会合日時:1996年10月 日

 

レジメ担当者:山竹

 

心理学の可能性

 

一般的に心理学は、もともと哲学で扱われる精神的領域として、物理学その他の自然科学からは区別され、そのため科学としては遅れをとったのだと信じられている。デカルトとニュートンの登場以来、自然はわれわれの目の前にその壮大な秩序を露にしているはずであり、その秩序を実験・観察を繰り返しながら計量化することによって、やがて完全な世界秩序の全貌が明らかにされるのだと、近代科学の神話は語る。自然科学の各領域は、来たるべき科学全盛の未来に向けて、各々の分に応じた研究を重ねることで秩序の解明に寄与しようとしたのである。

 

遅れ馳せながらこの自然科学の探求に参加を表明した心理学は、19世紀末、ヴントが実験室で人間の精神を扱おうとし始めたときから哲学と訣別し、この精神の法則を客観的な世界秩序の一部として位置づけてゆくこととなる。精神と密接に関連する生理的現象を計測し、人間の心理を計量化する試みが始められたのである。当時、パブロフの条件反射説が提起されたことによって、人間の行動を「刺激」と「反応」という図式に還元した考え方が有力になりつつあった。与えられる刺激によって反応を予測し、ひいてはその複合的反応ともいえる行動の予測を可能とする。つまり人間の行動は様々な環境要因に還元して考えることができるという還元主義的な発想である。その代表がワトソンの行動主義であり、彼は意識体験を非科学的な主観的体験として排し、心理学を厳密な行動科学とすることで近代自然科学の正当な仲間入りを表明しようとしたのだ。当時、ウィリアム・ジェイムズらのように意識体験を重視した立場もあったのだが、行動主義はそうした心の内世界からのアプローチと決別し、実験科学としての礎を築いたのである。

 

その後、ハルやトールマンらによって「刺激(S)-反応(R)」という図式に生活体(O)の中の諸要因を考慮に入れる必要性が叫ばれ、「S-生体(O)-R」という図式に修正されることになる。外界の刺激を感覚器官を通じて受容し、受容したものによって人間の生体に変化が起きる。どの様な変化であるのかは、頭に電極を付けたり、脈搏、発汗などを調べることによって計量化することはできるのだし、その限りでは、人間の心の変容を推測することは不可能ではない。外的な刺激の生み出す人間の生理的反応の解明が進むほど、その複合的な行動の謎も解き明かされるのだと考えるのも道理なのである。

 

こうした還元主義に対して、ヴェルトハイマー、ケーラー、コフカを中心としたゲシュタルト学派は、知覚された世界が要素に還元しては捉えきれないことを発見し、後の認知心理学におけるシステム論的パラダイムの源流となる。それは、行動主義が心の表面の記述だとすれば、心の内側の構造を記述しようとするものとなるのだ。いかに大脳生理学が進歩したとはいえ、頭を割って覗けば心が見えるわけでもないのだし、皮膚を引っ剥がしたところで、心という塊が出てくるわけでもない。したがって、心の中の構造を調べることは、すでに自然科学から外れていく方向性を示しているのだ。それでも、人工知能研究の影響による情報処理システムとしての心のモデルは、現在、心理学の最も輝かしい領域の一つとなっている。外部における生体反応の研究が観察可能な領域であるのに対し、生体の内部、精神の内世界における過程は観察不可能であり、物理的には調べようがない。S-O-Rの「O」の中の世界を記述すること、それは物理的な生体を対象として捉える視点から、見えない心を対象にしていこうとする視線変更なのである。

 

しかし、情報処理システムとしての心の構造がいかに精緻に語られようと、私という主体の意識の外部に措定された、客体としての構造であることに変わりはない。まさにその点こそが、科学の領域に留まっている根拠でもあるのだが、結局は物理的な脳の構造を語ることと同じ意味を持っているのである。

 

そもそも近代科学に哲学的土台を与えたのはデカルトの主客二元論である。そこでは主観としてのわれわれの精神がある一方で、客観としての世界の実在が確信されている。もし心理学が自然科学であり、しかも客観的世界だけが科学の対象だとすれば、確かに行動主義者が主張したように、客観的世界に表出する行動の研究だけが心理学であり、意識の中の問題は哲学上の問題ということになるかもしれない。少なくとも、心の構造をモデル化したように、客観的対象として心を扱う限り、それは科学なのだ。

 

しかしこの考え方では、心の問題の反面しか解き明かすことはできないだろう。観察主体から見た心ではなく、それを見ようとしている主体の内的世界にこそ、視点を移してみるべきではないだろうか? それは最早科学とは言えないとしても、心の謎を解き明かすためには、心理学は科学と哲学のどちらを切り捨てることもできないことを確認しておきたい。量子力学も証明したように、物理学の世界ですら、客観的対象が実験観察する主体からの干渉を受けないという前提は崩れている。ましてや心理学が扱うのは、この主体そのものなのだ。しかもそれは、意識の世界を内側から眺めるという現象学的方法だけに留まることもできない。私の見る限り、現象学的心理学は完全に科学と袂を分かち、主体が感じる意味の記述に終始しているようである。(注: 現在の現象学的心理学は、フッサール本来の現象学をかなり誤解して成立している。)

 

それでは、無意識はどうなるのだろう? 誰もがフロイトの無意識の発見を心理学史上の金字塔と認めている。だがそれは、まるで機械論的な精神モデルの一部分としての無意識であって、しかもそれは古典的な化石のような概念と化しつつある。近代科学のパラダイムにおいて、意識も無意識もともに客観的世界の一部として対象化されてしまったため、無意識という概念の驚くべき革新性が見失われてしまったのだ。しかし、意識を客体としてではなく主観的世界として捉え直すとき、無意識の重要性は全く新たな様相を現わすことになるはずだ。私の知らない私の欲望を考えるとき、主観的世界そのものの基盤が揺らぐことになる。全ての答えを主観的意識の世界に求めてしまうことが不可能となること、ここにこそ無意識という問題の最大の特質があるのだ。それを心の外側への回帰だと短絡的に考えるのはあまりに早計と言うべきだろう。われわれの心の探究は、まだ始まったばかりなのだ。

 

 

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