例えば目の前にリンゴがあるとする。「わあ、おいしそうなリンゴだ」と隣にいた人が嬉しそうに語る。それに対して私は「おいしそう、て何のこと?」と言う。「そりゃこのリンゴのことに決まってるだろう」と、彼は少し訝かった様子で言い返す。「リンゴ、て何……?」と、私はまた訊ねる。少々苛立ちながら「リンゴはリンゴだ、」と、彼。私がさらに「それどういうこと?」と言えば、「いい加減にしてくれ、」と彼は怒って帰ってしまうだろう。
「リンゴ」は「リンゴ」であり、「おいしそう」は「おいしそう」である。それ以上の説明が一体必要だと言うのだろうか? 勿論、日常の生活では問い返す必要のないあたり前のことである。確かに私も幼い頃は、何故「リンゴ」が「リンゴ」なのかを知らなかった。他の人達がリンゴを指して、「リンゴ」と呼んでいたからこそ、私はそれをリンゴとして認識できるようになったのだ。現実のリンゴを表現するために「リンゴ」という言葉を知ったのではない。「リンゴ」という言葉がリンゴの存在を現実的なものに作り上げているのである。
このような会話がスムーズに進むためには、話の中の個々の意味だけでなく、会話そのものに対する意味を相手と共有している必要がある。会話において重要なのは、語ったとおりの言葉の意味以上に、それが如何なる状況で語られているのか、ということなのだ。この他者と共有された意味こそ、日常の現実感を生み出しているのである。もし、自分の感じている意味と、他者の感じている意味に食い違いが生じれば、そこに現実の裂け目が見え隠れするのだ。エスノメソドロジーの提唱者であるガーフィンケルは、このリンゴの会話のような試みを学生達に実践させ、「あたり前」だと思い込んでいる日常の現実が、実は大変あやふやなものであることを認識させようとしたわけだ。
【予備考察】
1.もともと「他者とのコミュニケーションが現実を構成する」という考え方は、シュッツの現象学的社会学に始まっている。シュッツは他者と共同で作り上げた日常世界を素晴らしいものだと考えたわけだが、彼の弟子、ガーフィンケルは、この日常世界以外にも様々な現実の可能性があり、その多様性こそ素晴らしいのだと考えたのである。シュッツが言うほど「いま、ここ」にある現実が素晴らしいとは思わないが、ガーフィンケルの言う別の現実の可能性も、可能性だけなら魅力的であるが、実際に「いま、ここ」に成り立っている現実を崩すのも、ちょっと怖いところだ。
2.エスノメソドロジーは「いま、ここ」での会話の状況的意味を、共同主観性の視点から分析している点では大変優れているが、リンゴのような個物の認識については、共同主観性だけから説明するのは無理がある。それはリンゴという名前が与えられる前の「もの」が、客観的現実として存在する可能性を留保したままにしているからだ。したがって、フッサール現象学の本質直観についても言及する必要があるだろう。