1)「シリアのヤコブ派キリスト教徒」とは・・・

 

「シリアのヤコブ派キリスト教徒」、これを聞いてすぐにピンとくるのは、よっぽどの中東オタクであろう。キリスト教徒には違いないけれど、ヤコブ派など聞いたことがない人がほとんどだと思う。しかし、エジプトにいるコプト派キリスト教徒なら聞いたことがある人もいるかもしれない。いうなれば、コプト派のシリア版がヤコブ派である、といえばほぼ間違えない。

「コプト派」もきいたことない人へ、説明しましょ!

中東と言えば、ムスリム(イスラム教徒)ばかりである、という見方はある意味では正解だが、決して言い切れないのも事実である。特にシリア・レバノン・エジプトあたりにはムスリム以外にもキリスト教徒がいる。現在でもシリアでは人口の10%程度、レバノンではなんと40%、エジプトでも10~20%のキリスト教徒がいる。そのキリスト教徒もいわゆるカトリック、プロテスタントと言った西欧系のセクトではなく、ローマ帝国期にローマ教会から分派した単性論派(ヤコブ派・コプト派・マロン派・アルメニア教会など)やネストリウス派の末裔やビザンツの流れをくむギリシア正教系の末裔などである。だからローマ教会とはあまり関わりがないセクトが多い(多かった、つまり十字軍以降にローマと教会合同を試みたグループもいるので完全に無関係とは言えない)。

この中に出てきたヤコブ派(シリア教会)がぼくの関心領域、そういわゆる「単性論」という考えを採用したセクト、ローマ教会がとる「三位一体」とは対立する考え方をもつのです。もっとも、当時(ローマ帝国期)の論争でそうなっただけで、しかもその論争も政治的な意図が複雑に絡み合っていて、「単性論派のいうこと」と「三位一体派のいうこと」にそれほど大差はなかった、される場合もあるのですが、一応、「単性論」VS「三位一体」の思想論争で両者が別れたようです。それから1500年以上もの間、ローマ教会とヤコブ派はほぼ別々の道をあゆんでいきました。 つづく・・・(2000/6/15)

 

 

2)ヤコブ派キリスト教徒の十字軍侵入までの歴史

 

紀元前後から7世紀まで、シリア地方はローマ帝国とそれに続く東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の東の辺境に位置していました。また、隣のパルティアとそれに続くササン朝ペルシアとの係争地でもありました。前述の通り、ヤコブ派はローマ帝国の正当派(アタナシウス派)からは異端扱いを受けていましたが、シリアは辺境であったために生き残ることができました。また隣り合うササン朝では対ローマ対策からむしろヤコブ派を保護していたといいます。こういった状況は7世紀にシリアへイスラムが侵入するまで続きました。

 7世紀になると、ムスリム(イスラム教徒)がシリア地方に雪崩のように侵入してきました。そして、ササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国勢力もシリアから追い出されました。こうしてシリアはイスラームの支配下に入りました。イスラームに支配されたシリアの住民(キリスト教徒)は、すぐにイスラームに改宗したのでしょうか?答えは「否」です。この話は意外に思われるかもしれませんが、実は侵入してきたイスラームの人たちにとって、住民の改宗はあまり興味がなかったようなのです。彼らは支配者階級としてシリアに入植しましたが、その他の住民はキリスト教徒のまま残りました。

キリスト教徒はムスリムにとって「啓典の民(ジンミー)」として扱われます。すなわち一神教の先輩にあたる、と考える訳です。ジンミーに対しては強制改宗せずとも、一定の税金(ジズヤ)を支払さえすれば彼らの信仰と生活を保障することになっているのです。ですから、強制改宗はあまり行われませんでした。むしろ一定の税収が見込めるので、改宗されない方が為政者にとっては財政が潤うからよい、と考えられていたようです。

というわけで、驚くなかれシリア北部の農村地帯では10世紀になっても(イスラムの侵入から300年以上経っても)人口の半分以上がキリスト教徒である、という状態が続きました(都市部ではかなりイスラム化が進んでいたようだが・・・)。そして、シリアにおけるキリスト教徒のほとんどがヤコブ派だったのです。このような状態の中で、シリアに十字軍がやってくるのです。

つづく(2000/7/12)

 

 

3)十字軍がシリアにもたらしたもの

 

十字軍が遙か彼方、ヨーロッパからやって来ました。ムスリムたちは彼らの真の目的をはかりかねていました。最初は新手の巡礼団かと思われましたが(当時イスラーム支配下のエルサレムにもヨーロッパから多くの巡礼者が来ていた)、その目的がエルサレムを占領だと言うことがわかるとシリア中が大騒ぎになりました。当時シリアは小国家の群雄割拠状態でしたから、十字軍にとっては非常に占領しやすかったようです。十字軍という敵が現れても相変わらずムスリムの君主たちは内輪もめをやめませんでした。なかには十字軍国家と同盟を結んで共同作戦で他のムスリム君主の国を攻める国がでる有様。少なくともイスラームの側では対キリスト教徒という対立軸はなかなか出てこなかったようです。一方、ヤコブ派をはじめとする土着のキリスト教徒たちは新たな集団の出現にだいぶ戸惑ったようです。ある者は同じキリスト教徒ということで十字軍の協力をし、またある者はムスリム君主とともに十字軍に立ち向かいました。ヤコブ派の人たちにとっては同じキリスト教徒といえども得体の知れないものという印象が十字軍に対してあったようです。

 

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