バインド状況が続くと、他の人達と同じような言葉の秩序を作れない。

 

よほど奇妙なコミュニケーションでもない限り、<それ>が「コップ」であり、「水を飲むための物」である、という字義通りの意味を把握する言葉の秩序は成り立ちます。しかし、私たちの実際の生活においては、こうした通念の秩序だけでは足りないのです。敵が襲ってきた状況であれば、コップは「投げつけるための凶器」としての意味を持ち、即座に相手に投げつけるはずです。つまり、状況に応じて意味は変わるのであり、辞書的な意味の把握だけではだめなのです。その場その場での変転する意味をつかまなければならない。そして、このような状況に応じた意味の把握を不可能にするものこそ、ダブル・バインド状況なのです。結局、ダブル・バインド状況が度重なれば、言葉の秩序は不完全にしか形成されないわけです。

 

4.不完全な秩序を別な秩序(妄想)によって補う作業。

 

言葉の秩序が不完全であれば、当然、世界は他の人たちと違った様子になってしまいます。ようするにこれは、はっきりと見えない色眼鏡を掛けていることになるので、世界がどんな感じなのかを言葉で表現することが難しくなるのです。さっきのサングラスの人たちの会話は、当然不可解に思えることでしょう。そこで別のサングラスを作り出すことになる。しかしそれは他の人たちと同じサングラスにはならないのです。例えば黄色のサングラスを作り出して世界を見るので、「世界は黄色い」と主張し始め、黒いサングラスの人たちは怪訝な顔で、「何を言ってるんだこいつ」ということになる。これが妄想です。ようするに、妄想はコミュニケーションを通さないで作られた、その人独自の言葉の秩序なのです。

 

5.でもそれじゃ、黒いサングラスの人たち(私たち)だって、ありのままの世界を見て

  ないんだし、結局は共同で見ている幻想なんじゃないか?

 

という発想に基づいて考えると、全ての色眼鏡(サングラス)を取ってしまえば、世界のありままの姿が見えるはずだ、ということになる。言葉に惑わされない純粋な世界、それが見えたとき悟りは得られる、と。しかし、それはすでに言葉の世界に生きている私たちには、想像することしかできない別の幻想のようにも思えます。そもそも、私たちの意識の外側に「ありのままの真実の世界がある」という発想(形而上学的発想)自体に矛盾があるのですから。結局、悟り求めることは、悟った完全な自己像への欲望に繋がりがちだし、例え本当に悟りなるものがあるとしても、それを他の人たちと分かち合うことはできないことになる。その意味で、むしろ共同幻想であろうと、コミュニケーションのより大きな可能性を求めてゆくほうが望ましいと思うのです。

 

 

戻る