ポストモダンクラブ
書き手:いしわたりしんいち
ポストモダンクラブ(略称:「PMC」もしくは「ポスクラ」)は、1996年8月に発足しました。発足までの経緯は、ぼくは実際にそこに居合わせたわけではないので詳しいことは分かりませんが、代表の山竹さんやその仕事の同僚である竹内さんから断片的には聞いていますので、それを参考にして少しぼくの想像を含めて書いていきます。
山竹さんと竹内さんはとある出版社に勤める同僚で、哲学や思想について語り合うのが大好きだったそうです。2人は仕事帰りに飲み屋で酒を飲みながら語り合うことが日課となっていました。
1996年5月か6月のある日、そんな彼らがとある天麩羅屋でいつものように哲学談義に華を咲かせていたとき、ふと「サークルでも始めようか」という話が持ち上がりました。それは2人で議論することがマンネリ化してきて、すこし新しい風を吹き込ませたい、という願望からでした。このとき2人は、このサークルが30人以上からなり4年間も続くことになるとは夢にも思わなかったことでしょう。
パソコンでのネットワークが認知されつつあった時期にこのような発想が出たのは非常に幸運であったかもしれません。というのはポスクラとパソコン通信(インターネットも含む)は切っても切れない関係だからです。サークルのメンバーを集めるにあたり二人が目をつけたのは、パソコン通信でした。とりわけニフティサーブ(以下、ニフティ)というパソコン通信の媒体でした。山竹さんはとりあえずニフティの掲示板に募集広告を出しましたところ、予想以上に大きなリアクションがありました。7月8日には1人、12日には4人、21日は15人の問い合わせメールが山竹さんにメールボックスに届きました。
2)ポスクラ初顔合わせ、そして初会合
1996年7月28日(日)ポスクラの初顔合わせが今でも時々使う新宿の
「談話室滝沢」にて行われました。このときの出席者は山竹・竹内両氏を含めて5人でした。しかしそのうち2人はポスクラを去って今はいません。顔合わせということで、自己紹介やおのおのの関心分野、またどのように運営していくのかなど話し合われたのかもしれません(まだぼくはいなかった)。
そして、2週間後、8月17日に2回目の顔合わせ、このときは3人集まりました。翌週の23日(金)には7人集まりました。こうして、メンバーの輪は広がっていきました。
この時期のことを竹内さんは懐かしそうにこう語っています。「また会員が増えた、とうれしそうに話す山竹さんの顔がとっても印象的だった。特にその会員が女性であった時の喜びようは・・・」、と。また、当時サークルに足を運んだ会員の中の一人は「はじめは人さらいの集団かと思った」と冗談混じりに語っています。そうですよねぇ、得体の知れないサークルに足を運んだ勇気はたいしたものです。とりわけ当時のニフティの掲示板にはとっても怪しい募集広告(おそらく宗教がらみやねずみ講みたいなやつ)がたくさんありましたから・・・。そのなかに埋もれるようにポスクラの広告がありましたから、いくらまともな内容の広告でも疑念のひとつも浮かびますよねぇ~、ふつう。実際、ぼくが初めて訪れた時(9月)もかなり警戒して出かけました、そんな心配もみんなに会ってすぐになくなったけど・・・。
3回のプレ会合の後、9月からはテーマを決めて議論をすることになりました。1996年9月7日(土)ポスクラ初会合
となりました。初のレジメ担当者は山竹さんで、テーマは「コミュニケーション」でした。当時のレジメは現在のそれとは違って、項目列挙の箇条書きになっており本来の意味での「レジメ」でした。現在ではレジメというよりレポートのような体裁をしていますが、現在でも慣用的に使われている「レジメ」という言葉はここに起源があるやもしれません。この会合の参加者は計8人でした。
ぼくはこの会合からポスクラに参加しており、あの日のことはよく覚えています。みんな楽しそうだった、という印象があります。みんないろんなことを考えて日頃生きていますが、こういった世間一般からみると「堅苦しい話」を話す場はなかなかないので、自分の考えを述べる絶好の機会となっていました。参加したメンバー全員がそういったアテネの「アカデメイア」のような場所を渇望していたのかもしれません。ぼくにとってもオアシスであり、いまもポスクラはオアシスでありつづけているのです。自分の考えは人に影響を与え、かつ人の考えは自分に影響をあたえる、そんな知的刺激の交換の場がポスクラであるのです。
次回に続く・・・